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音楽の背中・暮らしの奥に(日記)

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大人や子供がやってきて音楽をまなぶここutena music field での出来事と、日々のふりかえり、明日への希望などを。 音と音のあいだにある音楽と西洋音楽の仕組みへの敬意…
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2020年6月の記事一覧

○をつける、てことが無粋におもえてきた

ずっと慣れ親しんできた方法だけど楽曲が次々並んでいるテキストを順番に生徒に弾かせて「できたら」○をして次のページをめくる。 ほぼ無意識に繰り返してきたこの方法も疑問に思い始めました。 いや、うすうすかんじていながら、手放せないだけ、なんですが。 子どもたちにとっては、○をしてもらう、というのは先生に認めてもらった、とい思えるし、お母さんも褒めてくれるから、嬉しいのでしょう。わーい、なんて手を上げて喜んでくれると、私の方もいい気持ちになります。○をつけて次へ進むというのは推進

utena.m.f風の音楽室〜オンラインその後

風の音楽室生徒たちが完全復帰して、音楽室は風の中フル稼働となっています。 風の中、というのは、ワーク中も部屋中の窓を開け放しているから。 これ、本当はずっとしたかったことなのですが、ご近所迷惑になるかな、とできなかったこと。でも、庭はあのとおり、広々としているし、ご近所さんたちも温かい人ばかりなので、甘えさせてもらうことにしました。 風が子どもたちの笑い声やまだまだ細いピアノの可愛い音色をさらって行きます。 わらべうたを歌うあいまに鳥の見事なさえずりが合いの手を入れて

utena.m.f先生をやめます宣言

ちょっと意地悪ないたずらみたいに、生徒さんに 「センセね、先生をやめることにした。」 というと、生徒さんたちのいろんな反応が面白く。 マスクで全表情が見えないのが残念でもあり。 でも、そう、 先生をやめるの。先生と呼ばれることを。お仕事はもちろんこれからも続きます。 オンライン、という選択肢が増えたこともあり、また、いつ、生レッスンができなくなるかもわからないし、そして、今、現実東京でのワークが停止したままで、それらも全部ひっくるめて、いろいろ考えています。オンライン

教育、と学ぶことは別

教育が過剰になること「教育にはなにができないか」 以前そんな題の本を手にしたことがあります。 事細かにはおぼえてはいないのですが、この題のインパクトが示すとおりで、発想の転換としていい本だったと思います。こういう引き算の思考は、物事をシンプルに動かしていかざるを得ないこれから、大事なんじゃないかなと思います。物事から何かを引き算して抜いていったとき、くずれていってしまうような、そういう抜き方になることも危険なので、ほんとにこういうことを今じっくりかんがえないといけない。(今

演奏に近い体験をひきだす

楽曲の解釈は、 その楽曲が解き放っているものを いかにこちらが、それを受け止めるボキャブラリーと器の深さを持っているか、 にかかわるものだとおもいます。 解釈とは、ぱらぱらをめくる本のようなものではなくて、体験です。 そして、解釈は演奏を後押しする、いや、演奏する必然性にまで高めていくもので、普遍的体験であり、同時に個的な体験となって初めて、その解釈が血肉になっていきます。 昨日は、本当に久しぶりの愛媛でのワークショップ。 結局、すごく大事なのは、私がそこで扱う曲を

「わかりやすさ」からこぼれおちてゆくもの

ニュースレターを配布しています。HPで希望された方、ワークに参加された方に向けて、不定期でニュースレターを書いています。普段はワークショップ案内をさくっと書いて送るくらいなのですが、今回は出だしから、6月の中止のお知らせ。 今回は、書くのに何日もかかりました。 今考えていること。 書きながらやっと考えがまとまってきたような気がします。 以下、今回はnoteにもあげることにしました。 また、過去記事なども上げていきたいと思っています。 このところ考えていることここのところ

ききいる

ききいるという行為の中には 自分を失っていくという意味と 自分を使っていく、という意味がある。 どちらがどうということではなくて どちらもある。 音楽というリアル時間と精神空間の中の生の構成作用は 意識を活用しながら、 忘我を体験しながら すすむ 自分を見失う、ということをよく聞くけれど、 音楽をまなぶということが 自分を見失わないための知らず知らず訓練になっているような そのための音楽リテラシーを これから作りたい。 utena drawing が不可