【第三話】◯ぼく◯ 2


◯ ぼく ◯





 また、同じ夢を見ている。

 暖かそうな陽射しに明るく照らされた部屋。そこでみんなが楽しそうに笑っている。

 なにをそんなに笑っているのかは分からない。彼らがどんな話をしているのかも聞こえない。

 ぼくも彼らと同じ場所にいるのに、ぼくだけが彼らとはまったく違う場所にいる。

 誰もぼくを見ていない。誰もぼくには気付かない。

 視線を変えると、部屋の窓辺に沿わせて置かれた、小さな箱のような棚があった。

 そこに一輪のアングレカムが咲いている。アングレカムは、楓が一番好きな花だった。

 咲き誇るというほど昂然とはしていないけど、控えめながらも凛としていて、たしかな存在感がそこにはある。ふわりと内巻きになりながら放射状に広がる白色の花びらは、遠目からだとキレイな星のようにも見えた。

 場面が変わり、ぼくは今度は果ての見えない暗闇に立ち尽くしている。

 唯一、目の前だけが天気の悪い日の月のようにぼんやりと照らされていて、そこに古いテレビと丸い時計が縦に連なり浮かんでいる。テレビにはぼくの過去の思い出が細切れになって垂れ流れ、その上の丸時計は忙しなくグルグルと回転している。

『雄馬───』

 後ろから名前を呼ばれ、振り返る。

 奥の方に光るなにかが見えている。

 ぼくはその光をこの暗闇から抜け出す出口だと踏んで歩き出すけれど、ぼくの体は前に行こうとすればするほど後退していく。

 そうしているうちに奥の光は小さくなっていき、やがてそのすべてが視界の中からフッと消失する。

 いつもの夢だ。

 いつもであれば、この夢はここで唐突に終わりを迎えて、ぼくは汗だくになって目を覚ます。

 そして、いつも決まって目を覚ました時には、すでにもうどんな夢を見ていたのかは忘れている。

 だけど───今日は違った。

 光が消えてからも目は覚めず、いつのまにかぼくは暗闇を移動し、今度は深い森の中を歩いていた。

 懐かしい、ぼくの地元にある山の森。

 まだ大学生だった頃にぼくと楓とリュウの三人で冒険をした森。その森の中を、ぼくは一人で歩いている。楓もリュウもいない。ぼく一人だけだ。

 乱立する木々の隙間を縫うようにしてしばらく歩いていくと、目の前にひときわ大きなクスノキが現れた。

 その傍らに、でんと巨大な岩が鎮座している。縦の長さはぼくの腰くらいだろうか。横幅も相当だ。岩にはなにやら文字が刻まれている。そういえば、たしかあの日、リュウが岩肌を石で削って、なにかをそこに書き残したのだ。

 ところが、これこそがまさに夢を夢足らしめる現象とも言えるのだけど、果たしてそこにリュウがなにを書き残したのかは、てんで思い出せなかった。岩肌に目を凝らしてみても、ぼんやりとぼやけてしまって判読ができない。

 と、その時だった。

 ぼくの腕が突然、その岩に向かってニュッと伸びた。

 手にはちょうどいいサイズの石が握られていた。いつのまに拾ったのか。自分の思考とは関係なく体が勝手に動いていく。

 妙な感覚だった。誰かに操られているのともまた違う、まるで自分の腕が自分の腕じゃなくなったかのような、そんな感覚。

 手にした石の先端が岩肌に触れた。ガリッ……と固いものが削れる音と共に、ぼくのその腕がなにかをそこに書き出していく。

 瞬間───ぼくの目の前を鋭い閃光がピカッと走った。



 ハッと目を見開くと、視界一面に自宅の寝室の天井が広がっていた。

 呼吸がひどく乱れている。

 上体を起こして隣を見ると、すでに楓はベッドから起きていなくなっていた。キッチンにいるのだろう。部屋の外から、ゆらゆらとコーヒーの香りを感じた。

 夢を見ていた。

 ぼくの地元にある小高い山、通称「鐘山」の森を一人で歩く夢だった。山の外観がお寺の鐘楼のようにずんぐりとしているから鐘山。正式名称はぼくも知らない。

 とにかくぼくは鐘山の中を歩いていた。久しぶりに起きてからも記憶に残存している、最近にしては珍しい夢だった。

「ノスタルジーってやつだね」

 足元から声が聞こえて目をやると、ベッドの足側のふちのところに、緑のサマーセーターを着た男が、どこから見つけてきたのかリュウの小説をパラパラとめくりながら、足を組んで座っていた。

「うわっ……!」

 驚きのあまり、ぼくは体を縮めて声を翻した。昨日の昼、ぼくに死の宣告を言い渡してきたあの男だ。一体どこから入ってきたのか、部屋の鍵はすべて閉めて寝たはずだ。

「夢を覚えてるってことは、君の中で死へのカウントダウンが始まった証拠だよ。過去の記憶を夢に見るのもその一つ。思い描く未来が減っていけばいくほど、過去に思いを馳せることしかできなくなるものだからね」

「な、なんで君がここにいるの……?」

 訊くだけ無駄だと分かっていながら、それでも訊かずにはいられなかった。

「君がここにいるからだ」

 男はリュウの小説をポンと畳んで、平然と肩を浮かせた。

「君はぼくに死の宣告をした。君の仕事は、もう終わったんじゃないの」

「まだだよ。まだ君の願いを叶えてない」

 あちらの世界───それがどこにあるのか、そもそもあちらとはどちらなのかてんで分からないけど、この男のいる側の世界では四年に一度、こちらの世界の人間の人員整理が行われるらしく、その人員整理の対象にこのたび選ばれたのが、ぼくだった。

 そのせいでぼくは今日から三日後、否応なしに死ぬことになる、らしい。

 だけどそれじゃあ少し可哀想だということで、死ぬ前に一つだけ、男がぼくの願いを叶えてくれるとのことだった。

「……その願いってやつはさ、なんでもいいわけ?」

「もちろん、俺にできることであれば、なんでも。なにかこれってのがあるの?」

「うん、まぁ」

「なに?」

「楓には……楓にだけは、このことを伝えたい。ぼくがあと三日で死んでしまうことを、彼女にだけは知っておいてもらいたい」

 ぼくが言うと、しかし男はにべもなく首を振った。

「それは無理だね」

「今は無理でも、ほら、いつか楓が気付くように、たとえば手紙とか、遺言みたいなものを残しておくのは?」

「それもダメ」
 ふたたび首を振る男の手が、ベッド脇の小さな棚の方に伸びた。
「君が昨日、夜な夜な書いていた日記もそうだけど、君自身の死や、俺の存在を仄めかすような発言や記述は相手に認識されないようになってるから」

「認識……って、どういう意味?」

「だから、君がどれだけ遺言や手紙を残したところで、相手には一切伝わらないって意味」

「そ、そんな……」

 ぼくは慌ててベッドを飛び出し、棚にしまった一冊の大学ノートを取り出した。

 今のこの状況をどうにか頭の中で整理しようと、あるいは、この理不尽な出来事が杞憂に終わった際には楓と二人で見返して笑ってやろうと、そんな気持ちで昨日から死ぬまでの日記をつけておくことにしたのだ。


『2013年12月2日 月曜

 今日からちょっと日記を書いてみることにした。理由は、特にない。さて、今日は楓と二人で表参道にあるカフェに行った。楓がチーズケーキで、ぼくがタマゴサンド。そしたら突然、楓がトイレに行っているあいだに謎の男がぼくの目の前にやってきて、そいつに、君は四日後に死ぬと言われた。意味不明な話ではあるが、その男が普通の男じゃないのは明らかで、正直その意味不明な死の宣告も無下にはできない気がしている。日記を書こうと思ったのも、実はこの出来事がキッカケだった。気がつけば男はいなくなっていた。本当に、見た目は普通の男のくせに、悪魔みたいなやつだった。帰りに商店街で楓がコロッケとメンチカツを買ってくれたので、夜ご飯は二人で揚げ物祭りだった。けど、正直カフェでの出来事で頭がいっぱいで味は覚えてない。ぼくは本当に四日後に死ぬのだろうか。楓にも何度かこの話をしてはみたけど、彼女はすぐに忘れてしまった。よく分からないけど、そういうルールになっているらしい。だとするとぼくは誰にも自分の最期を伝えられないまま、ひっそりと死んでいくことになるのだろうか。怖いというより、実感が湧かないというのが、正直なところだ。とりあえず今日はこのまま寝ることにするけど、ちゃんと寝られるかどうかは怪しいだろう』


「……別に、ぼくが昨日書いたまま、なにも変わってないじゃないか」

 思わず安堵の息を漏らして、ぼくは閉じた日記をふたたび棚の奥に押し入れた。

 別に隠す理由もないのだけれど、なんとなく、すぐには見つからない場所に入れておいた方がいいような気がした。

「君自身が読む分には、そうだね。でも、君以外の誰かがそれを読む時、その中にある君の死や俺の存在を仄めかす箇所の文章は見えなくなる。消えるわけじゃない。見えないんだ。相手の目や脳に認識されなくなるってわけ」

「……そ、そんなバカなこと」

「あるわけない? あるんだなぁ、それが」男は可笑しそうに肩を揺らした。

「ぼくには認識できるけど、他の人には認識できないってこと?」

「だからそう言ってるじゃん」

「そんな……」

 男の言っている言葉の意味をすべて理解したわけではないが、とにかく、ここまでの絶望にさらに別の絶望が乗っかってきたことだけはハッキリと分かった。

「それで、どうするの? どんな願いを叶えて欲しいの?」

「……楓の幸せを保証する……っていうのは……?」

「無理無理。幸せって、それはちょっと抽象的すぎるよ」

「なんでもって言ったくせに、無理ばっかりだ」

「無理なものは無理なんだから、仕方ない」

「……じゃあ、もう少し待ってよ。そんなにすぐには決められないよ」

「はいはい。なるはやでお願いしますよ、なるはやで」

 そうは言っても、この男に自分の願いを叶えてもらうということは、それはつまり、ぼくが自分の死を受け入れたということになるのだ。自分の死を受け入れるなんて、そう簡単にはできっこない。

 気付けば男はもういない。昨日のカフェでもそうだったけれど、彼はあたかもずっとそこにいたかのように忽然と現れ、かと思えば、最初からどこにもいなかったかのように忽然と消えていく。

 ぼくの死云々はさておき、彼が人間ではない超自然的な生き物であるというのは、もはや疑いようのない事実だった。

「なんなんだよ、もう……」

 その場にへたり込んでいたぼくはなんとか腰を持ち上げ、フラフラの足取りで、楓の待つリビングに向かった。





「あ、おはよう」

 優しい笑顔でぼくを迎えた楓は、すでに出勤の支度を済ませて、ひとりコーヒーを飲んでいた。

 今日の彼女は朝の九時からコンビニのバイトで、夕方のオーディションにはバイト先から直接電車で向かうつもりでいるらしい。

 時計を見ると、まもなく八時になろうとしていた。ぼくが起きてくるのを待っていてくれたのだろう。

「おはよう。時間大丈夫?」

 楓の向かいのダイニングチェアに腰を下ろした。幅の狭いダイニングテーブルだから、少し体を前傾させるとすぐ目の前に楓の顔がある。

 どんな状況に置かれていようと、この環境にありつける瞬間の自分は間違いなく幸せだった。

「うん、そろそろ出ようかな」
 楓は頷いた顔をパッと持ち上げた。
「あ、そうだ、今日はどうだった? 変な夢、また見た?」

「あー、うん。でも、今日は珍しく見た夢の内容を起きてからも覚えてた」

「え、うそ、どんな夢?」

「大学の時、楓とぼくとリュウの三人で森の中を冒険したじゃん? あの森の中を一人で歩く夢だった」

「あれは冒険というより、迷子に近かった気がするけど」

「間違いない」

「でも、なんでその夢を見たのかな。たしかに思い出深い森だけど、一人で歩いてたのも引っかかる。なにかの暗示だったり?」

「さぁ……」

「そういえばさっき調べたんだけど、夢っていうのは、やっぱりその人の体調とか精神状態にかなり影響されるみたいだよ。体調が悪くなると嫌な夢を見て、嫌な夢を見ると体調が悪くなる。この悪循環」

「わざわざ調べてくれたんだ」

 幸せなのだ───。

 こうして楓と二人で話しているだけで、顔を突き合わせているだけで、彼女の表情を見ているだけで、それだけでぼくは幸せなのだ。

 でも、幸せだからこそ、胸が苦しい。

 ぼくにこんな望外の幸せを与えてくれる楓に、健気にぼくを心配してくれる楓に、ぼくはなにも告げられないまま死んでいく。

 もしそれが本当に起きることなら、それはぼくにとっても、楓にとっても、きっと最大の不幸になるだろう。

 この上ない幸せを享受しているがゆえに、ぼくたちはやがて、この上ない不幸のどん底に突き落とされるのだ。

 それを思うと、悲しさやら申し訳なさやらで、彼女の眼差しを正面から受け止めるのが段々とつらくなってくるのだった。咄嗟に部屋の窓の方に視線を逃がすと、窓台に置いた鉢植えの中のアングレカムがキレイに咲いていた。

「とにかく雄馬、明日もたしか休みでしょ。のんびりしたらいいよ。そしたらきっと、変な夢も見なくなる」

「うん、そうしようかな……」

 ぼくは目を逸らしたまま頷いた。

「じゃあ、わたしはそろそろ行くから」

 楓が椅子から立ち上がる音がして、ぼくはハッと正面を向いた。「あ……」と脆弱な声を漏らしてしまう。

「どうした?」

「……いや、なんでもない。夕方のオーディション頑張って」

「ふふ、ありがとう。頑張るね」

 楓の微笑混じりの唇が、ぼくの唇に優しく触れた。キスをされたのだと気付くのに数秒かかってしまった。

「あ……ありがとう」

「ありがとうってなに」

 笑いながら椅子にかけていたバッグを肩に移して、玄関に向かって歩いていく楓。

 リビングを出て、ストロークの短い廊下を渡った先が玄関だ。

 ぼくも立ち上がって楓を追いかけ、沓脱ぎでお気に入りのスニーカーを履く彼女の背中に、ふたたび弱々と声をかけた。

「楓」

「なに?」

「……あの、オーディション、頑張って」

「それはもう聞いたよ。ありがとう頑張る。雄馬も仕事、頑張ってね」

 呆れるように笑う楓の体が、玄関の外の世界に吸い込まれていく。ドアの閉まる音が、ガチャンと耳に響く。

 ややあって、部屋に一人になってなぜか安堵している自分がいることにぼくは気付いた。

 寿命の近づいた猫が飼い主のもとから離れていく時も、今のぼくと似たような気持ちなのだろうか。

 結局、自分の死期を悟りながらも、それを相手に伝えられない者は、ただ黙ってその人の前から姿を消してしまうのが正解なのかもしれない。

 彼女の香りを少し残した玄関を見ると、ドアスコープから線になって射し込む朝陽が、薄暗い空気中に舞う小さな埃を寥々と照らし出していた。





 ぼくが勤務している映画館『シネマ・グリュック』の仕事は基本、朝番と遅番に分かれてシフトが組み込まれている。

 ちなみに、シネマ・グリュックの『グリュック』というのは、ドイツ語で『幸福』という意味。偶然とはいえ大学でドイツ語を専攻していた身としては、なんとも聞き心地のいい館名だ。

 今日のぼくは昼の一時から夜の十時半までの遅番シフトで、支度を済ませて部屋を出たのがちょうど十二時のタイミングだった。

 この時間帯の上り電車は大抵、通勤ラッシュ時の満員電車とは同じ乗り物とは思えないくらい閑散としている。ぼくは座席シートの真ん中に腰を下ろした。

「たとえばさ、ぼくが今日、仕事を無断欠勤したらどうなるの?」

 ぼくが訊ねると、相変わらず神出鬼没の男は着ているセーターの毛玉を繕いながら、怪訝そうに首を捻った。いつから隣に座っていたのかは、分からない。

「どうなるって?」

「だから、死ぬ三日前に無断欠勤なんて、捉えようによっては死を予感させる行動になるんじゃない? そういう場合は君の世界のルール的にはどうなるの?」

「ああ」
 男は言うと同時に、指先でこねた緑色の毛玉をピンと前方に投げ捨てた。
「それは大丈夫。無断欠勤したところで、他の人間がそれと君の死を結びつけることはない。さっきも言ったけど、そもそもそういう認識に至らないんだ」

「そっか……」

「なに、仕事サボりたいの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

 たとえ三日後に死ぬと分かっていても、仕事を休みたいとは思わなかった。

 職場に迷惑はかけられないという人情的な理由もあるにはあるけど、なにより、なにか別のことに集中していないと意識が自分の死に飲み込まれていき、むしろそれが原因で、心がどうにかなってしまいそうなのだ。

「ところで、あの女とはどこで知り合ったの?」

「女?」

「ほら、同じ部屋に住んでる」

「あぁ、楓」

「そうそう、あの女」

「あのさ、楓のこと女っていうのやめてくれない? 楓にはちゃんと楓って名前がある」

「じゃあ楓」

「呼び捨てにされるのも、それはそれでムカつくなぁ」

「ムカつくって、別に君の名前じゃあるまいし」

「でも、ぼくにとって大切な名前だ」

「どうでもいいけど。で、あの楓とはどこで知り合ったの?」

「どこでって、そりゃあ……」

 車窓に後頭部を寄りかけ、記憶を遡るように天井を見上げた。

 ふと、人がなにかを思い出そうとする時、無意識に顔を上に傾げてしまうのはなぜだろう……なんて、どうでもいい疑問が脳裏に浮かんだ。

 隣の男に訊いてみようかとも思ったけれど、出会って以来ずっと無粋なこの男なんかに、繊細で儚く、そして美しい人間の機微は分かるまいと、すぐに思い直した。





 楓との出逢いは、ぼくが大学三年生の時。

 その年の春に入学したばかりだった楓と同じ選択必修の総合科目『哲学Ⅰ』の授業を履修したのがキッカケだった。

 ぼくも楓も哲学Ⅰの授業は四月始まりの前期から履修はしていたのだけれど、実際に面と向かって言葉を交わしたのは十二月に入ってから。

 それまでの半年間は、ぼくは彼女の存在にすら気付いていなかった。広い講堂。履修している学生の数もかなり多い。よっぽどのことがあって自ら進んで知ろうとしない限り、その中から特定の誰かを認識するのは不可能だった。

───つまり、あったのだ。よっぽどのことが。ぼくと楓に。忘れもしない、年末の小テストの日だった。

 このテストで基準点を下回ってしまうと単位が貰えないという極めて重要なその日に、ぼくはあろうことか筆記用具をすべて忘れるというミスを犯した。

 元々ぼくはドイツ語が勉強したくて、そのためだけにこの大学に入っていたので、他の授業に対するモチベーションが著しく低かった。それが、この日のミスに繋がってしまったのだった。

 そもそも頭に小が付くテストなのに、それに単位の有無を左右させるなんて理不尽だという不満もあったが、なんにせよ落第の危機だ。辛うじて鉛筆は講堂の隅に落ちていたのを見つけて確保したけど、消しゴムがない。周りの学生たちは知らない人たちばかりで、貸してくれと話しかけるのもなかなか気まずい。

 どうしたものかと悩んでいると、偶然、隣の席に座っていた女の子がぼくの狼狽に気付いて、声をかけてきてくれた。それが楓だった。

「───ですか?」

「……え?」

「消しゴム、ないんですか?」

「はい……、消しゴム、ないんです」

 ぼくは思わず楓の言葉をオウムのように繰り返した。

「わたしのでよければ」

 楓はそう言うと、筆箱の中から新品と思しき消しゴムをつまみ取り、それをアルミ製の定規でギコギコと半分に割って、片方をぼくの机にちょこんと置いた。

「え……いいの?」

「もちろん。困った時はお互い様ですから。なんとか頑張って単位取りましょうね」

「うん……頑張、ろう……」

 人間というのはつくづく、曖昧でいい加減な生き物だ。今までは同じ講堂にいても気付かなかったのに、それを楓だと脳が認識した途端、なにかにつけて彼女の姿が目につくようになった。

 講堂でひとり机と向き合っていても、必ず視界の隅に楓を見つけた。

 ぼくが講堂へと続く廊下を曲がると、ちょうど楓が講堂のドアを開けようとしているところだった。

 上手くは言えないけれど、今までにもたくさんあったはずの出来事に、ようやく初めて回数がカウントされはじめたような、名前がなかったものに名前がつけられたような、世界がイチから再構築されたような、不思議で、どこか心地良い、そんな感覚だった。

「───それ、カンセカイだよ」

 ある日、ぼくがそのことを話すと、幼馴染で親友のリュウは覚えたての蘊蓄を自慢げに披露するように、鼻孔を広げた。

 彼もぼくと同じ大学に通ってはいたけど、学科も別で履修している授業もほとんど違った。大学内で会うのは大抵が昼休みの食堂で、その日もぼくはそこで親子丼を、リュウはカツ丼を頬張っていた。

「カン……なに?」

「ちょうどこの前、授業でやったんだ。環世界。環境の環に、ワールドの世界で環世界。生き物にはそれぞれ固有の世界があるって話だ。元々雄馬の環世界には、その楓っていう子はいなかったけど、ある日突然、お前のその環世界に彼女が踏み込んできたんだ」

「いや、別にいたはいたんだよ。同じ授業を取ってたんだから」

「そう、それがまさに環世界なんだよ。今まで半年間ずっと同じ講堂にいたはずなのに、その時初めてお前は彼女の存在を認識した。それまでの雄馬の環世界の中では、その子はたしかにいたけど、存在はしていなかったんだ」

「……意味が分からない」

「分からないかぁ、まだまだだな、雄馬も」

 渋面を浮かべて首を傾げるぼくに、リュウはなぜか嬉しそうに笑って、カツ丼をガツガツと口の中に掻き込んでいった。

 しばらく日にちが流れて、テストの返却日がやってきた。

 講堂に入ると、ぼくはわざわざ彼女を探して隣の席に腰を下ろした。

 授業が始まり、採点を終えたテスト用紙が順々に返されていく。ぼくの点数は63点。黒板に書き出された基準点は60点。まさにギリギリでの合格だった。

 椅子の背もたれに体を深く預けて安心していると、それを見ていた隣の楓がクスッと笑った。

「よかった、大丈夫だったんですね」

「あっ、うん、君のおかげでなんとか。えっと……」

「楓です。鬼塚楓」

「鬼塚さん。助かったよ、本当にありがとう」

「いえいえ、そんな。わたしもギリギリセーフでした」

「そっか、おめでとう」

 授業が終わると、ぼくたちは大学構内にあるカフェに場所を移した。消しゴムのお礼にとぼくが彼女をお茶に誘ったのだ。

 それだけでもぼくにとっては偉業中の偉業。偉業ついでにメールアドレスも交換した。当時はまだスマホは普及していなかったから、ガラケーの赤外線通信だ。

 アドレス帳に彼女の名前を登録しようとしたところで、受け取ったばかりのアドレスの文字列に目がいった。@の前にangraecumとある。見慣れない英単語だった。

「この……アングなんとかって、なに?」

 ぼくが訊ねると、楓は恥ずかしそうに前髪をいじりながら答えた。

「それは、アングレカムっていうお花の名前です。わたしが一番好きな花。実家の庭のプランターに咲いてたんです、昔」

「アング……レカム」

「そう、アングレカム。でも、当たり前ですけど、実際の花は咲いてもすぐに枯れちゃうじゃないですか。自分でも何度か育ててはいるんですけど、毎回季節が過ぎると枯れちゃうのが寂しくて。だからせめてメアドの中に、と。メアドの中のアングレカムは、絶対に枯れませんから」

「枯れはしないけど、そもそも咲いてすらいない」

 言いながらぼくはふと思い立ち、自分の携帯電話でアングレカムの画像を検索した。画質は荒いが一番良いアングルの一枚を見つけると、今度は店の紙ナプキンをテーブルに広げ、そこに取り出したボールペンを走らせた。

「なにしてるんですか?」

「アングレカムの絵を描いてるんだよ」

 特別に絵が得意というわけではないが、勢いに任せて、それなりに上手く描けたような気がした。

 ぼくがそれを手渡すと、彼女は受け取りながら、喜んでいるのか困っているのかよく分からない微笑を浮かべて礼を言った。

「あ……ありがとう、ございます」

「絵に描いた花なら、ちゃんと咲いているし、絶対に枯れることもない」

「はは、そうですね……」

 今にして思うと彼女がドン引きしていたのは明らかだけど、この時のぼくは自覚した恋に浮かれて、それにはまったく気付いていなかった。

 笑っちゃうけど、恋の始まりというのは往々にしてこういうものだとも思う。

 なんにせよ、これがぼくと楓の運命の出逢いであり、お互いの人生が交錯した瞬間だった。





 新宿三丁目駅で電車を降り、新宿通りの道なりをしばらく進んだ先、細い路地を入ったところにシネマ・グリュックは建っている。

 七階建てビルの地下一階。巨大スクリーンや最新音響システムを完備した大手シネコンとは違って、小さなスクリーンが二つあるだけの、いまだにうん十年前の音響機器を使い続けているような、いわゆるミニシアターと呼ばれる類いの劇場だ。

 当然、スターウォーズやハリーポッターのような超大作映画をかけられるはずもなく、どちらかというと渋めのフランス映画やドキュメンタリー映画をメインに扱っている。

 キャラメルポップコーンの香りや巨大なゴジラが訪れた客たちを威嚇するような派手さはもちろんないが、でも、むしろぼくはこういった小さな劇場ならではの、どことなくアングラな空気感が大好きだった。

 映画館の仕事というのは、事務所仕事を除くと、大きく分けて三つある。

 ロビーにある受付カウンターでのチケット販売、劇場スクリーンへの客の誘導、そして清掃。

 この三つは基本的にアルバイトの子たちに任せていて、その間、社員の人間は事務所にこもって仕事をしているのだけど、たまにロビーの混み具合を見るため受付カウンターに入ったり、客層の確認も兼ねて劇場スクリーンの誘導や清掃を代行したりもする。

「枕崎さん、ちょっと噂で聞いたんですけど」

 自分の仕事がひと段落して、息抜きがてらに受付カウンターに顔を見せると、アルバイトで入ってくれている大学生の男の子が、ぼくに声をかけてきた。

「どうした?」

 レジスターのお札や小銭を整理しながら、男の子の方に顔を向ける。

 元々はぼくも学生の時にアルバイトとしてここで働いていて、大学を卒業したタイミングで、支配人の影山さんに話を持ちかけられて契約社員に昇格した身だ。今でもこうしてついつい意味もなく受付カウンターに顔を出してしまうのは、仕事のためというより、事務所にいるよりも受付にいる方が自分の性に合っているからだった。

「枕崎さんって、小説家の児玉龍と知り合いなんですか?」

「あー……知り合いというか、なんだろう、腐れ縁?」

「大学の同級生だったって聞きましたけど」

「そんな時期もあったね」

 リュウとは人生の大半を一緒に過ごしてきたから、大学の同級生だった……と、そこだけ粒立てられても、正直いまいちピンとはこなかった。

 この男の子にとってはそれはかなり重要なポイントなのかもしれないけれど、ぼくにとっては、たとえるなら定規の0センチから27センチのうち18センチから22センチまでの代り映えしない目盛りを指でなぞっているだけのようなものなのだ。

「児玉龍って本名なんですか?」

「本名だよ。ぼくがペンネームを考えてあげたんだけど、却下された」

「どんなペンネームですか?」

「じゅ……」
 言おうとして、ぼくは苦笑混じりにかぶりを振った。
「いや、ここで言うような名前じゃない」

 十股絶倫太郎。これがぼくの考えたあいつのペンネーム。自分でも実にくだらないネーミングセンスだとは思うが、とはいえ、これ以上にリュウという人間を端的に表している渾名もそうそうない。

「どんな人だったんですか?」

「まぁ、なんといってもまず女好きだよね。あとは酒好き。あとは……あぁダメだ。その二つしか出てこない」

「めちゃくちゃカッコいいじゃないですか。昭和のスターみたい」

「極端に良く言えばね。でも、憧れちゃ駄目だよ。痛い目に遭うから」

 学生時代のリュウは、それはもう大の女好きで、実際に彼は女性によくモテた。横に連れている女性の顔ぶれは会うたびに変わり、それをいちいちぼくにも紹介してくれるのだけど、途中からリュウ自身も頭がこんがらがってきたのか、最終的にはその日の相手をその日の日付で呼ぶようになっていた。

 絵に描いたような女の敵。クズ野郎。アホ。

 と、言ってやりたいところではあるが、不思議と女性の側からリュウの悪口は一度も聞いたことがない。

 要するに、人よりずば抜けて要領のいい男なのだ。それを普通の男が真似しようものなら、必ず痛い目に遭うだろう。

「痛い目、ですか」

「うん。下手すれば訴えられる」

「マジですか。それは嫌だ」

 店の自動ドアがウィー……ンと開き、外から一人の客が入ってきた。

 この映画館は地下一階に入っているので、外からやってきた客はエレベーターを使うか、地上から急勾配に伸びる階段を下ってロビーに入ってくるかの二パターンに限られる。自動ドアが開くということは階段を下ってきたということになるのだが、普段であれば聞こえるはずの階段を下る足音がまったくなかったので、ぼくは思わず驚き、肩を跳ね上げた。

「いらっしゃ……」

 と言いかけ、声を飲み込む。誰かと思えば、入ってきたのは緑のサマーセーターを着たあの男。男は他のスタッフが立つカウンターには一瞥もくれずに、そのまま一番奥のカウンターにいるぼくの前まで一直線にやってきた。

「今やってる映画のチケットを一枚」

「……なにしに来たの」

 隣の男の子をちらりと見ると、すでに彼はぼくから意識を外して、別の作業に取り掛かっている。

 彼だけではない、その場にいるスタッフ全員が、みんなして示し合わせたように、ぼくと男の方から視線を外している。

 あぁ、はいはい。そういうことね。

 明らかに面妖な光景であるはずなのに、それを面妖と思わなくなってきている自分がいることに、ぼくはなにより不快感を覚えた。

「あれ? ここ映画館だよね? 映画館って映画を観る以外にすることあるの?」

「映画なんて興味ないくせに」

「あるよ。だからほら、早くチケットちょーだい」

「君って料金区分はなにになるの? 一般? 学生?」

「おいおい、俺から金取るつもり?」

「取るでしょ、そりゃあ」

「ケチだなぁ、君は」

 男はツータックのチノパンから裸の千円札を二枚取り出すと、カウンターのカルトンに投げ捨てるようにポイっと放った。ぼくが100円のお釣りを出すのも待たずに、そそくさと劇場スクリーン内に入っていく。

 上映しているのは恋愛モノの日本映画だ。一時間半のストーリーで、主演は楓と同い年の若手女優。数分前に上映開始のアナウンスを終えたところだから、今はちょうど本編前の予告が流れている頃だろうか。

 それにしても、あんな野暮な男に人間の恋愛映画の良さなんて分かるのだろうか。分かるわけがない。分かってほしくもない。

 と、そんなことを一人で苛々と考えていると、プルルルルル……と受付の電話に事務所からの内線が入った。

「あ、もしもし枕崎くん?」
 出ると、支配人の影山さんの声が聞こえた。
「フィルムユニコーンさんから電話が来てるよ〜」

「あ、すぐに戻ります」

 配給会社からの電話。おそらくは来週末に上映を控えた作品のスケジュールについての確認だろう。ぼくは通話を切って、急いで事務所に戻った。





 仕事を終え、事務所の退勤カードに打刻をする頃には、すでに時刻は夜の十一時を過ぎていた。

 いつもであればそのまま直接、新宿三丁目駅に向かうのだけど、今日はどうにも自宅に帰る足が重い。気付けばぼくは駅の地上出口を通り過ぎ、さらにしばらく行った先にある花園神社の方面に歩を向かわせていた。

 もちろん、さっさと家に帰って、楓に今日のオーディションの出来を確かめたい気持ちはある。だけど、それを確かめたところで、その結果が出る頃には多分、ぼくはもうこの世にはいないのだ。

 認めたくはないけど、ぼくは少しずつ、だけど着実に、自分の死を受け入れはじめている。

 そんな精神状態で楓の待つ家に帰っても、ただひたすら胸が苦しくなるだけだった。

「ねぇ、仮にだよ。あくまで仮に、ぼくが本当に死ぬとして、その時、ぼくはどういう風に死ぬの?」

 隣を歩く緑のサマーセーターを着た男に訊ねると、男は自分の爪をいじくりながら、すげない口ぶりで答えた。

「そんなどうでもいいこと、知ってどうするのさ」

 男の態度が不機嫌なのは、先ほど観た映画が死ぬほどつまらなかったから、らしい。こっちは金払って観てるのに……と不満そうにする姿が妙に人間臭くて可笑しかった。

 ……いや、可笑しいというはもちろん、馬鹿みたいとかアホくさいとか、そういう侮蔑を込めた意味であって、この男に親近感のようなものを抱いたわけでは決してない。

「そりゃあ気になるでしょ。自分の死に方なんだから」

「聞いたってしょうがないよ。聞いたところで、君にどうにかできるわけじゃない」

「そうかもしれないけど、知りたいんだよ」

「どうしても知りたいのなら、それが君の願いだと受け止めちゃうよ。いいの?」

「それは……それは、ダメ……」

 ぼくは思わずシュンとして声を細めた。

 死に方を教えてもらえなかったことに拗ねたのではなく、こんな、普段なにも考えていないような能天気な男に上手く言い包められたのが悔しかったのだ。

「じゃあ諦めな。どう転んだって君は死ぬ。それだけのことだよ」



 後ろを向くと連々と立ち並ぶビル群がこちらを見下ろし、
 奥を覗くと新宿ゴールデン街から酔っ払いたちの愉快で下品な笑い声が聞こえてくる。

 秩序と無秩序、享楽と堕落、これまでに人間が生み出してきた業と徳が渾然一体となったようなカオスの只中に、

 花園神社は、しかし整然と厳かな雰囲気を纏って屹立している。

 夜になる直前の薄暗い空の下、赤色提灯の明かりにぼんやりと照らされた境内の景観は幻想的で、東京の中でも一、二を争うぼくのお気に入りスポットなのだが、今はもう夜も遅いので辺りはシンと静まっている。

 この異常なまでにシンとした空気が、いつも不思議で仕方なかった。

 ゴールデン街で飲み騒ぐ酔っ払いたちの声も、すぐ後ろの大通りをビュンビュンと走り抜けていく車の騒音も、境内に足を踏み入れた途端になにも聞こえなくなる。実際にそうというわけではなく、自然とそんな気がしてくるのだ。特別信仰心に厚いというわけではないけど、なるほど、さすが神様の住む場所だな、とは思う。

 本殿前の階段に腰かけ、冬の寂しげな風を頬に感じながら、なにをするでもなくぼうっとしていると、突然、後ろから声をかけられた。

「あれ? 雄馬?」

 波ひとつない水面に石を投げ落とすかのような、がさつな声。静謐を極めていた空気に波紋が広がる。ゴールデン街からは酔っ払いたちの笑い声が轟き出し、鳥居の向こうに見える新宿通りからはたちまち車のクラクションが鳴り響きはじめる。

「……なんだ、リュウか」

 偶然の再会にあまり驚きがないのは、彼とはつい数日前にも電話で話していたし、なによりこの近辺は昔から彼のホームグラウンドだったからだ。

 わざわざ連絡を取り合わなくても、夜になってゴールデン街に行きさえすれば、大抵はリュウの姿を見つけることができた。

「お前、こんな遅くにこんなところでなにやってんだよ」

 と、リュウはそう言いながら、ぼくの隣に腰を下ろした。案の定、その体からは酒とタバコのにおいがぷんぷんと漂っている。今日も陽が落ちる前から周辺の飲み屋をブラブラと飲み歩いていたのだろう。

「別に、ただ……たそがれてた」

「たそがれてたって、なんだよそれ。……あぁ、アレか。楓ちゃんと喧嘩でもしたんだろ。だから家に帰りづらいんだ」

「そういうわけじゃないけど……」

 半分正解で、半分不正解。楓と喧嘩をしたわけではないけど、楓の待つ部屋に帰りづらいのはその通りだ。

「ちゃんと謝って、早く仲直りしろよ」

「なんでぼくが悪いことをした前提なの」

「どっちが悪いとか、そんなのはどうでもいいんだよ。度量の問題だ。心の狭い男は嫌われるぞ」

「さすが、十股絶倫太郎の言うことは違う」

「お前、やめろよそれ。おれは十股なんてしてねぇっつーの」

「じゃあ何股だったっけ?」

「……両手でちょうど数えきれるくらい?」

「十股じゃん」

 両の手のひらを広げておどけるリュウに、ぼくは思わず吹き出して笑った。

 と同時に、無意識にぼくが今日この神社に足を運んでいた理由も、ようやく分かったような気がした。

 会いたかったのだ。

 親友で幼馴染のこの男に。

 わざわざ連絡をするでもなく、ただ偶然、ここでリュウと出くわし、その偶然性の中に潜む必然性に身を依りかけ、足場を失くしたかのようにグラグラと揺らぐ自分の心に、ほんの少しだけでも安定感を与えたかったのだ。

「おっ、笑った」

 リュウは笑うぼくの肩をぺちんと叩いた。

「笑うよ、そりゃあ」

「よかったよかった。なんか今のお前、絶望の二文字を貼り付けたような顔してたから。笑い方を忘れたんじゃないかと思ったよ」

「はは……なんだそれ」

 図星を突かれ、つい声が萎む。

「いつものお前に戻って安心したよ」

「絶望の真逆にいるような性格のリュウに会えば、嫌でも絶望は吹き飛ぶよ。まぁ、だからといって、リュウのおかげで希望を見出したわけではないけど」

「絶望の対極は希望じゃない。普通だよ」
 リュウは言うと立ち上がり、階段を数段下って、ぼくを見上げた。
「楓ちゃんと喧嘩して絶望してるお前が取り戻すべきは希望じゃない。今まで通りの日常だ」

「だから、別に喧嘩はしてないっての」

「喧嘩は鉄と一緒で時間が経てば経つほど冷えて硬化していくからな。まさに、鉄は熱いうちに打てだ」

「だから……」

 ぼくがいくら否定しても聞く耳を持たないところは、いかにもリュウらしい。

「ははっ、なんか今のお前、神様みたいだ」

 不意にリュウがそんなことを言うので、ぼくはキョトンと眉を浮かせた。

「へ?」

「後ろの月明かりに照らされながら、本殿を背にして、神様みたいだ」

「はっ、相変わらず訳の分からないことばっか言うな、リュウは」

 鼻で笑ってはみるものの、とはいえ三日後にはすでに死んでいる身としては、あながちそれも的外れではないのかもしれない、とは思った。

 死んで神様になれると思うほど自己評価は高くはないし、自惚れてもいないが、この世に在らざる者という意味では、人間よりも神に近い存在にはなるのかもしれない。

「そうだ、なぁ雄馬」

「なに?」

「明日の夜、時間あるか? できれば楓ちゃんも」

「明日の夜……は、多分二人とも大丈夫だと思うけど」

 明日はぼくは終日休みで、楓も日中にコンビニのバイトが入っているだけだった。

「よし、だったら久しぶりに三人で飯行こうぜ。お前たちにも紹介したい美味い店があるんだ」

「分かった。楓にも伝えておく」

「おう、よろしく頼むよ。じゃあ、今日はこの辺で」

「もう帰るの?」

「いや、帰るのはお前だよ。さっさと帰って楓ちゃんに謝ってこい。おれはもう少しこの辺でやってくよ」

 リュウはぼくに背を向け片手をひらつかせると、まるで渡り鳥が自分の巣に帰っていくかのように、夜の都会の影の中に、すうっとその姿を溶かしていくのだった。





 家に戻ると、すでに楓は寝室のベッドで静かに眠りについていた。

 時刻はすでに夜中の一時だ。

 結局、花園神社をあとにしたぼくは終電を逃し、タクシーに乗って帰ってきた。

「遅くなってごめん」

 ベッドのふちに腰を下ろすと、枕に半面をうずめる楓の横顔が、んっ……とかすかに反応した。毛布から少しだけはみ出た手を握る。オレンジ色の就寝灯が、彼女の寝顔を優しく暖めている。

 そんな彼女の鼻先に顔を近づけ、ぼくは小さな声で囁いた。

「今日のオーディション、上手くいってますように」

 結果が出る頃には、きっとぼくはもういない。だからせめて、祈るくらいのことはしておきたかった。

「今日のオーディション、上手くいってますように」

 そういえば、遺言を残すという行為は祈ることに似ていると、そんな話をどこかで聞いたことがある。

「今日のオーディション、上手くいってますように」

 たしかにそうなのかもしれないと思った。死にゆく人間は生きている人間に対して、祈ることしかできないのかもしれない。遺言さえ残せないぼくには、なおさらだ。

 すると、楓がむず痒そうに体をくねらせ、ぼくから顔を背けるように寝返りを打った。ぼくの儚い声が、彼女の心地良い夢のノイズになったのかもしれない。

「ごめんね、楓。じゃあ、おやすみ」

 就寝灯のスイッチを切り、ぼくは日記帳代わりの大学ノートを片手に寝室を出た。

 冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、色違いで二対になったダイニングチェアに座った。プシュッとプルタブを開けて、苦い炭酸を喉の中に流し込む。仕事終わりの遅い時間に一人で晩酌をするなんて、今まで一度もしたことがなかった。

「さっきのアレ、なに?」

 ぼくが今日の出来事を日記にしたためていると、正面から不意に声をかけられた。またかと辟易しながら前を見ると、緑のサマーセーターを着た男が向かいのダイニングチェアに座って背中をくつろがせていた。

「さっきって?」

「楓に向かって、なにか言ってたでしょ」

「あぁ、ミラチュルチンチュングね」

「ミラ……なにそれ」

「おまじないみたいなものだよ」

「あー、それでオーディションがなんとかって」    
 男は得心したように手のひらを拳でポンと叩いた。
「だったらさ、そんなニセモノのおまじないなんかじゃなくて、ホンモノの神頼みをした方が確実なんじゃない?」

「ホンモノ?」

「だから、俺に頼めばいいじゃんってこと。君の最後の願いだよ。楓をオーディションに合格させるってことなら、全然オーケーだよ」

「あー……」
 それもアリかと邪な気持ちが一瞬、ぼくの心を疼かせたけれど、すぐに思い直してかぶりを振った。
「……いや、やめとくよ」

「なんで」

「そんなことをしたって、楓のためにならない」

 ミラチュルチンチュングもたしかに一種の神頼みではあるけれど、それと同時に、自らの意志を奮い立たせる火付け役でもあるのだ。

 本人の意志の伴わない神頼みなんて、所詮は他力本願の怠慢でしかない。仮にそれで本当に楓に仕事が来たとしても、最終的につらい思いをするのは、きっと楓自身だ。

「ふぅん、あっそ」

 男は不服そうに鼻を鳴らした。

「早くぼくの願いを叶えて仕事を終わらせたい君の気持ちも分からなくはないけど、あんまり急かさないでくれよ。これはぼくにとっても大事なことなんだ」

「はいはい、分かりましたよ」

 書き終えた日記を寝室の棚にこっそり戻して、ふたたびリビングのダイニングチェアに腰を休めた。

 夜中の一時半。

 缶ビールを一本空けると、途端に急激な睡魔が押し寄せてきた。

 とりあえず五分だけ。

 ぼくは重力の赴くままに、テーブルの上に顔を伏せた。

 このまま朝まで寝過ごしてしまうかもしれないけれど、どうせ明日は休みなんだし、構わないだろう。

 寒さで早くに目が覚めた時には、じきに起きてくる楓のために温かいコーヒーを淹れてあげるのもいい。

 重たくなったまぶたを閉じる。

 とりあえず今は少しだけ、つらい現実に暗幕を垂らしていたかった。



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?