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没頭する能力と交換不可な社会性

私は物書きが(割と)得意なのですが、それは言語野が発達しているということや、論理的思考力が備わっているということ、表現したい事象が多いこと、物事に気が付きやすいということ、様々な要素が複雑に絡み合って発現している能力です。

最近「違国日記」という漫画を読み漁っていて(読み漁っていると表現するには10巻までしか出ていないのでそう多くはないのにと思われるかもしれないけれど、もう5周くらいしているので読み漁っていると言いたい)、主人公に近い登場人物に小説家が居るのですが、物事に集中してしまうと周りの声が聞こえなくなってしまったり、電話に出るのが苦手だったりという、いわば天才肌、逆に言えば発達障害的な側面を持っています。その特殊さと覇気に周り(特に姪)が憧れたり苛立ったり馴染んだりするのが本当に美しい漫画で、しかし本人はそれはそれでコンプレックスでもあり苦しんできた人生でもあり、しかしそれだけに含蓄のある言葉を吐く人で、と、これ以上の詳細は置いといて、

物書きというかクリエイティビティと没頭というのは常に紙一重な部分があるのだろうなあと改めて思わされました。姪と同じように、私も憧れてしまっているのかもしれませんが、しかし実際のところ物書きに集中しながら、もしくは何かの制作に没頭しながら、同時に社会的生活を送ることがかなり難しいだろうことは想像できます。物書きのはしくれ(はしくれもはしくれですが)として、たった1000文字を1週間に一遍書くだけの連載すらままならない。家事やって仕事やって家族と会話していたら、そっちの脳味噌ばかりが動いてしまって、まずは目の前の生活を、となってしまう。社会性ばかりが育ってしまう。

一定の自堕落というか、このままだったらどうしよう、みたいな恐怖感、焦燥感、絶望感、怠惰さ、高慢さ、苛立ち、落込み、このあたりの要素が、私がモノを書くのには常に必要になってくる気がしています。それには、冷蔵庫の食材に対して晩御飯のメニューを考えたり、家族と一緒になって新居の家具をインターネットで探したりすることは、ほとんど真逆の行為で、私の制作欲求を潰してしまう。社会性はマルチタスク的な要素を常に孕んでいて、自分の中の感情と向き合う没頭を奪い取ってしまう。

1Knoteが止まっていることへの自らへの戒めを意図しての記事でした。
ゆるゆると続けていきます。たぶん死ぬまで。

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