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ボイトレを受けてわかったのは、自分が腹式呼吸がわかっていなかったことと、裏声も出したことがなかったこと。 コロナ時代、すっかり歌わなくなった時期はちょうど私の身体が老年期にさしかかった時期でもあり。で、本当に歌声がまともに出なくなった。全ては歳のせい・・と思っていたのだけれど、ちがった。 色々トレーニングで得た知識で自分を振り返ってみると、そもそも喉を潰して高音を出していたようで、若い頃はそれと知らず地声で高いソ・ラあたりまで引き上げて歌っていて、ちょうど中音部あたりがへた
場(フィールド)がみずから生命を持つことについて、何かにつけ、考えてきました。 コンサートでもそうだし、ワークショップでもそう。 対話とかもそうかもしれない。 組織、グループ、街、コミュニティ、学校・・・ 条件が整えば、それはきっと可能なはずだ、みたいなことを漠然と考えていて でも、じゃあ、どういうのが”みずからが動き始める場”なのか、それはその場に居合わせる人が皆感じるものなのか、自転し始めた場はどこへ向かうのか。 先週末の土曜日、ほぼ二週間以上ぶりに実家に帰ってきました
音楽の背中・暮らしの奥に(日記) 10月6日に一般的にいうところの音楽教室の発表会、うち的にいうとリトルコンサートが終わって、一週間の休みの後、レッスンが始まって2回目。 いつもののんびりな音楽室に戻っています。 あくびばっかりしてる男の子。話ばっかりしてくる女の子。笑 一人一人の生徒についてコンサートでの出来具合とこれまでの手帳の書き付けから何が必要かを書き出してみたり、改めて観察してみたら、左手の指番号の脳内マッピングが真反対だったことに気がついて、今更ながら修正した
言葉の切れるところ 音と音の間を繋ぐところに きっと人としての本質的な何かが息づいていて それは、美しいものでもあるし 有象無象の跋扈しているところでもある 聞き取れないものに耳を澄まし 触れられないものに手を伸ばす 一番遠くの音は、私に何を伝えようとしているのかしら 寝転んで風の匂いを嗅ぐように 画用紙の前でもの思う これから描くのは 絵ではない 描くのは音楽 私の。 奏でるように描き 描くように奏でるそこには 自分の音楽が間違いなく、 そして否応なく 自分の音楽で
新幹線に乗って、二つのレッスンを受けてきた。 オイリュトミーと発声法。 60年生きてきてもまだ、 自分の身体には知らない場所がたくさん眠っていて それはそう簡単には動き出さない。 思い込みや習慣で動かしてきた体を もう一度やり直してみよう、というところ。 そしてこの楽しさをなんと伝えれば良いだろう。 私はまだ世界を知らないし、 音楽に届くにはまだまだ未知が溢れている。 イメージはわかる。 そうそう、それなんだけれども、もどかしい。 私はそれができない。 それが身体で動き
生徒たちはリトルコンサートの曲に だいぶ熱がこもってきた。 特に高学年、中学生の集中力はこっちが羨ましくなるくらい。 暗譜も大体できたが、まだ何かが重い。 どうしてもつっかえる。 など、まだまだ磨くところがいくらでもある。 音楽の、その曲のその音群をどう音出しするか を、事細かにやりとりする。 生徒をよく観察する。 思うように弾けないらしい。 干渉してくるのは、楽譜上の理解の問題か、聞こえているものの偏りか 肘や肩の余分な力か、体のバランスか。 あるいは、この先に続く音
ピアノの先生にあるまじきことだが私の指は、生傷が絶えない。 草を刈るのについうっかり手袋をしないで、のこ鎌でガリガリやっていて そういう、ついうっかり、っていう時に限って、 自分ののこ鎌で、自分の指を傷つけてしまう。 そうやって傷ついた 右手の人差し指側面(左手に道具を持っていたから)には のこの歯の幅のいく筋もの小さな引っ掻き傷がついていた。 ろくに人の話を聞かないで ワーワー言っていた女の子が 突然にそのトーンを落として 「どうしたの?その傷」 と、神妙になったので、
8月11日ホームページに記事を上げました 高校生弾き語りする 高校生の女子、高校まで1時間以上かかるだけでなく、バリバリのテニス部、練習練習遠征遠征で、話を聞いてみるとほんとにいつやすんでるの?って聞きたくなる。 高校に入ったばっかりの頃は、疲れと緊張からか、あちこち痛めては、うちまでたどり着いたはいいけれど腰の痛みが激しくて、ずっと温湿布当てて寝てるだけで終わってしまったこともあった。 無理に続けなくていいよ、体の方が心配やから、と言ったときもあったけれど、彼女は辞める
音楽教室をしている先生たちと月に一度話し合いをしている。 こうやって話が通じ合い、考えを深めあえる場があり、 そこに、互いの話を聞くことができる人がいることが 本当にありがたいし、頼もしいと思う。 今回のテーマは「10年後に向かう音楽」について 激変していく世の中と、 音楽。 今回は、ただただ、10年後世の中ってどんなふうになっていて 音楽がどのように広まっているだろうか、とか 自分の音楽との付き合いは10年後どうなっているだろうとか 自分の仕事や音楽教室はどうなってい
愛媛訪問者からのお便り 6月に愛媛までおいでくださって、「音楽を描く」個人ワークを受けていただいたKさんからお便りが届きました。 Kさんは東京にいくたびお世話になっている、 東京アレクサンダーセンター(TAC)の生徒さん。 センターでは、生徒さんがプレゼンをして自己学習を深めたり、共有したりするユニークな方法をされています。 その一環で、愛媛での出来事を取り上げられたそうで、その内容をセンターさんがアップしてくださいました。 その話の前に、Kさんが学んでいるアレクサ
カエルのおんぶ 生徒が音楽室に入ってきて、窓際のガラス細工のカメレオン? に話しかけているので、 カエルをわたしたら、 なぜか背中にのせて見せてきて、 その様がおかしくてかわいくて なにやってのよ、といっしょに笑いながら写真をとった。 10月のコンサートがきまって、譜読みが始まっている。 そして、まだまだはかどらない。 ひとしきり笑ったあとは、 集中もいい。 今日は捗ったね。 まだします 楽譜をよむのがどうしても気乗りしない 幼児さんにはしばらく楽譜を諦めて めりさん
(独り言です・・^^) 音楽が荒廃するとき、人も荒廃している それは 「音楽って一体何?」と問い続けてきた私が行き着いた場所で 何かを言い当てることができない代わりの 音楽を続けていくための手がかりのようなもの。 音楽を”描く”ことによって 人と音楽の間のいろんなことが 現れてくる。 私が見ているのは現象であって 核心ではない。 現象と一緒にたゆたっているだけだ。 どこへ向かえばいいか、心細さがいつもついてまわる。 けれどすでに気がついていることなのだけれど 「音
受講者さん、東京ワーク→愛媛に。 5月10日、東京で東京アレクサンダーセンター(TAC)でのワークショップに参加いただいたKさんが、ご実家の広島から、なあんだ、海を越えれば愛媛じゃないか、ということで、フットワーク軽く、東温音楽室まで、個人ワークを受けにおいでた。 どうせなら、このワークが生まれたその場所で、その空気感も感じたい、とKさん。 ほう、そこに何があるのか、私も知りたい。 ワーク 音楽と感覚を育む 到着して、少し庭を散策したり、授業中のTACとオンラインで繋
昨日、NHKで福岡正信の足跡とご家族のドキュメンタリー「ハッピーヒル」をみた。 その中で一際私の心に残ったのは、 「やらなくていいことをしない選択をしてここに行き着いた、」 (少し違っていたかもしれないけど・・・) という意味の言葉。 それ、音楽プロセス体験も同じかもしれない。 福岡正信さんのことを知らないかもしれないから少し説明するね。 耕さない、肥料もやらない、雑草と一緒に野菜や果樹を育てる自然農を、近代において、はじめに世に問うた人で、たくさんのタネを泥団子に仕込んで