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il mare 海の秘密



わたしの il mare には
祖父も愛犬も生きている


どこまでも続く一本道に
エンドロールみたいに
イタリア語が流れる

早すぎて聞き取れず読みきれず
勉強不足に唇を噛みながら
なんとか集中しようとする

祖父の声で朗読されるそれにはきっと
大切なメッセージがあるはずなんだ

ずっと伝えたかったとその声はいう
伝えていたけど周波数が合わなかったと
いまはクリアになっているからと

周波数が合うのは
どちらかがこの世界から
いなくなるときだけ

わたしはそれを知っていて
だからものすごく悲しくて

あなたは安心しているみたいだけれど
わたしは聞きたくなんかなかったよ

でも聞こえる以上
聞き取りたい

最期の、コトバ、を

視界がぼやける

il mare

その単語だけを聞き取る

al mare

海だ

海へ 海へ

私は走る

夢のなかの わたしは
どこの海だか知っている

転ぶ

膝に血が滲む

生きているから痛いんだ

il mare

視界がひらける

どこまでも続く水平線に
エンドロールみたいに
音楽が流れる

革靴と日本車のエンジン音
夏祭りと蕎麦を啜る音

自営業だった祖父は
退職しても
背広に革靴だった

大きな手を引き上げる
小さな小さな手で

滑り台をよじ登る
わたしは裸足で
あなたは革靴で

ツルツルコツコツ

へたくそな
タップダンスみたいに

でも世界一のタップだった

かぼちゃの馬車は、お城へ
白い車は、大きな公園へ

また聞けると
どこかで期待していた
でもいつまでも車庫は空で

現実は
小さくなる背中と
空の車庫。

祖父が祖父であるとは

つまりそういうことなのに
わたしはどこかで期待していた
(気づいていなかったけれど)

また夏祭りで綿あめを分け合えると
また二八蕎麦を啜り合えると

わたしはどこかで期待していた

転移する黒いものに
何度も何度も立ち向かい

最期は安らかに逝った
老衰だった。

病気になったわたしの
最大の理解者だった

同じ薬を飲んでいたから
よく副作用を二人で笑い飛ばしたっけ


浜辺に黒い点がみえた

近づくと

黒い点は

体内の水分が抜け出して
乾涸びかけている祖父だった

「海に還るんだよ」

祖父の声が頭の中で響く

わたしの涙が
祖父の頬にかかり
祖父の頬が少し膨らむ

「なんか若返ったみたいね」

わたしは泣き笑う
涙を吸って膨らむ
頬に手を当てながら

祖父も笑う
ふっくらした頬を
持ち上げながら。

優しい瞳の奥には
戦火を走る祖父の父や
もっとずっと
遠い時間の人たちがいる

どんどん透明になっていく

祖父の透明なからだが
波音にさらわれていく

そうか
からだとおとが溶け合うと
海や波音になるのか

「ありがとう」

さいごまでわたしに
大切なことを教えてくれて

本当に、ありがとう。



目が覚める
金色のキラキラ
枕元には小さな海

わたしの il mare には
祖父も愛犬も生きている
そしてみんな生きている

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