雑草・雑木のなかのこみちは
雑草・雑木という呼び方は、いかにも雑なくくりやなあ、と思います。
雑という呼び名をかき分けていって見えてくる植物世界地図からのびてくる道は・・・
風景としか見えていなかった世界が
実家に帰るたびに敷地内を歩き回るようになったのは
栗の実が落ちる秋の頃でそれから冬を越して春、そしていま夏に向かってまっしぐら。
在来の見慣れた植物もあれば、帰化植物もあって、
ずっと小さいままのものもあれば、あっという間に背丈ほどになってしまうものもあります。
最初は風景としてしか見えてこなかった土地ですが、行くたびに私の解像度が変わっていき、それまで見えていなかった様々な植物とその習性に気づいていく・・
それは、小さな暮らしの穴から始まる壮大なファンタジーのように、
あるいはもしかしたら
折りたたまれていた小さな紙片が実はすごい折り紙でどんどん新しいフェーズを生みながら展開していくように、
田舎にいって野山を歩き回るたびに世界がどんどんと変わっていきます。
一つの植物の情報
一つの草をみても、その好む場所、広がる範囲とその方法が種なのか根なのか、他の植物と共存できるのか単体ではびこるのか、春夏秋冬でどんなふうに展開していくのか・・・・
葉や花のレイアウト、風にそよぐ様からみえる茎の強度・・・
季節との関わり方・分枝の法則・根の張り方・・・情報というのはいくらでも拾っていけるもので、それは、その植物の観察からや、時にはネットの情報からも拾っていきながら、私の中で、その植物は日々進化していく感じがします。
そして、見れば見るほどに見えてくるその美しさ。
例えば、農地を飲み込んで行きそうな勢いだったアカメガシワのこぼれた種から映える小さな苗のその芯の赤が周りの緑に映える様。左右対称に広げる葉。
土地を専有していくこの樹木、にくいばかりではなくて、それはやっぱり美しくて、魅入られます。
このアカメガシワと共存するためには、アカメガシワを知らなきゃいけない。そうやってますますそれぞれの植物の中へとどんどん誘われていくのでした。アカメガシワとアリの共存関係とか、アカメガシワの倒木をキノコが好むこととかだとか、知れば知るほど、その世界との関わり方に思いを馳せるようになり、とても駆逐してしまおうとは思えなくなってきます。
風景としか見えていたかった世界のいつの間にか自分はそのファンタジーの世界にはまり込んで冒険をしていて、その世界でハサミを一つ使う、鋸を一つ操るということが、その世界を変えていくことになる、ワクワクと畏れ。
グイグイ引き込まれていきます。
これがゲームではなくてリアルなので、その手応えも相応で。そして自然はリアルに返事を返してくれる。
月に数回その土地に立ち寄っているうちに、いろんな時間割り・空間割りの世界線が見えてきて、そうやって関わっていくうちに、耕されていったのは、私自身の中の植物地図の方でした。
知っていたつもりでなにもしらないことなんて、山程あります。
その前人未到の地に道がつく感覚。
そして頭の中の植物地図は身体感覚ともつながっていて・・・その世界線から、この時代のむきだしになった人の感情と、歴史のプロセスを眺める、という思考回路の細い山道がつながりそうな気もしています。
必要度が解像度に
農作物の侵略者として十把一絡げに雑草・雑木、と呼ぶフェーズで、植物と向き合ってきた農業のこの数十年が、生態系を大きく変えてきてしまったことも見えてきました。
錬金術よろしく、土から野菜を取り出すために、人は土を耕したり、除草剤で植物をリセットしようとしてきたけれど、生命の営みに敵うはずもなく、より凶暴化していく生命、狂っていく営み。実のところそれは、近年はじまったものではなく、人類史上程度の差はあれ常に行ってきたことで。今更、そのすべてをてばなすことができないことも事実。加えて高齢化、農業の産業としての地位の低さ、という社会事情。
面白いことに、ドライブの途中で見えてくる風景も私の感じ方は変わってきていて、その耕作放棄地に生えている植物の種類によって、生命的にどんな圧力に耐えてこうなったかがなんとなくわかるようになってきました。つまり除草剤をかけたのか、草刈り機で刈ったのか、それがどのくらい前の出来事なのか・・自分のムダ知識になんか笑える。そうなったのは、自分が関わる場所があるからで、庭仕事だけしていたらずっと見えなかった世界です。
たった4っつのアイテムで
小さな剪定バサミと、スグレモノの高知産の小さな鎌と、女の私が手早く使える折りたたみの鋸と、小さなスコップ。持っていくものはこれだけで、眺めるだけでなく風景の中の世界にはいっていくことができます。
何を取り除く?どこをどれだけ手入れする?
駆逐することではなくて、方向づけることで共存できないか。いつも思うのはそこ。(もしかしてこれはSDGsなのか・・・)これは、きっと全てに応用が効くプロセス認識に違いないと思うのです。いや、ぎゃくか、私は仕事を通してそれを見てきたから、その目でこれをみてるのか、まあ、それはどっちでもいいけど。
母が突然リセットをかけてしまう土地なので、ある日突然ゲーム終了となるかもしれないところではあるけれども、私も性懲りもなく生命の一部のように、そこに棲まいながら、ここから学び続けたいと思うのです。
なぜ?
そう生命の地図を心のどこまでも伸ばしていくために。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!