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”かわず”はどこに住んでいるか

一昨日の記事で、子どもの分際で、先生より「古池や蛙飛びこむ水の音」に関してはわかっとるわい、と思っていた小学生(私)のことを書きました。

一昨日の記事 →カエルが飛び込む音の背景に

この記事では、私にとっては、日常がカエルが池に飛び込む風景につながっていることを書きましたが、逆に、改めてこんな問いが生まれてきてしまいました。つまり、

実体験がなければ、あの句は理解できないのか?

ということです。

むしろ実体験などなくても「かわずが水に飛び込む音」を聞く人はいるのではないか、ということ。たとえ都会の雑踏の中でも、病室の乾いた空気の中でも。引きこもった部屋の中でも。

芭蕉の耳に触れた「かわずの飛び込んだ音」は、リアル古池、でなくてもよかったのではないか、むしろそれを意図したのではないか。この句のすごさは、実体験のない人にもこの句に なにか身に覚えのある、という感情を呼び起こさせるところにあるのではないのか・・・。でも、それはどうして?

そのわけのひとつとして、芭蕉の感覚器官に読み手の感覚器官が同調していく、という作用があると思います。主役は古池でもかわずでもなく、その感覚にある、のかもです。耳を澄ます、あるいは、おのずと耳を開いていく余白。聴覚だけでなく、視覚だけでなく、微細な感覚や、無意識とつながってもいる感覚。さらに人間というのは、見てもいない、きいてもいない、そのかわずと古池を思い起こすことができるんだから、すごい。

さらに、ユング的に考察してみたら、もしかしたら誰しもの内奥には”古池”があって、そして、そこに、一瞬の音と波紋を残したカエルの存在を知る。いや、カエルが音を立てたことで逆に古池の存在に気づく、とか。ええ、もちろんそういう体験もあっていいはずです。

そこには、単に情景ではない、なにか、が人の心にはあって、それはしかも、なぜだか共有もできる・・そしてそれを感じ取る感覚器官もまた人は持っているんでしょうねえ。

だから、私のこころの内奥で、そして、だれしものこころの内奥で、その感覚器官の先に、あの”かわず”は生きている、なんか、そんな気がしてきました。

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理論についてはこちら  音楽の生まれる場所から

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!