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問いを深めることがレッスンの意味

初めの問いはその人にも分からない、がデフォルト

教室のドアを開ける人はさまざまで、音楽に対して持つイメージや思いは、みんな違っています。そして、その憧れや、問いへの対象はまだ曖昧です。はっきりとこうしたい、と言っている人でも、私なりに解釈し、それをどのように実現していくか筋道をたて具体的に関わろうとしてみると、その「こうしたい」はその対象を掴み得ず、結局理想というのは、曖昧なもんです。それは、当然だし、仕方ないことです。だって、まだ未知なもの学びに来てるんだから、全部わかってたら、その人にとっては私は必要ないわけで。

それで、その曖昧なものが、曖昧なんだということを共有しつつ、音楽の要素を”絡んだ毛糸をほぐすよう”にしながら、また、少しづつ揺さぶりをかけながら、体験に落とし込んでいきます。そして、少し、それまで知らなかった音楽の何かを拾って、曖昧なもののなにか一つか2つ光が当たり始めてから、あらためて、その人が何を求めているのか、を、私の方も探ってみたりします。

受講者さんとは「教える、習う」の関係というより、音楽の言葉を共有できるツールを増やして行く、という感じが理想。

個人レッスンでは、そうしながら、受講者さんから何が体験できていて、なにがまだ実感につながっていないかとか、何が琴線をゆらしているかとか、感覚的に何を中心に聞いていて、それは、広がりを持っているものか、他を制限しているものか、とかを私も観察するし、その人の気づきなども詳しく話し合います。

レッスン、というものの中には、「対話」が欠かせないのです。

今旅の途中で、どんな道を歩いているのか、ご飯はどこで調達するか、目的地はあるのか、あてどない旅でそのプロセスを味わいたいのか、レッスンごとに舵を微調整しながら、レッスンします。

そうしてるうち道ができてきていて、音楽体験の深まりと演奏の変化になっていくようです。そうしたら小さな次の目的は見えてくる。そうしたら、継続できて、ちゃんとふかまってもいけるようになります。

人の中にある自然の摂理

私が思う音楽というのもあります。そして、それなりに学んできた私ですから、それなりに「理」もあるつもりです。でないと、教えてはいけないとおもうし。無知で許されるとはおもわないからこそ、時には、感じていること、音楽としての「理」も伝えます。

でも、それをその人が咀嚼し理解して、自分で判断いくのには、その人のプロセスもあって、一筋縄で行くとは限りません。でも、ときには私が考えていた以上に深い解釈が生まれてきてたりして、私は私で、きちんと責任を果たして教えながら、そういった生きたプロセスを潰してしまわないように用心します。(が、読みきれないことも多々あり、まだまだ修行中やなあと思います。)

そうして、人と関わるなか、その幾人かのプロセスのなか、
自然の摂理に似た法則性に触れた思いがすることがあります。

そこには
音楽によって人が、人によって音楽が深まっていく秘密があり、それは決して解読不可能なものじゃない、ちゃんと、共有できたりします。これが私自身の体験にも跳ね返ってきて、私自身も最近は自分の演奏を楽しめるようになったし、うんと自分に近い音楽になってきたと思います。

音楽への追求はがむしゃらに演奏の練習をすることだけじゃない

よく聞くことが大事、といっても、何を聴いていいのかもわからない、最初はそんなもんです。たとえ音楽大学をでていたって、utena.m.fを訪ねていただく戸を叩く人の耳を拝借してみると、やっぱり、初心者と変わらない悩みを持っていたりします。

私達はとにかく、「弾く」「演奏する」ことだけに向かってがむしゃらい頑張ってきました。

でも、こうやって、問いを丁寧にききながら、その人が自分の音楽フィールドを作っていくこと、受け身ではなく、わからないなりに一歩を踏み出せるように、何をしたらいいかを模索するのです。お互いに、ですね。見つけるのは私でもなくその人ひとりでもなく、場(フィールド)に落ちてて。そういうことが楽しいです。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!