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帝都の復讐姫は作家先生に殺されたい 1-2 浅草十二階下の迷い人(2)

 月日は流れ、河原では涼しい秋の風がススキを揺らすようになった。

 その日、悧月は新しい本を手に、十二階下にやってきた。夕暮れ時になって空は曇り、どんよりとしていたが、あちこちに灯りが点って私娼窟は目覚め始めている。
 憑捜がいないのを確認してから、彼は花墨の家の引き戸をからりと開けた。
「花墨ちゃん、失礼するよ」
 奥の衝立の陰から、花墨が顔を出した。
「お兄さん」
「新しい本を持ってきたよ。あれ、子どもらは?」
「今はちょうどみんな、それぞれねえさんたちのところに行ってる。そろそろねえさんたちが連れてくると思うけど」
「そうか。ん、新聞を読んでいたの?」
 草履を脱いで上がった悧月は、ちゃぶ台の上に広げられた新聞に目を留めた。
「そう。ねえさんのお客さんが持ってきたやつをもらったの。……憑き病でまた人死にが出たんだね」
 花墨の視線の先には、死亡記事が載っている。
「ああ……実はこれ、僕の知ってる人の家で起きた事件なんだ」
「え、そうなの?」
「高等学校の級友の家でね」
 彼は顔をしかめる。
「家族に憑き病患者が出て、発症して。彼も巻き込まれて亡くなった。それほど親しかったわけではないけど、あまりに残念だ」
「……」
「実はこの本も彼に貸していて、ご遺族が返してくれたんだけど……」
 迷いつつも、悧月は鞄から本を取り出してみせる。
「君が読みたがっていた本だったから持ってきたけど、もし嫌じゃなかったら」
「うん、ありがとう。読むわ」
 花墨が受け取ろうとした、その時。
 
『さわっては、いかんぞよ』
 
 突然、あどけない子どもの声がした。
「? 花墨ちゃん、何か言っ……」
 顔を上げた悧月は、ぞくりとした。

 花墨の肩口から、ぬ、と白い顔の上半分が覗いている。
 三、四歳くらいの、幼い女の子だ。その目は黒々としていて白目がほとんどなく、そして髪は真っ白だった。

 悧月が口をパクパクさせながら指さすと、花墨はハッと振り向く。
「あっ……ちょ、『星見ほしみ』、出てきちゃだめ」
 女の子は犬歯の目立つ口をもう一度開いた。
『そのごほんは、あぶない』
「き、君は……?」
 悧月が聞こうとした時だった。

 本が、びりり、と震えた。
 そして、ゆらりと浮き上がったのだ。

 一回り大きくなったように見えるその本は、上下に、まるで野犬の顎のように荒々しく開いた。ぐわっ、と牙が生えて花墨に襲いかかる。
「危ない!」
 悧月はとっさに花墨を引っ張り、胸に抱き込みながら転がった。本はちゃぶ台に突っ込む。バキバキッ、と音がして、ちゃぶ台は真っ二つにへし折れた。
 本はすぐにまた浮いて、二人の方へ向き直る。
『ちよみひめさまに もらったちからだ われはつよい われはつよい!』
 ひび割れた笑い声が、げらげらと響いた。
「ほ、本の物の怪!?」
 悧月は声を上げる。

『星見』と呼ばれた女の子は、すっ、と花墨の横にやってきた。そして。
 突然、輪郭がぼやけて青い人魂になったかと思うと、花墨の胸のあたりに吸い込まれた。
 ふらり、と花墨が立ち上がる。
 その姿がどういうわけか、先ほどとは少し変わっていた。肩下までの髪はまっすぐに切り揃えられ、古風な白い着物を身にまとっている。白髪なのを除けば、まるで日本人形のようだ。

(何だ……? まるで、星見という子が花墨ちゃんの身体を借りたかのような……)
 本が、花墨を見た、ように感じた。
 不意にびくりと跳ね、ほんの少し下がる。
『お……おお……まさかおまえは』
『ははうえさまのちからで、かすみをいじめる子には、おしおきじゃ』
 花墨の口から、舌ったらずな幼い声が響いた。

 彼女の身体が一瞬、青く光ったかと思うと、右手がビキビキと音を立てて大きくなった。血管が浮かび上がり、爪が鋭く伸びる。
 ブン、とその手が一閃されると、本は弾き飛ばされて家の戸に激突した。さらにもう一度、手が横薙ぎに振られ、戸は本もろとも外向きに吹っ飛ぶ。道にちょうど人がいたのか、うわあっ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。

 恐る恐る、悧月が立ち上がって見ると、ゆっくりと花墨は草履をはき、本を追って戸口から出て行く。
 倒れた戸の上で、半ば引き裂かれた本がブルブルと震えていた。
『そこなもののけ。ははうえさまのちからは、おぬしにはすぎたちからじゃ。ほしみに返してもらうぞよ』
 鬼のようになった右手を、花墨は本の上にバンと叩きつけた。
 ぎゃあああ、という断末魔の叫び声とともに、鬼の手の下で本が跳ね、青く光る。
 やがて、ふっ、と本は動かなくなった。

 しん、と家は静かになる。いつの間にか降り始めた雨が、パタパタと音を立てるのが聞こえた。
 急に、花墨はパッと立ち上がるとあどけない笑みを浮かべ、その場でくるりと回転した。白い着物の袖が翻る。
『かすみ。ほしみは、わるい子におしおきをしたぞ。えらいか?』
 すると、不意にその表情から幼さが消えた。『花墨の』表情に戻る。
 彼女は小さくため息をついてから、花墨の声で言った。
「星見、守ってくれてありがとう。もう大丈夫だから」
 不意に花墨の姿がブレた、と思うと、彼女の身体からじわりとにじみ出るように星見が現れた。彼女は嬉しそうに犬歯を見せて笑い、花墨の身体にまとわりついたかと思うと、スッと消えた。

 いつの間にか、白いおさげ頭に戻った花墨の目が、悧月を捉える。
「お兄さん、大丈夫?」
「! 花墨ちゃん」
 悧月も草履をつっかけて彼女に駆け寄ろうとした時。
 家の前の路地から、重い足音がした。
 足早にやって来たのは、青い制服。短髪に鋭い目、がっしりした身体つきの、若い憑捜局員だ。
「そこの子ども。白い髪のお前だ。ちょっと話を聞きたい、来なさい」
「お兄さん、こっち!」
 花墨はいきなり悧月の手をつかむと、家の裏手に回るように駆けだした。植え込みの間を突っ切って、裏路地に飛び出す。
「あっ、待て! おい、応援頼む! 白い髪の少女だ!」
 憑捜局員が応援を呼ぶ声がしたが、花墨はすぐ向かいの板塀の板を外して飛び込んだ。悧月が続くと、即座に板を元に戻す。きっちりとは戻らなかったが、ただの古びて歪んだ塀には見えるだろう。
 そのままふたりは音を立てないようにして、いくつかの抜け穴を通り抜けていった。
 
 すっかり暗くなるころ、ようやくあたりは静かになり、しとしとと雨の音だけが聞こえていた。
 とある家の裏庭、軒下に身を潜めていた二人は、顔を見合わせる。
「……ごめん、お兄さん。とっさに連れてきちゃった」
「何を言ってるんだ、君一人で逃げたら追いかけてたよ。手を見せて」
 サッ、とためらいなく、悧月が花墨の右手をとった。
 一瞬、びくり、とした花墨だけれど、すぐに力を抜いて手を預ける。
「元通りの、花墨ちゃんの手だ。よかった。あの本を持ち込んでごめん、僕が悪かった。何かの物の怪だったんだね」
「憑き病の人の家に置いてあった本なんでしょう? 古い本は、長い時の間に何かの妖気を帯びてることがあるんだって。それが、憑き病患者の影響を受けて物の怪になって、暴れたんだと思う」
「ああ……憑き病になった人の周りには怪異が出る、と言うけど、そういうことか。人もモノも、患者の強い妖気を吸って変化してしまうんだな」
「たぶんね」
 話をする間、悧月はずっと、花墨の手を握っている。
(さっきまで、あんな化け物みたいな手だったのに)
 自分を厭わない彼に、花墨が少し嬉しさを感じていると、悧月はためらいがちに尋ねて来る。
「花墨ちゃん、その……さっきの女の子は? 幽霊……?」
「そう。星見っていう名前の、女の子の幽霊。私にとり憑いてるの。嘘をついて、ごめんなさい」
「嘘って……ああ、憑き病にかかってないって言ったこと? それは本当じゃないか、だって憑き病とは違うんだろ?」
「うん。普段は私の中で眠ってるんだけど、私に危険が迫ると目覚めて、私を乗っ取って操ってしまうの。そういえばお兄さん、星見のこと見えてたね。見えない人の方が多いみたいなんだけど」
「見える程度の霊感は、まあ、あるらしい。だから、見たものをネタに怪奇小説を書きたいって思ったわけで」
「だから作家になりたいの? そういうの、『安直』っていうんだっけ」
「手厳しいっ。いやまあ、あとは……作家として新しい名前を自分につけたかった、っていうのもあるけど」
 肩をすくめてから、悧月は続ける。
「にしても、どうして幽霊に憑かれるようなことに?」
 花墨は目を逸らした。
「知らない。わからない」
 悧月は、そんな花墨の様子にもの言いたげだったが、別の質問をした。
「……本が、何だか怯えてたよね。あと、母上さま? とか何とか。あれは何だろう」
「母上さまはよくわからないけど、本が怯えてたのは、星見がすごく強いからだと思う。とり憑いてる私の身体を、変化させてしまうくらいに」
 そしてそっと、悧月の手から自分の手を抜いて、自分の背に隠した。
「最初に憑かれた時は、髪が白くなっただけだった。でも、何度か身体を操られているうちに、さっきみたいに手が変化してきた。いつか、完全に乗っ取られる日が来るかもしれない」
「まずいじゃないか、早く解呪しないと!」
「解呪?」
「お祓いとか、何でもいい。憑捜じゃない人でそういうのができる人がいるはずだ、探すのを手伝うよ」
 悧月は勢い込んだが、花墨は即座に首を横に振った。
「だめ。解呪はしない」
「どうして!?」
 すると、花墨の目に、強い光が宿った。

「復讐したい人がいるから。その時に、星見の力を借りたいの」

「復讐……? どうして? 相手は誰?」
 その質問にも、花墨は答えなかった。ただ目を逸らす。
「怪奇小説のネタには十分じゃない? お兄さん、もう十二階下には来ないで。私が捕まった時、うちにしょっちゅう来てたことがバレたら、お兄さんもまずいことになるかもしれないでしょ」
「そのくらい、どうとでもなる。僕に手伝えることがあれば」
 言い募る悧月を遮ろうとした花墨だったが、思い直して言う。
「じゃあ、一つお願いがあります」
「何でも言って!」
「手ぬぐいか何か、持ってない? 私、頭を隠さないと」
「あっ、本当だ! ごめん、気が利かなくて」
 急いで懐から手ぬぐいを取り出した悧白が、花墨の頭に被せた。整えてはみたものの、髪が多少はみ出してしまう。夜なので、大して目立たないとは思うのだが。
(何だか、ほっとする匂いがする。お兄さんの匂いかな)
 ふと、目元が熱くなった。
 ぐっと堪え、花墨は立ち上がった。悧月を見下ろす。
「ありがとう。私、十二階下をいったん離れるね。憑捜があきらめるまで」
「えっ? どこへ?」
「ちょっと当てがあるんだ」
「本当? 嘘だよね? だめだ、それなら僕のところに」
「何言ってるの? 親戚の家に居候してるくせに」
 ばっさりと花墨は却下し、まるで年上のように彼に言い聞かせた。
「当てがあるのは本当だから、心配しないで。お兄さんは帰って」
「花墨ちゃん……じゃあ」
 悧月は早口で、住所を言った。
「僕はそこに住んでる。何かあったら、必ず頼って」
「わかった。……色々、ありがとう」
 花墨はにっこりと微笑んだ。悧月が初めて見る彼女の笑顔は、暗い中で白い花が咲くような、可憐な笑顔だった。

 彼の横をすり抜けた花墨は、家を回り込んで――
 ――雨と闇に紛れ、あっけなく、姿を消した。
 
 花墨は、足を止めずに歩いていく。
 雨でぬかるんだ地面から草履が離れるたび、ずちゃ、ずちゃ、と塗れた音がする。
(この音、嫌い。あの日を思い出すから)
 
 脳裏に、赤い光景がよみがえった。
 ずちゃ、ずちゃ、という濡れた音とともに、心を凍り付かせるような声が聞こえる。
『どこ。あいつはどこ。どこなのぉぉぉ』
 ずちゃ、ずちゃ。
 それは、廊下から畳の部屋へと入る。古めかしいが豪華なうちきの裾がずるずると引きずられた後に、真っ赤な血の軌跡が残る。
『……いた』
 にやり、と笑った顔は白く、唇は赤い。
「ひっ」
 部屋の奥に追いつめられているのは、和服に割烹着姿の母だ。真っ青な顔でガタガタと震えている。
 花墨は部屋の対角、女からは死角になるふすまの陰にへたり込み、呆然としていた。
『あいつの匂いがする。お前には、あいつの匂いが染み着いている』
 袿の女は、母に手を伸ばす。
『絶望を味わうがよい』
 すっ、と女の姿が薄くなり、母に重なった。
 すると、母の顔から恐怖が、表情が消えた。
「……かあさ」
 花墨が言いかけた時、廊下から荒い足音がして父が駆け込んできた。父もまた、死角にいる花墨に気づかないまま、母に駆け寄る。
「りえ! 大丈夫か!? 何だ、この気配は……何があった!?」
 母はぼんやりと父を見上げ、そして口を開く。
『おや……お前は私の菊を世話してくれた男だねぇ……』
 父は目を見張った。
「菊……? お前、りえではないな!?」
『そうじゃ。私は千代見』
「千代見……?」
『お前は、この女の夫なのだな』
 母は、にまりと笑った。
『ならば、共に死ね』
 どしゅっ、と分厚いものを貫く音。
 父の背中から、何かとがったものが突き出している。
「……がっ……」
 父の身体が硬直し、やがてがくっと膝をついて、横倒しになった。
 立ち上がった母は、返り血で真っ赤に染まっている。右手が異様に節くれだっていて、刀のように伸びた爪を、父の胸から引き抜いた。
(……かあさまが……とうさまを)
 母が――母に取り憑いた怨霊が、ぎろ、と目を剝いて花墨の方を見る。
『おや……可愛……だね。子ども……好き。でも……』
 頭がガンガンして、耳が用を成さない。聞き取れる言葉は、途切れ途切れだ。
『お前も……だから。一緒に……』
 身体を不自然に左右に揺らし、そばにあった化粧台を倒しながら、母が近づいてくる。両親の血に塗れた爪が、今度は自分に向かって振り上げられたが、花墨は動けない。
 その時、花墨は見た。
 怨霊に取り憑かれた母のそばに、幼い女の子が立っている。肩下までの白い髪、白い着物。身体が半分透けていて、やはり人間ではないようだ。
 そして花墨は、その子に見覚えがあった。
 以前、一緒に遊んだことがある。
「……星見?」
 ぽつりと、口から名前が転がり出た。
 呼んでしまった。
 女の子の黒々とした瞳が、花墨を見る。そして、にま、と笑うと、スッと一瞬で近づいてきた。
 腰のあたりに抱きつかれたような感覚。何かが触れ、花墨の中にとけ込んでいく。頭の中が、じん、と熱くなる。
 口が勝手に動いた。
「ははうえさま このこは、ころさないでおくれ」
 自分の口が発した言葉は、はっきりと自覚できた。
『星見!』
 怨霊が、手を止めた。不意に口調が和らぐ。
『何をしているの……? もどっておいでぇ……』
「だめじゃ だってこのこは」
 勝手に、唇が、弧を描く。
ほしみ・・・のものじゃから」
 花墨の顔は、にっこりと微笑みを形作った。
(いやだ、やめて。笑いたくない。母様、父様……!)
 気が遠くなっていく。
 ふと、母の目から狂気が抜けたような気がした。
『花墨、と申したか。我が娘、そなたに預けるぞ』
 母は、長く伸びた爪を、自分の首に向ける。
 爪が首に突きたつのと同時に、母の身体から女が抜け出し、消えていくのが見えた。
 
 ようやく意識を取り戻した時、花墨は凄惨に血が飛び散った部屋の中で、呆然と座り込んでいた。ゆっくりと視線を巡らせると、父も母も事切れている。
 すぐそばに、化粧台が横倒しになっていた。何も考えずにそちらを見た花墨は、鏡に映る自分を見て、小さく首を傾げた。
「……これ……私?」
 彼女の髪は、真っ白になっていた。
 
 それからの花墨の記憶は、夢の中のように曖昧だ。
 ふらふらと外にさまよい出て、親戚の家に転がり込んだらしいが、なぜかしばらくの間、一室に閉じ込められていた。今ならわかるけれど、花墨の髪が白いのを見て親戚は憑き病を疑い、近所に悪評が立つのを恐れたのだ。
 その間に憑捜の捜査が入り、花墨の母が憑き病に侵されて父を殺して自害、娘の花墨は行方不明ということになったらしい。
 それを聞いても、花墨は特に何も思わなかった。あれから涙の一粒も出ない。感情が麻痺してしまったかのように。
 しばらくして、花墨は親戚や使用人たちがひそひそと話すのを聞いた。
『あれ以来、ご近所で幽霊や妖怪が出るって』
『憑き病の患者が呼び寄せる……って噂だよ』
『もしかして、花墨が原因なんじゃ……』
 ある日、親戚の一人が、花墨の髪を黒く染めてくれた。
『白いままじゃ、外にも出られないでしょう』
 と言って。
 しかし直後、彼女は知らない男に引き渡された。人買いに売られたのだ。
 
(染め方なんてわからなかったから、吉原に行ってすぐに色が落ちて、バレて……そして、十二階下へ。でも、もうここにもいられない)
 花墨は、雨の中を歩いていく。
(怪異が、そして憑捜がいる十二階下なら、何か手がかりがつかめると思っていたのに……あの怨霊、星見の『母上』。いつか必ず、復讐してやる。両親を殺された私が、お前の娘の力を使ってお前を殺す。思い知るがいい!)
 
 そうして、花墨は姿を消した。
 悧月は私娼たちに彼女の行き先を聞いたが、誰にも何も言わないまま行ったようだ。
「仕方ないよ、あの子も訳ありみたいだったからね。今まであたしらの子の面倒見てくれて十分助かった、こっちは何とかするから花墨も無事でいてほしいね」
 私娼たちも生きていくのに精一杯で、花墨を探す余裕などない。
 一方で、悧月は何ヶ月も花墨を探し回った。戸口の壊れたあの家に泊まり込んで待ってみたこともあるが、彼女は帰ってこない。読み込んだ跡のある教科書だけが、寂しく置き去られている。
 花墨を別の私娼街で見かけたとか、下町で住み込みで働いているらしいとか、噂を聞いては確かめにいった悧月だったが、結局、会えなかった。
 
◆   ◆   ◆

 翌年、第一次世界大戦が始まった。
 戦争中に悧月は二十歳になり、徴兵されて帝都を離れた。
 そんな中、大正五(1916)年、警視庁は大規模な私娼撲滅運動を行った。特に十二階下は、多すぎる私娼たちの情念が怪異を引き寄せてしまうため、憑捜も協力して大勢の私娼たちを検挙した。
 彼女たちは、運良く他の仕事に就けた者を除いて、再び客を取るために、帝都の他の暗がりへと散っていった。

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