過ぎ越しの犠牲2節め

音楽を”見る”ために必要なことと必要のないこと。

立派な学歴や業績があるではないけれど、いいの。


私にはなんの後ろ盾もない。
それで、正直すごく心細い。

なにか目に見える実績があるでなく、
立派な学歴や業績があるでなく、
日々、utenaの戸を叩く人と一緒に
音楽とともに生きようとする動線を描いてきて
延々それが語りかけるもの、見えるものから
教えてもらいながら、
人から生まれる音楽と、もう出来上がっている音楽をながめていた。
音楽というのはその人の中にある。

喜びにもいろんな喜びがあるし、
悲しみにもいろんな悲しみがある。

何かを得るとき、
何を得るのか、そのとき同時に何を失うのか
それとも手放すのか。
なにが、いいとも悪いともなく。
もう、そこには様々なパターンが有るわけで。
そういうことを眺めてきて、
なんとなく自分に対して感じていること。

すごく心細いけれども、
きっと、私がもし、後ろ盾を得て、なにか特別な自信なんかが湧いてきたら、
そのときは、今追いかけている筋は見えなくなってしまうだろうと。

生きた人の体験だけを集めて眺めてきた。
だから、私を支えているものは、そういうものしかない。

そして、ほんの少しだけ、
この自由さ、自在さを嬉しくも思っている。
自分が何者でもない自由。

その自分で誰かと出会う。
だから見えるものがあるから。

この仕事、わけあって世に出してしまったものの、自分のやっていることに自信はなくて、おっかなびっくりだったです。
けれども、人と関わって、人がなにかを掴んでいくプロセスを見ているうちに、大事に育てていけば、きっと役にもたってくれる、この 「音楽を描く」という方法それ自体に情報を引き出す力があることを今はもう疑ってはいなくて、ただただ、でも、何者でもない自分がそこにいる。

この心もとなさを、でも大事にしなくちゃと思う。

自分の「音楽を描く」を育てることとは自分を育てること

写真は、5年目の受講者さんの、レッスンのとき描いたものに御本人が注意書きしたもの。もう一枚、別の方の描いたもの。

自分の感覚を正面から見つめている、人の姿が美しいと思うし、誰でもきっと、そこに立つことができる。
そこからしか始まらない音楽があるとおもうし、その蕾が自然に開いていくものを眺めていたい。
そのためならなんでもするんだけどな、と思う。

だから、後ろ盾がない、ということが、私にはメリットだったってこと。


愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!