もしも将来この社会が荒廃していくとしたら3
音楽と「音楽の元」
乱暴だけれども、
音楽から、楽器も楽譜に書いてあることも取り除いたものを
「音楽の元」とここで仮に呼ぶことにします。
それは、音楽が音としてこの世に生まれ出る瞬間までの動きや空間や人の体感のようなもの。あるいは、地上にあまねく遍在しとりとめのないことを、人でなければできない、分けたり、くくったり、結んだり加えたり、取り除いたりすることによって、見えないはずの場所に形をなしたもので、時間軸の中をうごめく「それ」です。それは西洋の土壌のもと、音楽の中で生じてきた自然現象と人間の知恵の混じり合ったもののこと、と言ってもいいかもしれません。
その音楽の元は人の
体験の共有
非言語の伝達
多相のものを多相に伝える
構成し配置し、それを動かしていく
自分ではないものの声をきき、それに多相に自分を配置する
そんな力としてはたらく
いろ かたち うごき 重さ ゆるさ 曲線や動線、そんなものであるかもしれません。
私達はそれをことさら「音楽」とよぶこともなく、名付けられることもないまま、人の営みと運命をともにしています。と思うのです。
人と人のあいだで音楽の元が生きる事ができる社会
私は音楽教室で「なにをおしえたらよいか」わからなくて悶々としていたある時、「そうか、人間の社会が荒廃していくということと、音楽が荒廃していく、ということはおなじフィールドで起きることなんだ。」とはっと気がついた、ということを書きました。下の記事がそれです。
なぜなら、それは、人の感覚というものを通してしか生きられないのが音楽だから、人のもっている感覚の情報の豊かさと自由が脅かされる時には、社会と音楽の双方のダメージは同時に起こっているに違いないと思ったからです。
人と人のあいだで音楽の元が息をできる社会ならば、そして豊かな音楽が生み出されて、親しまれていく社会ならば、希望もそこにあるのだと思います。それは過去でも現在でも未来でも。
社会のもつれた毛糸
私は、対話によってしか、社会は良くならない、と考えています。
いくら、一方が正論をぶつけても、もう一方は頑なになるばかり、そこで溶け合って一つの世界をつくっていくことなんかできない。
そもそも、自分が考え、感じている世界など、もっと広い世界の一片にすぎない。そして、あまりにも今の社会はそのことを知らない、と思います。
それで、社会はもつれた毛糸みたいになっていて、どこかを引っ張ると別のどこかが突っ張る、そうやってますます絡んでいってるように感じるのです。
私は小さいときから、「どちらかの味方をしなければならない」というのができなくて、小さな子ども社会のなかでもよく迷子になってしまいました。だれかが白が正しい、というと赤の味方をしてしまう、赤のほうが美しいといえば、白も美しいと言ってはどうしてだめなのかがわからない。そうやって気がついたら取り残されることが多くて、赤組にも白組にもいけない私の弱さにただ立ちすくんで生きて生きたような時期がありました。ずっと迷子。
そして、今になって、赤にも白にも味方できない弱さが、社会にとって必要なことだと思うようになってきています。たくさんの情報量を拾うこと、それは感覚とも深くむすびついていると思います。
実は同じように感じている人の多くが、私と同じように音楽をシェルターとして、そこに救いを求めているのではないかと思うのです。講座をするようになってますますそれを思うようになりました。
小さな音楽教室には強力な武器がある
社会が荒廃していかないように、「音楽の元(感覚のひろがり)」がどうどうと社会の中で染み渡っていく一つの方法として、私は音楽教室の存在意義が変わっていけば良いなと思います。
音楽教室の先生は、真面目な人が多いので、どうしても、ちゃんと弾けるように、ということに目標設定してしまいます。でも、もし、レッスンのたびに、その人自身が自分の感覚を育て「音楽」を感じられるように整えてあげる、ということになったら、そうして、人がより多くの情報を自分の感覚で拾い判断の幅を広げられるようになる支えとなれるなら、社会の末端から、世界が変わっていくのではないか、と私はおもうのです。弾けるようになる、ということだけに目を奪われてしまうと、その人の体感はおいていかれてしまうかもしれません。
音楽教室が扉を叩く人と一緒に「感じること」の先へ冒険に出かける。その道案内をかってでる、ということになれば、岩から泉が滴るようにして社会に染み込んでいき「社会」の「感覚」もまた変わっていくのではないでしょうか?
幸いにも私たち音楽教室というところには、ノルマも指導要領もないから、好きに始められます。今からでも変えられる。
音楽というのは伝達ツールです。それをつかって、いつでも始められる、自分のペースで。演奏を、ではなく、音楽の種を具体的に一人ひとりに丁寧に伝えていくことができる。社会に貢献できる。
お題 #こんな社会だったらいいな について
noteのお題 #こんな社会だったらいいな というのを見たときに私は自分に書きたいことがあると思いました。で、豊かな音楽にみたされた社会みたいなのを書いてみたくなった、でも、書きながら、無理、って思いました。私には、理想の社会とのあいだの埋まらなさのほうに目が行ってしまうからだと、わかってきました。
社会というのは一気に変わったりはしない。
それで、私はその理想の社会と現実の間を少しづつ変えていける希望の種みたいなものを書きたくなりました。そして自分の足元を照らせるようなもの、恐ろしくまだるっこしいけれども、実現可能な具体的な橋を思い描いてみたくなりました。
そして、音楽は生身の体験が変わっていくプロセスを動かして行く力があります。あります、断言したい。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!