教育、と学ぶことは別
教育が過剰になること
「教育にはなにができないか」
以前そんな題の本を手にしたことがあります。
事細かにはおぼえてはいないのですが、この題のインパクトが示すとおりで、発想の転換としていい本だったと思います。こういう引き算の思考は、物事をシンプルに動かしていかざるを得ないこれから、大事なんじゃないかなと思います。物事から何かを引き算して抜いていったとき、くずれていってしまうような、そういう抜き方になることも危険なので、ほんとにこういうことを今じっくりかんがえないといけない。(今おなじ著者の「教育改革のやめ方」という本を読んでいるところ。)
オンラインのレッスンをしばらくさせていただいて、ほんと、いっぱい勉強になりました。その中で、感じた「自分はどうも手をかけすぎていた」という気づき、以前に記事にしたものです。
このときの彼はその後も迷走中です。笑
よく弾けてるんだけど、迷走する。今までなら、そこまでできてるんやったらいいや、と○にしたかもしれない。でも、互いが納得がいくまで何度もやってみようと思っています。そこを素通りしてしまっていたから突き詰められなかったものがあるし、本人もまだついてきてる。好きな歌だから。
そのために、他のテキストなんかはもう今やらなくたっていい。そもそも、いつのまにか私は、全体性、と言いながらすべてを「こなす」ことに傾いていたのかもしれないと思います。
伝わる、理解する、体験し、やってみる、というプロセスは浸透圧のようなものかもしれない。教育はときに過剰になり、それを逆流させてしまったりするものだと思います。
そもそもが教育というのもがどう転んでも、当事者目線にはなれない、ということを自分はもっとよく考えておくべきなんじゃないかと思いました。
それを教えてくれたのが彼で、そういえば、こうやって私は娘や息子、生徒たちから、教育、というのとは別の回路を通って、学んでくることができた。むしろまさにそこに「学ぶ」ことの本質はあるのじゃないか。
学ぶ、ということ、と教育は立場が違う
私は子どもにせよ、大人にせよ、何もしなくても自然にものが学べる、とは思ってはいません。自分から動き始めたり、他者の働きかけがあったりして、そこで共振があって、動いていく。ことに音楽というのは人が作ったものだから、人を介することがすごく何かを変えてくれる。
きっと意識的であれ、無意識であれ、人は学びたいという欲求を持っていると思うし、「学ぶ人」は、道を進む光を必要としています。
でも、「学ぶ」側の内面と、教育という他者目線はそもそもが立場が違う。
私達大人は教育という引手があるために、つい、その力を行使する。
「学ぶ」ということと「学ぶ対象」とが純粋に出会い発展してく成長プロセスよりも、出来上がり完成図の方向から逆算して合目的的にレールを敷いて行く方向を選んでしまうのですが、その間の「体験」が抜け落ちると、出来上がっていくものに学ぶ側は愛着を持てなくなる。そもそも、学ぶということはプロセスではないのかしら。もちろん学んだ結果の「できる、わかる」は嬉しい収穫だけれども、そのプロセスに人は「生きて」いるんじゃないかと思います。
教えることではなく人が音楽を獲得していくことに興味があった
私はとにかく、「先生」と呼ばれるのが苦手でした。そういえばこんな記事を書いたことを思い出しました。とにかく「先生」は居心地が悪い。
それは、今わかったのですが、私が興味があるのは、これまでもあちこちで再々書いてきたことですが、音楽が生まれる場所、その瞬間に興味があった、ということなのです。それと、「先生」と呼ばれることの違和感とつながってきました。
あと、「教育」や「先生」という言葉の枠組みの不自由感、いえ、それは事実ではなくて、私がまだきっと本当の意味でのそれを知らないからなんだと思うのですが、そして、向き不向きで言ったら、不向きな性格なわけで、そう、そんなこんなで不自由さを感じてしまう。基本、音楽なんかやってるんだから、気ままなやつなんです。創造の現場に生きたいと思っています。音楽の様々な創造のプロセスを知っている人間として、人に伝えたい。
再び「学ぶ」ことと「教える」ことを出会わせる
でも、そう、創造の場と学ぶ場はおなじになりえるし、というか、きっと同じだし、そこに他者の知恵や知識や体験、実感、手応え、思考の方法は、必ず必要なのです。
ここのところ、ずっとそんな事を考えていて、
やっと、多相的にその景色を見つめられるようになってきたように思えます。これからやっと実践です。
考えてみたら私、あと二年で60歳ですわ、このくらいかかるかー。
思うようなレッスン、いえ、もうレッスンじゃないな、ワーク。思うようなワークをするには、どうしても既成のテキストでは構築できない。音楽を体験と知識とのどちらもを大切にして学ぶテキストを作成し始めました。動画や音声で伝えられる今だからできることなのでしょう。
utena drawingもしっかりとそこに組み込んでいくことになるでしょう。
根っこは同じ。
新しい一歩です。ワクワクします。
*冒頭に書いた「教育には何ができないか」は広田照幸氏の著作です。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!