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自分のわからないを許せるかな

プライド、というものが
理解を妨げてる、という場面によく出くわします。

ああ、それはわかってる、と、人は言います。
言わなくっても、その人が心でそう思ったときに
ああ、これはそういうことなんだろうな、というリアクションがあって
もうそれ以上なにかが伝わっていかないことが
悲しいかな、それが通路を塞ぐ蓋になっててそこにぶつかって押し返してくる波のように戻ってきてわかる。
プライドはプライドとして、その反応に思わず壁を作ってしまうのは、その人ではなくて私のほうでした。

最近やっと、
きっとそこに通路ができるには時間が必要なことだから、
下手にそれを塞ぐ蓋を作らないで、
結論とか、正論とかをうんとあとまわしできるようにしておくほうが
あとが良いと思えるようになってきました。
互いのために。

わからない、に気づくことは
うしろ向きに伸びた影に気づくようなもので、
かんたんなことじゃない。
うしろにまわって、ほらここに影があるじゃないの、
と自分以外の人に言われるよりは自分で気が付きたい。
うしろの影がみえなくて
怒りやいらだちにかえて ひとは「わかってる」と言う。
私も言う、きっという。

今は思う。

わかっている、というのは
たしかに、なにかがわかっていて、
そして、もうこれ以上立ち入らないで、ということで、
やわらかく、変容していくには時間がかかるということ。

わからないことが溶けていくときに人は育っていくんだということ
その可能性を蓋で覆ってはいけないということ。

だから私も、わかってる、と即座に判断するまえに、

わからない自分を許せるところまでもう一歩後ろに下がってみれるようにしたい。

影はうしろについてるときは見えないんだ、それでいいんだ。

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この記事は 雑感マガジンに掲載しています。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!