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竹取物語と神道と仏教

竹取物語と神道

竹取物語にて、かぐや姫に名前をつけたのは御室戸斎部の秋田(みむろとのいんべのあきた)といい、祭事を司る方でした。取り様によっては神主さんのような方です。

また、かぐや姫を育てたお爺さん(竹取翁)は、名前を讃岐造(さぬきのみやつこ)といいます。物語では讃岐造が出世をし、かぐや姫は帝に嫁ぎました。その後すぐに元の世へ帰りますが。

その裏付けとして、古事記には迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)という名前も出てきて、その方は垂仁天皇(すいにんてんのう)の妃でもあります。また迦具夜比売命の叔父に讃岐垂根王(さぬきたりねのきみ)という名前もあり、この方がかつての竹取翁である讃岐造なのではといわれています。

このことは奈良県の広陵町のホームページにも詳しくあります。

竹取物語に関して提唱している歴の深い奈良の方でも、ごく当たり前のように古事記と関連付けられます。竹取物語よりも先に書かれた古事記にかぐや姫の名前があるのなら、もはやその方と見ていいのでしょう、というのが定説です。

竹取物語と仏教

一方で、竹取物語と仏教についても昔から数々の説が言われているようです。真言宗の開祖である空海(くうかい)が作者だという説は有名ですね。

まず竹取物語が成立したのは平安時代初期頃といわれ、竹取物語の原案あるいは原作のようなものがあった(起こった?)とすれば奈良時代の後期も含まれるといわれます。奈良時代といえば仏教の栄えた一大時代でありました。

一方で、平安時代初期頃からは神仏習合に反発する流れも出来始めたとかで、少しばかり厳しくもなったともいわれています。といっても平安仏教というものは確実にあり、今の真言宗天台宗がそれにあたります。

竹取物語の性質から見てみると、かぐや姫の最終目標というのは「帝への何かしらの用」であって、それは不死の薬を渡すためだったというのが写文の通りです。すると木花開耶姫が重なるというのは、自分が以前に書いた随筆の通りでした。

竹取物語には他にも性質がいくつかあり、その多くは「美しい女性が優位に事を運ばせる様」です。かぐや姫は美し過ぎる余り、地位のある男達を振り回し、中にはそのために命を落とした男もいましたし、最後には帝に嫁ぐと見せかけてすぐさま帰ります。簡略してもまあとても身勝手で爽快な話です。

この女性優位というのが、実のところ神道よりは仏教の性質に近いのかなと思います。神道を重んじる日本というのは古来から今まで男尊女卑の著しい国であるのに対し、仏教とは古来から女人の成仏や出家を認めてきた歴史がありますから。

ちなみに釈迦に女性の出家を認めさせたのは十大弟子の一人「阿難」でした。彼は自分の女好きを棚に上げて釈迦へ言葉巧みに進言した、なんていう言い伝えもあるのですが、結果として仏教のその女性を讃える姿勢は先進的で素晴らしいものとなります。ある意味で釈迦より現代的な人です。

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そんなわけで竹取物語は、性質としては仏教に近かったりします。もし仏教の布教を目的として竹取物語が書かれたものであったとしても、何ら不自然ではないのです。

近しい話をすると、富士の街にだけ伝わる独自の竹取物語は、富士市にある東泉院が起源で、その話は竹取物語という名前ではないのですが「竹から生まれたかぐや姫が後に富士山へ登り、富士の菩薩へと戻った」という筋書きです。完全に仏教の方の話として書かれてあります。

結論

広陵町の解説にも「竹取物語は全国に派生している」とあり、それが神のものか仏のものか、はたまたどちらでもないものかはそれぞれ違っているのです。

実際のところ、竹取物語はいくら頑張って考察しようが研究しようが、原文もなく説も散らばり過ぎて結論は出ません。出ないからこその浪漫があり、この考察は単なる遊びです。読んだ方もひと時の遊びを楽しめたのならこれ幸いであります。