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プラスチックの水溜まり


アイスコーヒーを注文する。氷ばかり多いそれに費用対効果を考えながら公園のベンチで飲む。あっという間にコーヒーは飲み終わり、呆れるほどの氷の山だけが残るカップを眺めながら首を横に振る。カップを脇に置いて本を広げる。貯金生活のすすめと題されたその本のやめるべきことという項目にはカフェとコンビニとある。やれやれだぜ。最近気に入りの一言を口にしてから右手で脇に置いたカップを持ち上げる。溶けた氷をストローで吸い上げながら、文中の「身の丈に合った生活」について考える。身の丈とは、一体誰が決めるのか?自分で自分の身の丈を決めたとき、そこで自分の成長は止まるのではないか?なんだか深く考えられそうなテーマかもしれないぞとそわそわして、そんな自分をもう一人の自分が制した。あなたは、普通だよ。大したことないよ。自分のなかを通り過ぎるもう一人の自分の声に、納得しつつも、反論したくなる自分がいる。だって反論してあげなければ自分を生きることの意味を失いそうになるから。そうだ、自分の思考回路が誰かより劣るかそうでないか、そんなこと、誰にわかるだろうか。難しい言葉を多用すれば偉いのだろうか。そもそも難しい言葉とはなにか。人を煙にまく言葉がそれというならば、私は難しい言葉など使わないでいたい。言葉言葉言葉...。それはシェイクスピアだったか。ひとつの言葉にすべてが内包されていることもあるし、ひとつの言葉では表しきれないものもある。それは、言葉の不思議であり、魅力であり、魔力でもある。

伝わるようにと伝えられた言葉の束と、伝わらないようにと伝えられてきた言葉の束。そのどちらにも同じだけの深さと重さがあるではないか。

溶けきった氷を飲み干すと、カップに無数の水滴が残った。果たしてこれはどれだけ環境に配慮されているのだろうか?矛盾を飼い慣らせなければ生きることは難しいのだろうか?透明な容器にくっついたいくつもの水溜まりを眺める。太陽に照らされたそれは、真昼に咲く無数の星のように光り輝いている。

「きれい...」

角度を変えると七色に輝くその水溜まりを飽きもせずにしばらく眺めた。

「神は細部に宿る」ふとそんな諺を思い出し、その後に、優しい祖母の顔を思い出す。沢山の諺と沢山の昔話を教えてくれた人。私の水溜まりには祖母が今も生き続けている。祖母との思い出は沢山ある。そして他にも思い出は沢山ある。私には生きてきた時間だけの思い出がある。

思い出というものは、極めて個人的なものだ。思い出とは、自分と外界を繋ぐ出来事のなかで、自分が強く印象に残ったものだけを切り取り所有する行為だとおもう。だから、思い出が事実ではないことも沢山ある。では思い出は嘘なのか?いや、そんなことはない。思い出は事実ではなくとも真実でありえる。それはひとりひとりの心の眼で捉えた真実。

「思い出に浸るなんてナンセンスだよ」

だから私はそう言い放つ人間を信用してはいない。捉われることには用心も必要だけれど、浸ればいいとおもう、いくらでも、ふやけるくらいに。

人生、前進なんてし続けられないし、前進だけがよいものともおもわない。思い出を馬鹿にすることは己の真実を踏み躙る行為だとおもう。心の眼で見たものを、そんなに簡単に捨てたりしてはいけないのではないかしら?

透明な世界に点在していた無数の水溜まりは、いつの間にかすっかり干上がってしまっていた。

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