見出し画像

帝都の復讐姫は作家先生に殺されたい 2-1 カフエーの女給は英語を話す(1)

※散文的に数行、戦争描写が入ります

 
 ひっきりなしに聞こえる砲声。
 血まみれの仲間を担いで歩く。
 地面には真新しく、何かを埋めた跡。
 死んだ軍馬は食料になった。

 戦場で『死』に取り巻かれた悧月の中で、何かが変わった。

 

 大正九(1920)年。
 第一次世界大戦の戦争景気に沸いた帝都だったが、戦後にヨーロッパの生産物が入ってきたことで、あっという間に不況に陥った。
 しかしその一方で人口はぐんぐん増え、家々には二つ以上の明かりが灯るようになり、道には乗合自動車(路線バス)が行き交い煙を吐いた。
 戦争報道をきっかけに印刷技術が発達したことで、出版業も活発になっている。

 暑さがようやく和らぎ、秋らしい風が吹く夜のこと。
「お待ちどおさまぁ」
 女給がやってきて、ビールのグラスとカツレツの載った皿を二組、テーブルに置いた。
 ここは浅草寺近くの、とある和洋食堂である。
 すずらんの形をしたランプが天井から下がった店内は、落ち着いた色の家具で統一されているが、壁にはメニューの書かれた紙が貼られて賑やかだ。食器の触れ合う音と、よく通る店員の声、客のおしゃべりが交じり合う。
「おっ来た来た、美味そうだなぁ」
 まだ脂がじわじわと音を立てている揚げたてのカツレツを見て、スーツ姿の中年男性が丸眼鏡越しに目を細め、嬉しそうな声を上げた。
 向かいの席の若い男が微笑む。
「ここのは美味いですよ、よく来るんです」
 久留米絣の内にスタンドカラーのシャツという和洋折衷の服装は、まるで学生のような、しかし学生にしては着物がやや上等なような、曖昧な印象だ。髪を顎下まで伸ばしているのも珍しい。
「そうなんですか。ささ、まずは乾杯と行きましょう、鏡宮かがみや悧月先生」
「先生はやめてくださいよ森さん。まだ本は出ちゃあいないんですから」
 はは、と笑いながらも、二人は乾杯をした。

 悧月は戦争に行く前、鏡宮悧月という名で、遊麓ゆうれい出版の雑誌小説の賞に何度か応募していた。怪奇小説だ。しかし、実を結ぶことはなかった。
 復員後に応募を再開したところ、編集者の森が彼のことを覚えており、それが縁で時々『謡海ようかい』という雑誌に短編小説を寄稿することになった。
「以前よりずっと不気味さが増して、良くなってましたから。こりゃあ化ける、と思いました」
 森は「『遊麓』だけにね! がはは!」と笑ったものだ。
 彼の思惑通り、悧月の小説はなかなかの評判を呼んだ。そこでついに、まとめて一冊の短編集にすることになったのである。
 熱々のカツレツは、うまみも脂もたっぷりで、二人はご機嫌で堪能した。

「にしても、先生は本当に、若い女が憑かれる話を書くのが好きですなあ」
 森は、隣の椅子に置かれた原稿袋を軽く叩いた。悧月の書く話は、とにかくそういう系が多いのだ。
「そりゃあもう。やっぱり憑かれるなら女の子でしょう。物語に色気と凄みが出ますよね」
 にっこー、と悧月は満面の笑みを浮かべた。
 森は逆に、呆れた様子で肩をすくめる。
「その様子だと、ご結婚はまだまだ先ですな」
「何でいきなり言葉の暴力を振るうのかな!?」
「こりゃ失礼、思ったことが口から勝手に。でも私は、先生の一番のフアンですぜ?」
「フアンなら協力してください。もしどこかで若い女がどうこうっていう話を聞いたら、すぐに僕に教えて下さいね! 取材してネタにするんですから」
 いつもこういうことを言うので、悧月は周囲から危ない性癖持ちだと思われている。しかし、彼はやめない。
 というのも、そういうことにしておけば花墨の情報が得られるのではないか……と、心のどこかでまだ期待しているからだった。小説の応募を始めたのも、きっかけはそれである。
(生きていれば、十八歳だ。無事でいてくれよ、花墨ちゃん)
 心の中に、白いおさげ髪のほっそりした少女を思い浮かべる時、彼女はだいたいいつもちょっとムスッとした表情をしている。けれど、記憶の奥にもう一段階進めば、あの夜の可憐な微笑みが蘇った。
 どちらの顔でもいいから、また無事に見せてほしいと、悧月はいつも願っている。

 皿を空にした森が、手を上げて女給を呼んだ。
「おーい、ビールお代わり! ……あ、取材と言えば先生、今朝の新聞はご覧になりましたな?」
「まだ見てないです。若い女の子の事件でも?」
「いや、違うんですけどね」
 何だ違うのか、と思いつつも、悧月は森が差し出した新聞に目を走らせた。
 一面記事の見出しはこうだ。

『バーネット英大使の妻子惨殺さる 華族会館 舞踏会の悲劇』

 華族会館は、その前身を『鹿鳴館ろくめいかん』という。親西欧をアピールするため、明治十六(1883)年に麹町区(現千代田区)に建てられた、イギリス人ジョサイア・コンドル設計の美しい洋館だ。
 しかし、鹿鳴館と呼ばれた時代は意外と短く十年そこそこで、明治二十七(1894)年には華族会館として払い下げられていた。
 そんな華族会館で、英大使が華族を招いての舞踏会を開いた日、会場に来ていた英大使の妻子が会館の駐車場で殺されたというのである。
 警察はバーネット英大使に事情を聞いているということだが、記者は憑捜が現場を調べているのを目撃しており、大使が憑き病にかかって妻子を手にかけたのではないか……と記事は匂わせていた。
「また憑き病の事件ですか」
「そうですね。にしても外国人、しかも男が憑き病になるのは珍しい」
「まあ、まだ大使がそうだと決まったわけではなさそうですが。しかしそうだとしたら、憑捜は相手が大使でも、他の患者と同じように扱うんだろうか」
「『処分』ですか? さすがにそれは外交問題になってしまうのでは」
 最初は真面目に話していた二人だったが、べろべろになった後にどう帰ったのかは記憶にない。

 それから一か月後の夜も、悧月は一人で浅草を歩いていた。勝手に、凌雲閣――浅草十二階――の方へと足が向く。
 いい文章が浮かばなかったり、逆に仕事がぽっかりなくなったりすると、彼は浅草を訪れる。私娼撲滅策の後、結局はしばらく経つと私娼たちが戻ってきて、十二階下の銘酒屋や新聞縦覧所の奥などで密かに客を取っていた。
 花墨も戻ってきていないかと、悧月はつい探してしまうのだ。
(……おっと。今夜は新月か)
 空を見上げると、晴れているのに月は見えない。『迷わせ女』は結局、今も時々、こんな暗い夜に出る。
(十二階下に近寄るのはやめておくか。花墨ちゃんに叱られる)
 思い直した悧月は、劇場や見せ物小屋の立ち並ぶ通りに出る手前で、角を折れた。

 細い路地を少し歩くと、白い壁に黒い窓枠のカフエーが姿を現した。ランプに照らされた看板には、『カメリア』という飾り文字が見える。
 椿の絵柄のステンドグラス扉を開くと、カラン、とカウベルが鳴った。中もやはり白と黒を基調にしたシックな内装だが、椅子の座面やメニューなどところどころに鮮やかな赤が使われており、華やかさを添えている。
「いらっしゃいませ。あら、先生! ご無沙汰じゃあありませんか」
 四十歳くらいの女店主が、秋らしい紫のワンピース姿で、妖艶に笑った。
 この店は、花墨を探している時に知った。店主の鞠子は、元娼婦なのだ。とある俳優に身請けされ、この店を持たせてもらったらしい。
 カフエーといえば、女給の過剰なサービスで客を集める店も出始めているという。しかしここは、オーナーの俳優が「文人が集まるサロン」に憧れて始めたため、なかなか高級な雰囲気が漂っていた。あくまでも『庶民の町・浅草にしては』だが。
 そんな店なので、ここで原稿を書くことのある悧月のような客は全て、鞠子は『先生』と呼ぶ。
「しばらく忙しくて。いやー、この店がまだあってよかったですよ」
 トンビコートを脱ぐ悧月を、鞠子はあだっぽい目つきで睨んだ。
「ご挨拶ですこと。これでも繁盛しておりますのよ。今月、新しい子も入れたんですから」
「これは失礼。あ、奥の席が空いているね、コーヒーを頼みます」
「かしこまりました」
 鞠子は厨房へ声をかけに行き、悧月は店の奥へと進んだ。

 洋楽のレコードが気怠く鳴る中、確かにこの時間でも席の三分の一は埋まっていた。うっすらと煙草の煙が漂う。
 窓際のテーブルに外国人の紳士が座っており、女給が注文を取っていた。黒いワンピースに白いエプロン、顔は見えないが髪は顎の線でまっすぐ切りそろえてある。
 断髪の女性は、少しずつ増えつつあった。が、やはり切るまでするのは抵抗のある者が多く、世間では髪が短く見えるように耳を隠して結う髪型が流行している。そんな中、この女給は本当に切ったようだ。思い切った性格がうかがえる。
 椅子に腰掛けた紳士が、女給を見上げた。
「My brother will come later.(後から兄が来ます)」
 すると、女給はうなずいて答える。
「OK,I will show him here.(わかりました、こちらに案内しますね)」
 発音はたどたどしいが、英語を話せる女給を悧月は初めて見た。
 へぇ、と思いながら横を通り過ぎようとした時、注文を取り終わった女給が振り向いて、ぶつかりそうになる。
「あ、すみませ……」
「おっと、失……」

 一瞬、時間が止まったかと思った。

 吊り目気味の大きな目、薄い唇、色白の肌。
 ずっと探していた顔が、目の前にある。

 悧月は思わず声を上げた。
「花墨ちゃん!?」
 女給もまた、大きな目をさらに見開いた。
「……お兄さん!」

 このカフエーには、衝立で仕切られた半個室がある。
 仕事を終えた花墨が衝立から覗くと、そこで待っていた悧月はホッとした表情になった。
「花墨ちゃん」
「お待たせしました」
 ワンピースから椿柄の銘仙に着替えた花墨は、少し緊張しながら椅子に腰かけた。「あ、うん」と悧月が答える。
 なんとなく黙り込んだ二人だったが、視線が合い、悧月が照れ笑いを浮かべると、花墨も少し表情を緩めた。先に悧月が口を開く。
「元気そうで、よかった」
「お兄さんも」
「へへ」
 すでに二十五歳になっている彼だが、花墨の知っているあの頃のような笑みを浮かべた。しかし、以前よりもどこか静かな目をしている。まるで、誰の目にも触れない地底の湖のような、美しいけれど深く暗い目だ。
「あ、お腹、空いてるよね。僕が払うから何でも頼みなよ。自分の職場で食べるのは抵抗ある?」
「そんなことないけど、でも」
「サンドウイッチでいい? 飲み物は?」
「……じゃあ、紅茶を。ありがとう」
 落ち着かない花墨が、黒髪を耳にかけるなどしていると、女給が立ち去ってから悧月がささやく。
「髪、黒いね」
「ああ、これは自分で染めてるの」
 花墨は頭に手を触れる。
「断髪は染めるのが楽で、助かってる」
「じゃあ、星見は、まだ」
「まだ私の中にいる。……先生は、髪、伸ばしたんですね」
 花墨に言われて、悧月は顎下までの髪をつまんだ。
「うん。作家っぽいかなと思って」
「……『安直』」
 その言葉に、悧月はぷっと噴き出した。
「懐かしいなあ」
 花墨より少し年上の女給が、サンドウイッチと紅茶を運んできた。二人をチラチラと交互に見てから、名残惜しそうに去っていく。
(まったくもう。興味津々なんだから)
 視線を感じながら、花墨は紅茶を一口飲んだ。
 悧月が口を開く。
「いなくなって、心配したよ」
「……ごめんなさい」
「いやごめん、責めようと思ったんじゃない、謝らないでくれ。僕のせいなんだから。でも、どこにいたの?」
 すると、花墨はさらりと答えた。
「サーカス団に」
「はえっ?」
 目を丸くする悧月の表情を面白く思いながら、花墨はもう一度、言う。

「私、サーカス団にいたの」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?