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○をつける、てことが無粋におもえてきた

ずっと慣れ親しんできた方法だけど

楽曲が次々並んでいるテキストを順番に生徒に弾かせて「できたら」○をして次のページをめくる。
ほぼ無意識に繰り返してきたこの方法も疑問に思い始めました。
いや、うすうすかんじていながら、手放せないだけ、なんですが。

子どもたちにとっては、○をしてもらう、というのは先生に認めてもらった、とい思えるし、お母さんも褒めてくれるから、嬉しいのでしょう。わーい、なんて手を上げて喜んでくれると、私の方もいい気持ちになります。○をつけて次へ進むというのは推進力を肌で感じる事ができるし、レッスンのリズムをつけていけるよいツールです。

でも、はたと思い至ってしまった。

その子自身は、何かを本当にそこで得ることができてるんだろうか?
「先生に認めてもらう」ことでいいんだろうか?
○をつけてそれで終わり、でいいんだろうか?

生徒によっては、

「あ、○つけないでね、この曲好きやけん、まだ弾きたいんよ。」といいます。
○つけたら終わりになっちゃう。
ここで、もうひいて楽しめないんだって、そうかーーーそうなるよな。

大人の方にも、私は時々いいます。○はつけませんが
「ああ、よくなりましたねー。」と。

そしたら、時々こんな声が返ってきます。

「?私にはわからないんだけれども、先生が言うなら、そうなのかな?」と。

私は体験以外の何かで学ぶ人を納得させようとしてないか?
確かに良くなっている。でもそれは感想ではなく、評価として伝えてしまっているのかもしれないな、と思います。
外から評価することに私は慣れすぎていないかな。○をつけるっていうのはそういうことなんですね。

そもそも教育現場は○だらけ

そう、学校というところはとにかく、○をつけて評価します。
そして、そうしないと人は先へ進めないくらいに思い込んでいたりするのかもしれませんが、本当にそうなんでしょうか?
○をつけない学び方なんて、もう想像すらできないくらい。

教える側としては、ここまでは伝えたい、というのがあリます。それは、義務だし、良心です。それの全行程のうちのこのヒトヒラできたね、ということで、○をつけて目印。○の先に次を提示できる、ということもある、できてもできなくてもいい、で済ますわけにもいかないんですよね。誠実にやろうとして○をつける。

また、一方で、○をつけるなんて「権威主義」で持ってる側の押し付けだなんて、声もたまにきくけれども、そういう受ける側のルサンチマンを受けてこういう事を考えてるわけでもありません。それはそれで、この問題が絡まって歪んでしまった結果なので、丁寧にほぐして、同じフェーズまで持ってきて一緒に考えたいことではあるのです。

まあ、先生が
「○がついたらこれでおわりってわけじゃないのよ」
なんて嫌味(のつもりはなくても)たっぷりに勿体つけたりするから、余計絡んじゃいますね。先生の側としては正論ではあるけれども・・・

○には一定の効果もあることは確かなのです。
○をつけてもらいつつ、でもわからないままのことも、○で印をつけながら先へ行くうちに、以前学んだことの意味をもっと後で知ることもあります。

自分を楽しむのは難しい

こと、音楽の場合、自分の演奏を振り返るのって、実際ほんとにやりにくいことです。
自分を正当に評価なんてできるでしょうか?
だから、誰かに一定の評価をしてもらうと、ホッとしたりします。

○をつけてもらったら、あるいは、良かったねーとみとめてもらったら、一定のなにかはクリアしたのかな、と思えるから、手応えはたしかにありますね。そういう評価をたどっていくうちに、「よい」ってのはこういうことなのかな、と思い始める。そしてそこを目指すようになる。

でも、それでもやっぱり疑問を持ち始めてしまったのです。私はここもう一年モーツァルトのソナタ延々弾いていて飽きないのに、生徒には丸つけて次、といいます。そういうところに。

オンラインでの生徒たちとのやり取りを通じて、「やりすぎ・てをかけすぎ」だった自分に気がついたことを前にかきましたが、そういうことがきっかけになって○をつけることも、どうなんかなーと思うようになってきました。

例えば、生徒さんのなかからむくむくと何かが湧いてくる、湧いてきたそれがなにかをつかもうとその触肢を左右にふりまわす。そういう事がすごく大事だった。それを大事にすすめていけないものかな、と。

一方で、私は「みんな違ってみんないい」というフィールドでずっとなにも変化しない自分、というのは、仕事がら、そのままにはしておけないのです。だって、自分は変わるし、深めるし、広げられる、ということは私にはそこが一番生きてて楽しいところなんです。それと、「みんな違う」ということは別のことなんですよね。やっぱり難しくても自分の触肢をうごかして、その触肢の感度を上げていくことが、その人の幸せともつながっていく。ああ、考えてみたら「みんな違ってみんないい」という、金子みすゞの美しい言葉も、一つの外からの評価になってしまったときに、いきなりハリボテになってしまう気がします。いい、ってのは○ってことになっちゃうのか。

少なくとも自問することの意味

じゃあ、どうするか、というところまでは自分の中でまた到達できていないのですが、少なくとも自問してみなければ、考えを深めていかなければ、ならない。ならないというか、もう習慣だからと今までと同じ基準で○をつけるのは嫌だな、と思います。

今一つちょっとひらめいたのですが、
一つの楽曲にたいしてではなくて、
一つのテキストをうんと掘り下げて、消化していく、という方法はどうだろう。

大事なのは評価ではなくて、理解だし体験そのものだし。

奇跡の教室というのを思い出しました。
以前に興味があって、結局読んでいなかったかも。
中勘助の「銀の匙」を3年間かけて読むという国語の授業。

関係あるか、ないか、どうかな、読んでみよう。

*写真は私が作ったテキスト。曲も自分で書いています。既成のテキストではどうしても伝えられないものが会って。これもまだ創作半ば。



愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!