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実家の野菜記録10/4

実家の庭とその周りはちょっと不思議空間です。知らない人が道路をあるいててうちをみつけたとして、家の向こうにある庭がこんなふうとは思わないかも。
河岸段丘の上の平野にあるので、視界を遮るものがなく、面積もまあまあ広い、なのに、周りからは見つかりにくくて、まあ、いいとこです。河岸段丘の突端には昔祠があったという茂みがあったりします。

自然の流れにわからわない植物とのつきあいが無性にやってみたくなり、一月まえから雑草を抜かずに野菜を育てる準備をしていました。

その敷地内、父が残した田んぼはもう貯水池の管理ができなくなり、放置されていたその場所は、今年は外来種の背の高いイネ科の穂が田んぼ一面に広がりかけていました。親戚の人が時々荒れすぎるのをなんとか防いでくれていて、それで、おそらく見かねての除草剤。枯れた草原をみて初めてこれでいいのか、と自分ごととして捉えはじめました。

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ここにコスモスをうえよう、と思いついたのは、姉。

姉からそうラインがきたとき、なんだかとても嬉しく。

ここからよ、と。


思えば、去年は生え放題になっていた雑木などにも無関心で気が付きもしなかった。昨日、田んぼの端に生えている「かたし」(山の山茶花)の木々に葛が覆いかぶさっているのに気がついて、せめてそのかたしのところだけ光が当たるようにしたけれど、その向こうの大きな木々の上まで葛は這い上がっていました。2年人の手の入らない森はあっという間に人を寄せ付けない場所になる。

先週チマサンチュの苗を植えた畑は順調。

今日は人参やごぼうなどを植えて来ました。

柿や木瓜の実が落ちていたのも、畑にほうり投げておきました。鳥が来て、糞を落としてくれたりするかなー。

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もしも、生命というものがなかったら、時間というものもなかったのかもしれない。時間というものがなかったら、音楽もなかったかもしれない。無理に生命と音楽をつなげるつもりはないけれども、音楽ワークもこの畑との付き合いも、今、なにかかすかな衝動によって、動いている気がします。私の中で。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!