2024/2/5WRMへのお返事と、僕の書くことについて
敬愛するブロガーで作家の倉下忠憲さんに僕の記事をとりあげてもらって、返事ないしはアンサーとも呼べる文章が公開されています。コメント欄にて感謝と読んで感じたことを伝えたいと思っていましたが、長くなりそうなので当記事にて書かせて頂きます。
まずは有難うございます。自分の勇気を出して書いた「与太話」に文章の形で反応が返ってきた事に驚き、また、その有難さを噛み締めています。
さて、色々書きたくてリライトが4度ほど繰り返されてしまいました。
まずは勇気をもらいました。貰ったという表現が合うのか分かりませんが、僕の中に今勇気という感情が有るのは確かです。
当記事で冒頭に引用した記事は、倉下さんが毎週月曜に発行しているWeekly R-style Magazineというメール・noteマガジンの記事です。以下、引用した記事のこと自体をWRMと略します。
そのWRMの中から4つ文章を引用してみます。
太字で強調してある箇所は、僕にクリティカルに刺さった文言を僕が強調させました。
僕は、自分と誰かの寂しさを和らげたいとの思いがあって、文章を書いていることに最近気が付きました。特に自分の寂しさを和らげたいと思っています。
ですが僕にとって書くことは困難性を持つ行為です。非常に疲れますし、とても怖いものです。自分の寂しさの埋め合わせとして割に合わないものです。
怖さについて、何が怖いのかずっと分からなかったのですが、WRMを読んでその正体の尻尾を掴みました。それが「虚無」です。
他人は無数に居て、それらは無限の可能性を持ちます。ですがそれは良く言うとそうですが、実体は虚無と同等です。それは何かを与えても何かを反応するとは限りませんし、何か害を返してくるかもしれません。
頑張って疲れながら書いた文章が発端となり起こったコトで、自分が傷つくことになったら心底しんどいです、僕なら死というイメージが頭をよぎるほどです。
>「書き手が書きたいように書く」。これです。もうこれしかありません。
もうこれしかありません。という文体が倉下さんが「書くこと」に対して下した切実な有限性・切断だと感じさせて、深く僕を内省させました。※ここで出てきた有限性・切断は千葉雅也さんの著書「勉強の哲学」の中の表現と近しい意です。
この後には「責任を引き受ける」ことにも言及されています。
虚無と相対し、それに向かって書くことは一応「書き手が書きたいように書く」でもいい、けれどその「責任は引き受ける」こと。
そうとだけまとめると突き放したような表現ですが、僕は「ヘルシーに文章を書く上で」と「自分にできる精いっぱいの表現をしよう」という文言が重要で、暗闇の中で道しるべとなる篝火だと感じました。
>それよりも、「自分が書きたいこと」を主軸に書く。そういう開き直りの態度が一番「ヘルシー」に文章を書く上で効果があります。
まずは「ヘルシーに文章を書く」という行為・言葉が存在する事に有り得ない程の感動を覚えました。僕にとって書くことは苦行であり幾ら自分の寂しさを癒そうと、先述の通り割に合わない行為でした。
それが書くことが苦行であっても、ヘルシーに力をセーブする方法での書き方が有ると教えてもらえたのです。それはすなわち、書いていく中でどこかで割に合う・釣り合いが取れる可能性の示唆です。その事に深く感動したのです。
>読者のことを考えても、完全に理解することはできない。だからこそ、自分にできる精いっぱいの表現をしよう。
ここに虚無へのカウンターというか、他人への寄り添い方を見ます。完全な理解を出来ない他人に対して、僕は何をどう書けば良いのか、勇気を持って自分本位なことを書く以外に何も対処法が無かったのですが、引用した文では1つのやり方が明示されます。
>だからこそ、自分にできる精いっぱいの表現をしよう。
だからこそ、だからこそ。だからこそ!
自分にできる精いっぱいの表現をしよう!
なんと明るさに満ちて、それでいて他人へ寄り添う言葉なのでしょうか。
僕はうつ病なのですが、生きる意味を無くしていた時に(今も怪しいですが)出会った言葉があります。倉下さんの言葉に関連するので、以下に要約して引用します。
この事を自然と思い出し、心に温かい気持ちが溢れました。他人にどれだけ思いを寄せようと、まずその自分すら他人を完全に理解できず、他人もこちらを完全には理解できません。
にもかかわらず、だからこそ!
他人を信じて、愛して、希望を持って、自分なりの精いっぱい表現を持って書く。
それが小さい独りの人間ができる書くことなのかもしれません。
とても長いお返事ですみません。勇気を頂き、色んな事が溢れました。これからも活動を応援し、またその活動を見て楽しませて頂きます。
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