『詩とメルヘン』掲載作品「メロディ・ライン」
夏から秋へと移り変わるこの季節、しおりは毎年のように風邪をこじらせる。今回も発熱とだるさに身体の自由を奪われることになった。食欲もなく、薬を飲むのも億劫で、仕方がないので、今日は一日安静にしているよう、彼女は母から言われていた。
布団の中はいい按配に温かかった。多少の耳鳴りが気になりつつも、しおりはこの心地良さにうつらうつらとしていた。母は離れにある教室で、生徒にピアノを教えている。従って、彼女の浅い眠りが妨げられることはないはずだった。
夢の中へ入って行くうっすらとした意識の中で、しおりは不思議なピアノの音色を聞いた。聞き慣れない曲だった。その音が現実のものであるとわかった時、しおりは奥の部屋にあるピアノを誰かが演奏しているのだと思った。
二時を過ぎている。母は三人目の生徒を教えている最中だ。しかし教室は離れにあり、こちらのピアノを使って稽古をすることは滅多にない。不審に思い、しおりは布団から身を起こすと、紫色のカーディガンを羽織り、階下へと降りて行った。
誰もいるはずのない唯一のフローリングの部屋。そこにピアノはある。誰かが奏でる音色も、確かにそこから聞こえてきていた。しおりはそっと戸を開けた。
だだっ広いその部屋には、茶色のグランドピアノと小さな本棚以外は、特に目立った家具はない。大きな窓と薄いカーテン。それらだけがこの部屋をいくらか明るくしていた。
その窓を背に、少女はピアノに向かっていた。髪を短く切り上げ、上下ともに白い服を着ている。逆光で顔はよく見えないが、ただ、やわらかな日の光を浴びて、彼女の髪は金色に輝いていた。
しおりは曲が終わるのをドアのそばでずっと待っていた。そして少女が最後の小説を弾き終えた時、彼女としおりは互いに向かい合い、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
声の具合から、しおりは自分と同じか、もしくは同じくらいの年齢だろうと察した。
「生徒さんですか」
「はい、先生にここで待つように言われました」
少女ははきはきと答えた。
「あ、もしかしてピアノ弾きますか?」
彼女は慌てて楽譜を片づけようとした。しおりは急いで首を横に振った。
「いいえ、続けていて下さい。二階にいたらピアノの音が聞こえてきて、それで、母かと思って降りてきたんです」
その時、少女の手にしていた譜面の中がちらりと見えたが、しおりにとって黒い音符の羅列は、まったく不可思議な、意味のないものでしかなかった。
「学校は、もう終わったのですか?」
「いえ、そうではなくて、今日は風邪で休んでいるんです……ここは日光も入って来るし、寒くはないと思います。でも、もし足元が冷えるようでしたら、そこにあるスリッパを使っても構いません。きっと三時には母が戻ると思います。私は二階にいるので、何かあったらいつでも呼んで下さい」
そして、そそくさと戸を閉めようとした。
「あっ」
しおりはふと少女を振り返った。
「さっき弾いていた曲。あれは、何て曲ですか?」
「さっき弾いていた曲?」
少女はちょっと首を傾げた。
「ああ、あれはショパンの舟歌です。嬰ヘ長調作品十六番。きれいな曲でしょう」
「舟歌……」
「私の一番好きな曲よ」
相変わらず光に邪魔されて、少女の顔は見えない。しかし、微笑んでいるようだった。
二階に戻り、再び布団の中にもぐって瞼を閉じると、しばらくして、少女が弾くピアノの音が、また聞こえてきた。先ほどと同じ曲、舟歌だ。
玉を転がすように、音符は波の上を滑る。小舟はその波に揺られ、どこまでもどこまでも行くだろう。
しおりはその不思議な世界の中で、自分がその小舟の中にいるのを知った。一緒に揺られ、青い波の上を行く。その心地良さは、しおりを夢の中へと引き込み、彼女はうとうとと眠りに落ちて行った。
二階を上がって来る足音で、しおりは目を覚ました。窓からは橙色の光が差し込んでいる。辺りはすっかり日の暮れだった。
「熱は下がった?」
しおりの視界に母の顔が現れた。虚ろな目で、しおりは母を見つめ返した。
「今、計ってみる」
しおりは肘をついて、温かい布団の中から身を起こすと、体温計を探った。
おや?彼女は思った。身体が軽い。だるさも耳鳴りも、すっかりなくなっている。そればかりか、周りのものがやけにはっきりと見え、どうしたわけか、すべてが新しい。
いつもなら、この時期の風邪はたっぷり一晩眠らないと治らない。それなのに、今、しおりの頭の中はとてもすっきりとしている。まとわりつく、あのもやもやとした気だるさもない。
「リンゴ持ってきたけれど、食べられそう?」
甘い蜜の香りがして、母が八つに等分したリンゴを、しおりの目の前に差し出した。
「うん、食べたい」
しおりは受け取った。
「よかった。あなた、朝からほとんどなにも食べてなかったでしょう。これじゃあ、薬も飲めないし……でももう大丈夫そうね。顔色もいいわ。きっと熱も下がってるわよ」
リンゴを口に運ぼうとして、しおりは昼間来ていた少女のことを思い出した。
「今日来ていた生徒さん、いくつ?」
「河野さんのことかしら?」
「ううん、女の子。私と同じくらいだと思うんだけど……」
母は首を傾げた。
「今日は学生の日じゃないわよ」
「二時頃、下のピアノで待っていた子よ」
「いやねえ。あそこのピアノは、ずっと使っていないわよ」
母との会話はまったく噛み合っていなかった。ぼーっとしているしおりの額に、母は冷たい手のひらを当てた。
「大丈夫?」
しおりはあの時少女が弾いていた曲を、はっきりと覚えている。不思議なメロディ・ライン。そして、まるで光を背負うようにピアノに向かう少女の姿。
「私、ピアノ始めてみようかな」
夕焼け空を映した部屋の窓を、秋風が軽快にこつこつと叩いた。
(おしまい)
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