【第五話】◯ぼく◯ 3


◯ ぼく ◯





 いつもの夢。

 もう何度見たかも分からない、だけど起きたらきっとすでに忘れている不思議な夢。

 きらきらと陽の当たる明るい部屋で、みんなが楽しそうに笑っている。それをぼくは部屋の隅から、ジッと見つめている。

 視界が暗転し、正面に古臭いテレビと丸い時計が淡い光に照らされ浮かび上がる。テレビではぼくの思い出が細切れに流れ、丸時計の短針と長針は目まぐるしい速さで回転している。

 どこからともなく名前を呼ばれる。

『雄馬───』

 声のした方を振り返ると、奥でなにかがまた光っていて、それに向かってぼくは歩きはじめる。

 歩けども歩けども決して辿りつかない光が、やがてまぶたを閉じるかのように、フッと消えてなくなる。

 すると、次の瞬間───目の前で楓が泣いていた。

 今までにない、初めて見るシーンだった。

 ここはどこだろうか。相変わらずの暗闇だ。けれど、おぞましいなにかが風に吹かれてざわざわと蠢く音がしている。楓はその場にへたり込み、すすり泣いている。かと思えば途端に嗚咽し、滂沱の涙を流しはじめた。

 どうして楓は泣いているのだろう。

 もしかするとこれは、そう遠くない未来の映像なのかもしれないと、ぼくは思った。

 ここは、ぼくが死んだあとの世界だ。ぼくが突然死んでしまったばかりに、楓はこうしてひとり泣いているのだ。

 泣かないで───。

 声をかけようとするけれど、喉にぴたっと蓋をされたみたいに声が口から出てこない。

 無意識に腕を広げていた。するとそこに、立ち上がった楓が飛び込んできた。ぼくの胸に頭をうずめて、声こそ聞こえないが、でも分かる。わんわんと咽び泣いている。

 泣かないで───。

 楓が真っ赤に腫らした目を見上げた。もう何時間も泣いたあとのような目。迷子の子供がさんざ泣き喚いた挙句にようやく親を見つけた時の目。彼女らしい薄めの化粧は涙でボロボロになっているけど、その眼差しは信頼と安心に満ちている。

 だけど彼女が見上げているのは、ぼくのようで、ぼくではない。そんな気がした。

 ぼくは死んでいるのだ。

 だから、抱きつく彼女の温もりも感じない。

 そのうち、後ろから誰かに裾を引かれるように、次第にぼくは、ずるずると楓から切り離されていった。

 楓───。

 楓がぼくから遠ざかっていく。

 楓───。

 楓に向かって手を伸ばす。

 しかしその手はなにも掴めないまま、やがて楓は、あるいはぼくは、暗闇に飲まれて、姿を消した。

「───楓ッ……!」

 叫ぶと同時に目を覚まし、伏していた顔を跳ね上げると、すぐ目の前で楓が身を仰け反らせて、驚いた顔をしていた。

「び……びっくりしたぁ」

 一瞬、ここがどこだか分からなくなり、周囲を見渡した。窓台の上のアングレカムが、情けないなぁと呆れるようにぼくの寝ぼけた顔を見つめてきていた。

 ぼくと楓の部屋の、リビングだ。どうやら昨日、ここで一人で晩酌したあと、そのままテーブルに突っ伏し眠ってしまっていたらしい。

「……ごめん、寝落ちしてたっぽい」

「みたいだね。はい、コーヒー」

「あぁ、ありがとう」

 昨日の晩酌がまだ残っているのか、それとも寝方が悪かったのか、頭が重い。楓が淹れてくれたコーヒーをひと口啜ると、ちょうどいいカフェインが起き抜けの脳にじんわりと刺激を与えてくれた。

「寒かったでしょ、こんなとこで寝て」

 向かいに座る楓が頬杖をついてぼくを見ている。彼女のその表情は、どことなく窓辺のアングレカムに似ている気がする。

「ちょっと寒かった……かも」

「気をつけないと、風邪ひいちゃうよ」

「うん……あ、そうだ。そういえば昨日のオーディション、どうだった?」

「んー、まぁボチボチかなぁ」

 楓は頬杖をついたまま黒目を天井に上向け、それをふたたびゆっくりと、なにか言いたげな間でぼくに下ろした。

「どうした?」

「……いや、あのね、雄馬」

「うん」

「今回のオーディションがもしダメだったら、そろそろ今の道を諦めてもいいかなって考えてるんだよね」

「え……」

 思いも寄らない楓の言葉に、口元に寄せていたコーヒーカップがピタリと止まった。

 脳裏に浮かんできたのは、いま見たばかりの夢のワンシーン。暗闇の中、その場にへたり込んですすり泣く楓の姿。

 この時、ぼくはふと気が付いた。

 楓が主演した映画をぼくの映画館で上映する。この、二人にとってなによりも大きな夢は、あと数日もすると、たちまち楓一人に課せられた重たい鎖になってしまうということに、だ。

「……ダメかな?」

 楓が涙を堪えるような目をして、首を少しだけ傾ける。

「……そっか」
 ぼくはなんとか笑みを繕い、言った。
「楓の人生なんだから、楓のしたいようにするのが一番だと思う」

 この言葉以外に、今のぼくになにが言えるというのだろう。あとたった数日で死んでしまうぼくに、楓の人生の道筋を強制する権利がどこにあるというのだろう。

「うん……」

 楓は内心を腹の底に押し流すように、自分の分のコーヒーをひと口飲んだ。

 彼女がぼくにどんな答えを求めていたのかは、なんとなく想像がついた。夢を諦めるということは、そういうことだ。でも、無理なのだ。彼女のその気持ちには応えられない。

「ごめんね、大事なことなのに、こんなことしか言えずに」

「ううん、ありがとう」

「だけど本当にそう思うんだよ。楓が後悔しないなら、ぼくはそれでいい。楓が後悔してしまうのが、ぼくにとってもなによりの後悔だから」

 ぼくはなぜか言い訳をするような気持ちで、つい早口になった。

 もしかすると楓は、実はもっとずっと前から自分の人生に悩んでいたのかもしれないと思った。

 だけど彼女はつくづくぼくに優しいから、ぼくがつい二人の夢だとかなんとか言い出したばかりに、なかなか本心を打ち明けられずにいたのだ。

 本当はもっと早く違う人生を歩みはじめたかったのかもしれない。

 普通に働いて、普通に結婚して、普通の人生を歩みたかったのかもしれない。

 だとすると───ぼくはなんて卑しい人間なのだろう。ぼくは自分でも気付かぬうちに、自分の人生の幸福を楓の夢に背負わせてしまっていたのだ。

「……なんちゃって、冗談だよ」
 楓がニカッと白い歯を見せた。
「わたしの小さい頃からの夢だもん。そんな簡単には諦められないよ。あーあ、昨日のオーディション、受かってるといいなぁ」

「冗談……」

「そ、冗談。ごめんね、本気にしちゃった?」

「はは、なんだ、冗談か……」

 楓がこんなつまらない冗談を安易に言うはずがないのは分かっている。むしろ、そうやって彼女が冗談という言葉を繰り返せば繰り返すほどに、直前の彼女の吐露にも重みが増した。

 そこはかとなく漂う嫌な雰囲気から逃れるように、窓の方に視線を転じた。

 背中に朝陽を浴びてそこに咲くアングレカムが、相変わらず呆れるような目をして、ぼくの方をジッと見てきているような、そんな気がした。





 仕事に出かける楓を玄関まで見送ったあと、ぼくもそそくさと出かける準備を開始した。

 実家のマンションで今は一人暮らしをしている父さんに会いに行くのだ。会ってなにをするというわけでもないけれど、死ぬ前に最後にもう一度だけ、父さんの顔をちゃんとこの目で見ておきたかった。

 母さんはいない。

 ぼくが小学生の時に怪しげな宗教に傾倒し、家のお金をほとんど使い果たした挙句に、その団体の男と結婚すると言い出し、一方的に父さんに離婚届を突き出し家を出ていった。

 しばらくは父さんも母さんを連れ戻そうと必死になっていたけど、何ヶ月か経って、それがあいつの幸せならば仕方ないと言って諦めた。

 父さんは母さんの悪口をついぞ一度も言わなかったが、だからといって、今さら母さんに会いたいとは思わない。彼女が今どこでなにをしているのかは知る由もないし、そもそも生きているのかどうかさえ分からないのだ。

 自宅の最寄り駅から電車に乗って、新宿でまずJR中央線に乗り換える。そこからさらに一つ電車を乗り換えたあと、降りた駅から出ているバスに数分揺られた先に建つのが、ぼくの実家のマンションだ。

 バスの一番後ろの座席シートに腰を下ろした。車内はそれほど混んでいない。車窓から覗く外の景色は、今のぼくの沈鬱とした心情を皮肉るかのように晴れ渡っていた。

 今日が終わり、明日が終わり、明後日が来れば、ぼくは死ぬ。

 男の言葉を認めてしまうのは悔しいけれど、死ぬのは多分、間違いない。

 いまだにその実感こそないが、地元の景色をこうして見るのも、おそらくは今日が最後になるのだろう。

 手にしていたスマホが突然ブルルルと震えて、画面を見ると、楓からのLINEが一件、届いていた。

『さっきはごめんね、変な冗談言っちゃって』

『大丈夫だよ。こっちこそ面白い返しができなくてごめん。仕事は大丈夫?』

『うん、全然お客さん来なくて、めっちゃヒマ』

『睡魔との戦いだね笑 頑張って』

『はーい、じゃあまた夜に』

 夜という単語に、ぼくはふと昨日の花園神社でリュウとした会話を思い出した。

『あ、だった。そういえば今日の夜、リュウに飯行こうって誘われてたんだった。どう? 行けそう?』

『行く行く!』

『おけ、じゃあまたあとで連絡するね』

 ガタンと車体が揺れて、スマホからハッと目を持ち上げる。

 前方の電光掲示板に次のバス停が表示されている。

 ぼくが降りるべき停留所の名前だ。

 ぼくは慌ててスマホをしまい、席の傍らの降車ボタンに指を伸ばした。





 思えば実家に帰ってくるのは、数ヶ月ぶりのことだった。バスの停留所から歩いて一分、黒ずんだ茶色の外壁が不味そうなチョコレートケーキを思わせる、十三階建てマンションの、その三階だ。

 一階エントランスからオートロックの自動ドアを抜けると、すぐ右手にサイズの小さなエレベーターが一基ある。

 ちょうどぼくが目の前に立ったタイミングで扉が開き、中から若い女性が降りてきた。

 あまり面識はないが、たしか数年前に一つ下の階に夫婦で越してきた女性だったはずだ。女性はぼくと目が合うと軽く一礼をして、後ろの自動ドアを出ていった。

 彼女と入れ替わるようにしてエレベーターに乗った。

 マンション自体の築年数も古いが、このエレベーターの古さも相当なもので、鉄の箱がワイヤーに引かれて持ち上がると、それと同時にグガガガガガガガ……と囚人の唸り声のような音が響き渡る。子供の頃のぼくはこの音が怖くて怖くて仕方なく、よく父さんや母さんの腰に抱きつき、死ぬ、死ぬ、と喚いて怯えたものだった。

 三階に到着し、頭上のランプがチンと情けない音を立てて、扉が開いた。

 目を閉じて歩いても、体が覚えている。

 エレベーターを出てから八歩目。

 高校を卒業するまでの十七年間、毎日往復し続けた幅の狭い外廊下。

 そこから見える地元の景色。

 303号室のプレートの下に手書きで書かれた「枕崎」の表札。

 これまで何度も開閉してきた青色の玄関。

 そして、これから先も何度となく握るはずだった銅色のドアノブ。

 変な話、今まで一度もそんな風には考えたことはなかった。

 それなのに、あの男に死の宣告を受けてからというもの、なにかとそんなことばかりを考えるようになった。

 いつかまた当然のようにやってくると思っていた日常はもう、ぼくのもとには二度とやってこないのだ。

 部屋のドアホンを鳴らすと、「はいはーい」という声と一緒に玄関が開き、中から父さんが顔を出した。

「おう、おかえり」

「ただいま。あれ、髪切った?」

 普通の一般企業でサラリーマンをしている父さんは、しばらく会わない間に髪もサッパリして髭も剃り、以前よりも数段、若くなったように見えた。

「今週末に部下の結婚式があってな、そこでなぜか俺がスピーチを頼まれたんだよ」

「へぇ、結婚式」

 不意に脳裏に今朝の楓の表情が浮かんだ。あの時の楓はきっと、ぼくの口から結婚の二文字が出てくるのを期待していたのだと思う。

 楓と結婚。

 それができたらどれだけ幸せだろう。

 だけど、それはもう、どう足掻いたって叶わない。

 明後日に死ぬ男と結婚したいと思う女性が、この世にどれだけいるというのか。人は誰しもその人との未来に希望を抱き、結婚をするものだ。

「俺のスピーチなんて縁起でもないとは思うんだが、まぁ頼まれた手前、無下に断ることもできないし、せめて見た目くらいはキレイにしておこうとな」

「いいじゃん。若く見えるよ」

「そうか。ならよかった。まぁとにかく入れよ。コーヒー飲むだろ?」

「お、サンキュー」

 父さんに『明日、そっちに行っていい?』と電話を入れたのは、昨日の夜、リュウと別れたあとだった。平日の水曜日なのでどうかなと思っていたけど、しかし父さんはむしろ嬉しそうに『おう、来い来い』と声を弾ませ、急遽午前休を取ってくれた。

「調子はどうだ、最近は」

「まぁ、いつも通りだよ」

 座り慣れたリビングのソファに腰を休めて、曖昧に答える。

 目の前のソファテーブルを見ると、一週間前に刊行されたばかりのリュウの小説の新刊が読みかけの状態で伏せられていた。

 リュウが書く小説は基本的にはミステリーかサスペンスものだが、今回は珍しく殺人や事件がなにも起こらない純愛小説。あの男からは最も遠い世界の物語だった。

「それはなによりだ。いつも通りってのが結局、一番だからな」

 父さんはぼくの隣に腰を下ろし、キッチンからお盆に乗せて運んできた二人分のコーヒーと小皿をテーブルに置いた。小皿には、こんがりと茶色く焼き色をつけたカップケーキが乗せられていた。

「え、これ父さんが作ったの?」

「おう、昨日の夜、ふと思い立ってな」

 父さんは昔から料理がうまかった。母さんが家を出ていって以来、まだ子供のぼくの食事を作る必要に駆られた結果、自然とその腕を伸ばしていったのだ。

「絶対に美味いやつじゃん」

 確信を持ってケーキを手に取り、かじりつく。月並みな表現だけど、外は程よくカリッとしていて、中はじゅわっと柔らかい。ふわっと鼻から抜ける香りはなにかと思えば、スパイスの女王、カルダモンだそうだ。

 うんうんと頷くように味わいながら、絶賛の目で父さんを見ると、父さんはニヤリと口角を上げて、ガッツポーズをした。

「今回のは自信作だったからな。隠し味はミラチュルチンチュングだ」

「いや、カルダモンでしょ、隠し味は」

「カルダモンは隠れてないだろ。その点、ミラチュルチンチュングは隠れてる」

「なるほど、たしかに」

 父さんの代名詞とも言うべきミラチュルチンチュング。

 本人の口からこの言葉を聞くたびにぼくが真っ先に思い出すのは、ある夜の記憶だ───。

 それはまだぼくが中学生になりたての頃、翌日に学校のマラソン大会を控えた日のことだった。

 運動が苦手だったぼくが快晴の夜空を部屋の窓から憂鬱に見上げていると、仕事から帰ってきたばかりの父さんが隣にひょいとやってきて、まだ部屋着にも着替えていないワイシャツ姿のまま、ぼくの視線を辿るように窓の外に目を向けた。

「明日のマラソン大会か」

 まだなにも言っていないのに、父さんはぼくの憂鬱を見透かしていた。

「まぁね」

「よし、それじゃあ今から俺とミラチュルチンチュングだな」

「出たよ、ミラチュルチンチュング。今まで一度も上手くいった試しないじゃん」

 中学一年。ちょうと思春期と反抗期の真っ只中にいたぼくの返しは、いま思い返しても、ひどく無愛想だったと思う。

「そりゃあ、お前、今まではお前の意志が弱かったからだろ」

「そもそも、その意志の強弱がぼくには分からない」

「理解しようとしてる時点でダメなんだよ。理解しようとした時点で意志は消える。意志っていうのは、心の根っこから自然と湧き上がってくるものだからな。ミラチュルチンチュングってのは結局、その透明色の意志に火を灯すものなんだ」

「意味が分からない」

「たとえばほら、ガスバーナーがあるだろ? 噴射口から噴射されたガスは目には見えないけど、そこにライターの火を近づけた途端、一気に炎が燃え上がる。それと一緒だよ」

「もっと分からない」

「いいから、ほら、やるぞ」

「はいはい、まぁ無理だけどね」

 ぼくと父さんは夜空を見上げて、それぞれ心の中で願いを唱えた。

 雨よ降れ、雨よ降れ、明日のマラソンは中止、明日のマラソンは中止……。

 隣を見ると、父さんも、それこそまさに神に祈るようにギュッと目を閉じ、両手を組み合わせて、パクパクと口を動かしている。

 すると、その時だった。

 コツコツ……となにかが窓ガラスを叩く音がした。まさかと思って窓を開け、身を乗り出すと、どこから流れてきたのか、いつのまにか快晴だったはずの夜空に重たい雨雲が漂いはじめていた。

「すごい! 父さん、すごいよ! 雨だ!」

「だから言ったろ? 強い意志があればなんだってできる。俺たちは思考と想像の中で生きているんだからな」

 今にして思えば、父さんは、その日の夜から雨が降り出すことを天気予報かなにかで見て知っていたのだろう。だけど、この時のぼくは今まさに起きた奇跡に心の芯から驚き、興奮のあまり自分の反抗期も忘れて、気付けば父さんの腰に抱きついていた。

「俺が何度も唱え続けたおかげだな。明日のマラソンは延期になれ、明日のマラソンは延期になれって」

「……え?」

 抱きついたまま、顔を見上げて、キョトンとした。え、延期?

「……え?」

 キョトンとするぼくに父さんもキョトンを返してくる。え、違うの?

 結局、降り出した雨は次の日になっても降り止まず、予定していたマラソン大会は無事、延期となった。

 中止ではなく、延期だ。

「───あの日ほど父さんのミラチュルチンチュングを恨んだ日はない」

 二人で一緒に当時のことを思い出しながらぼくがなじると、隣で自作のカップケーキを頬張る父さんはクスクスと肩を揺らした。

「あれは雄馬の意志が俺より弱かったのが悪いんだよ。大体、ミラチュルチンチュングってのは邪な気持ちがあると成功しないんだ。マラソン大会を中止にするなんて、邪以外のなにものでもないだろ。マラソン大会を楽しみにしてた人だっているんだから」

「へいへい、もう何度も聞いたよ、それ」

 要するに、父さんにとってミラチュルチンチュングというのは、おまじないであり、意志の火付け役であり、哲学であり、生き方そのものなのだ。

「そういや、今日はなにしにこっちに帰ってきたんだよ」

 と、父さんがふと改まって、ぼくに訊ねた。

「あー……いや、前にドイツがワールドカップで優勝した時のユニフォームがぼくの部屋にあるでしょ。あれを自分ちに持っていこうかなって」

 ぼくは咄嗟に思いつきの嘘を口にした。そもそも今日の目的は「父さんに会う」ただそれだけのことだったから、会ったあとのことなんて、なにも考えていなかったのだ。

 逃げるように立ち上がり、空いた小皿をキッチンに移した。蛇口を捻って、水流と一緒に重たい溜息をシンクに落とす。

(死ぬ前に最後に父さんに会いに来たんだよ)

 本当のことを言いたいけれど、言ったところで、きっと父さんも楓と同じですぐに忘れてしまう。

 あの憎き緑色のサマーセーターを着た男によって、無かったことにされてしまう。

 自分の気持ちを、究極的に相手に伝えられないのがこんなにもつらいことだなんて、こんな状況にでもならない限り、きっと誰にも分からないだろう。このつらいという気持ちさえ、相手には一ミリも伝わらないのだ。

「そういや来年だもんな、ワールドカップ。でもお前、あれはキッズ用だろ? あんなのを着て試合を見るつもりか?」

「まさか、着るわけないでしょ」
 ぼくはつい吹き出して笑った。
「ただ手元に置いておきたいだけだよ。あの年のワールドカップ以来、ドイツは優勝してないからさ。まぁ、ゲン担ぎみたいなものさ」

「なるほどなぁ」

 そうは言いつつ、実のところ、ドイツが最後にワールドカップで優勝した1990年はぼくもまだまだ子供で、リアルタイムでちゃんと試合を観ていたわけではない。その四年後の94年大会の頃になぜかドイツ代表のファンになり、おそらく生まれて初めて父さんに買ってとせがんだものが、90年大会のドイツ代表のユニフォームだったのだ。

「それにしても、なんでぼくはドイツのファンになったんだろうね。他にもイタリアとかブラジルとか、いっぱい強い国はあったはずなのに」

 実際、ぼくがテレビで初めて観た94年のワールドカップには、イタリアにはバッジオがいたし、ブラジルにはロマーリオがいた。決勝のブラジル対イタリアのPK戦なんかは今でも鮮烈に記憶しているほどで、それなのに、ぼくはどういうわけかドイツを好きになった。イタリアでもブラジルでもなく、ドイツをだ。

「……さぁな。なにかドイツに感じるものがあったんじゃないのか」

「そんなもんかな」

「そんなもんだよ、なにかを好きになるって。なんにせよ、楽しみだな、来年が」

「うん、楽し……───」

 ぼくは言いかけた刹那、思わず言葉を詰まらせた。

 なんだよ……そういえば、楽しみになんてできないじゃないか。

 だって、ぼくは二日後には死んでしまうのだ。

 半年後のワールドカップを楽しみにすることなんて、できるはずがない。

 近々発表される楓のオーディション結果を知ることができないのと同じで、

 来年のワールドカップでドイツ代表が躍動する姿を目に焼きつけることも、

 次に会う時、父さんに部下の結婚式の感想を聞き出すことも、

 リュウの次回作に期待することも、

 もっと言えば来週の少年誌の漫画を楽しみに待つことさえも、

 ぼくにはできない。なにもできないのだ。

 希望とか、好奇心とか、期待とか、楽しみとか、そういったポジティブな感情を内包した光が自分の前から少しずつ無言で遠のいていくような絶望を、ぼくは感じた。

 必死に腕を伸ばしてみても届かない。すると、どこからともなく、「諦めろ」と言う声が聞こえた。緑色のサマーセーターを着た、あの男の声だった。

 もしかすると死というのは、遠のいていく未来のすべてを諦めることをいうのかもしれないとぼくは思った。遠のいていく未来から腕を引くこと、それが死なのだ。

「どうした?」

「……いや、なんでもない」

 無駄に長くすすいでいた小皿をシンク脇に立て掛け、かぶりを振った。

 ソファに座ってカップケーキを無邪気に頬張る父さんの姿が、ぼくの目には、やたらと切なく見えた。





 やがて時刻は昼の十二時にさしかかり、そろそろ仕事に行かなければならない父さんを、ぼくは玄関で見送った。

 沓脱ぎに座って革靴に足を押し入れ、ふぅと息をつきながら立ち上がる父さん。後ろにいるぼくに向き直り、にこりと笑う。

「じゃあ、鍵はちゃんとかけて帰れよ」

「うん」
 ぼくは廊下の壁に左肩を寄りかけ頷くと、「あ、待って」
 と、咄嗟に足を一歩前に踏み出し、ドアノブに手を伸ばしかけた父さんを呼び留めた。
「最後に一つ、訊いていい?」

「訊く? なにを」

「すっごいどうでもいいことなんだけど……、人間ってさ、なにかを思い出そうとする時、無意識に顔を上に向けるでしょ。あれって、なんでなのかなって」

 昨日、電車に乗っている時にふと感じた疑問。別に、あれからずっと気になっていたというわけではない。ないのだけれど、とにかくなんでもいいから、今はまだもう少しだけ父さんと会話をしていたかった。

「なんだそりゃ。なぞなぞか?」

「いや、なぞなぞっていうか、哲学?」

「うーん、たしかに、なんでだろうな。本能的に空にいる誰か……たとえば神様とかご先祖様に、その思い出したい内容を教えてもらおうとしてる、とか?」

「なるほどねぇ」

「はは、納得してない顔だな。まぁ、次に会う時までにはもう少しマシな答えを考えておくよ。じゃあ、行ってくる」

 せっかく延ばした会話も、すぐに終わった。往々にしてそうだが、もっと会話しなければならない時に限って、会話というのはなかなか上手くは続かないものなのだ。

「うん、仕事頑張って」

「お前もな」

 微笑みながらゆっくりと玄関を押し開ける父さんに、ぼくは思わず、「バイバイ、父さん」と言っていた。

 バイバイ。

 それはぼくにとって、もう二度と会うことのない永遠の別れを意味する言葉。

「おう、またな」

「うん……」

 違うんだよ、父さん。ぼくたちにはもう「また」は来ないんだ。ぼくたちはもう、これでお別れなんだ。なにも言えずに申し訳ないけど、今日が最後なんだ。

 ぼくと父さんを隔てる、ほんの数センチの厚みしかない玄関のドアが、パタンと寂しげな音を立てて、閉まった。

 その後、嘘を全うするため自分の部屋からドイツ代表のユニフォームを回収したぼくは、実家にさよならを残して、近所の鐘山に足を向かわせた。

 昨日の夢に鐘山の森が出てきたのが妙に気になっていたのだ。

 楓とリュウとぼくの三人で冒険をした鐘山の森。

 そもそもどうして夜中にそんな森の中を冒険することになったのかというと、その日の夜、新宿の居酒屋で酔っ払ったリュウが突然、「鐘山の展望台から眺める日の出の景色が最高なんだ」と言い出したからだった。その一言のせいで、ぼくも楓もわざわざ電車に乗ってこっちに移動し、鐘山の森を夜通し徘徊する羽目になったのだ。

 ひと気のない民家がポツポツと点在する山麓の坂道を登っていくと、ある程度の高さを超えたあたりで途端に足場の悪い山道に変わり、そこをさらに進むと、ふたたび舗装された歩道に戻って遊歩道の入り口へと躍り出る。

 遊歩道といっても、山の対岸にある展望台までの道のりを申し訳程度の看板で誘導するだけの簡素なもので、道脇に沿って等間隔に木の杭が打たれてはいるけど、網やロープでハッキリと仕切られているわけではない。

「展望台まで500m」

 入り口から少し進んだところで、ぼくは遊歩道をわざと横に外れた。前回の状況を踏襲したわけだけど、とはいえ、もちろん当時に関してはわざと道を外れたわけではなかった。

 ぼくたちは至って真面目に、道に迷ったのだ。

 深夜の森を照らす明かりは、リュウが家から持ち出してきた小さなハンドライトだけだった。そのハンドライト一つで、ぼくたちは展望台まで500mの距離を一晩かけてぐるぐるぐるぐると歩き回ったのだった。

「───リュウ、ぼくさ、展望台に着いたら楓ちゃんに告白する」

 あの日、ぼくは隣を歩くリュウに顔を近づけ、そう耳打ちをした。

 ぼくとリュウの少し後ろを歩く楓はほろ酔いの様子で、疲れてはいるようだが、それでも楽しげにひとり鼻唄を歌っていた。

「あ? なんて?」

「だから、ぼく、今日、楓ちゃんに告白する」

「……あ、そう」

「なんだよそれ、もっと応援してくれよ」

「はいはい、頑張れ頑張れ」

「恋愛に関しては百戦錬磨のリュウでしょ。なんとかしてぼくの告白を上手くアシストしてくれよ」

「やだよ、めんどくさい。自分の恋くらい自分で済ませろ」

 と、そんな風な会話を二人で声をひそめてした、ような気がする。

───あの冒険の一夜から四、五年が経った。懐かしい思い出に口元を緩ませながら、ひとり森の中をひたひた歩いていると、突然、後ろの方で、地面に落ちた枝が誰かに踏まれたような、パキッ……という音が鳴った。

「えっ……?」

 ぼくは肩を跳ね上げ、振り返った。

 しかし、乱立する木々がただひたすら視界一面に広がるばかりで、誰かが近くにいるような気配はない。

 空耳だろうか……。

 気を取り直して歩みを再開させると、しばらくしてふたたび、今度はさらに近いところから、パキッ……と誰かが枝を踏む音が鳴った。

 リスのような体重の軽い小動物が生み出す音ではないのは明らかだった。

 明らかに、人間の足が枝を踏み割る音だった。

 今度は後ろだけでなく四方八方を丹念に見渡した。誰かがどこかに隠れてぼくを見ているのではないか。リュウか、楓か。……それともまさか、幽霊? いや、それよりも現実的なのは緑のサマーセーターを着たあの男。なにを考えているのか分からないあの男なら、姿を隠してぼくのあとを尾けるなんてこともやりかねない。

 その後もぼくが歩くたびに後ろの方から音が鳴り、それを何度も繰り返すうちに、気付けばぼくは目的の場所に到着していた。

 目の前にそびえ立つ大きなクスノキ、その傍らにはぼくの腰の高さくらいの岩がある。昨日の夢に出てきた、あの場所だ。

「これ、なに?」

 いつからそうしていたのか、緑のサマーセーターを着た男が後ろからぼくの肩に馴れ馴れしく顎を乗せてきていた。

「やっぱり君だったか」

「やっぱりって?」

「いや、なんでもない」
 ぼくはかぶりを振った。
「これは……ただの岩だよ」

「だろうね。俺が訊きたいのは、どうしてわざわざ、ただの岩を見にきたのかってこと」

「それは、この岩がただの岩じゃないからだよ」

 横目で男を見やると、男は、死を間際にしてとうとう頭がおかしくなったかとでも言いたげな目でぼくを見ていた。そうさせたのは君だろうと言い返してやりたいところだが、この男と議論をしても不毛だというのは、この三日間で嫌というほど痛感している。

 正面に鎮座する岩を見下ろすと、前回リュウが岩肌を石で削って書いた短い文章が、今でもまだそこにハッキリと残っていた。

『雄馬、楓、リュウ、ここにあり』

 あの日、夜通し森の中を歩き回って、ぼくも楓も疲れて地面に腰をつく中、ひとりケロッとした様子のリュウが岩に歩み寄り、次に来た時は迷わないようにと、この文章をここに書き記したのだった。

「この、リュウっていうのは?」

「ぼくの親友」
 言いながら、ぼくはふと思いついて隣の男に顔を向けた。
「……ねぇ、ぼくの死を仄めかすような言葉は、相手に認識されないんだったよね?」

「そうだよ。君がなにを言っても相手はすぐに忘れるし、君が書いてる日記も、その部分は相手の脳には認識されない」

「それってさ、逆に言うと、死を仄めかすようなことじゃなければ、相手に認識されるってことだよね」

「……? 当たり前じゃん」

 男は怪訝に小首を傾げた。

「たとえば今日、父さんと交わした会話でも、ぼくの死を仄めかす部分を除けば、その内容は父さんの記憶にも残るってわけだ」

「だから、そう言ってるじゃん」

「分かった。ありがとう」

 ぼくは背負っていたリュックを腹側に移し、中をガサゴソと漁って、実家から持ってきた90年大会のドイツ代表のユニフォームを取り出した。





 鐘山をあとにしたぼくは一度自宅に戻り、久しぶりの運動で滲み出た汗をシャワーで洗い流してから、駅で楓と待ち合わせをして、リュウの行きつけだという東横線沿線のイタリアンレストランに足を向かわせた。

「リュウくんは?」

「いつも通り少し遅れるって。七時に児玉の名前で席を取ってるから、先に入って座っててくれだってさ」

「そっか」

 店に入ると、一番奥の四人がけのテーブル席に案内された。

 店の雰囲気は比較的こぢんまりとしていて、自己主張の強い華美な装飾もなく、ドラマに出てくるような、お金持ちのための店という感じではなさそうだ。

 しばらく楓と二人でメニューを見ながら過ごしていると、予約していた七時から十五分くらい経って、ようやくリュウが姿を見せた。

「おー、よく来たな」

 と、遅刻した側のセリフとは思えない一言を口にして、ぼくと楓の向かいに座る。

「リュウくん、珍しく今日は早いね」

 楓が皮肉を込めてそう言うと、額面通りにそれを受け取ったのか、リュウは自慢げに鼻の穴を広げてみせた。

「まぁな。今日は午後から打ち合わせがあったんだけどな。夜はこれがあるから超特急で終わらせてきたんだ」

「打ち合わせって? また新しい小説?」

 大学在学中にデビューを果たしたリュウは、すでにこれまでに何作もの作品を世に出している売れっ子作家だ。一週間前に新作の恋愛小説を発表したばかりだったが、小説の制作における打ち合わせがどの段階から始まるのかは、もちろんぼくや楓には知る由もない。

「いや、今日のはなんか、映画化の話が来てて、その相談的な」

「え、映画? リュウの小説が?」

 ぼくは先に出されていたコップの水に口をつけたまま、目を広げて驚嘆した。いつか必ずされるとは思っていたけど、そうか……、このタイミングか。

「そうそう。あ、でもこれまだ言っちゃダメなやつかも。内緒な」

「内緒って……」

「すごいじゃん、おめでとう」

 楓が嬉しそうにパチパチと手を鳴らし、少し遅れてぼくも続いた。

 リュウの小説が映画化なんて、親友として、幼馴染として、そりゃあ嬉しいに決まっている。

 ……でも、もう少し早くそうなっていれば、なんて思いもなくはないのが正直なところではあった。

 だって、そんな人生で一度あるかないかの機会を前にして、ぼくはこの世を去らなければならないのだ。

 ここにいる三人で一緒に映画館に観に行きたかった。そして、おれの原作の方がよかったな、いや、ぼくは映画の方も嫌いじゃなかったけどね、なんて言い合いたかった。


 でも、無理なのだ。不可能なのだ。

 そう思うと悔しいというか、残念というか、もったいないというか……。あぁ、死にたくないなと改めて思う。

「おう、サンキュー」

 それにしても、リュウはつくづく底の知れない男だった。いつも呑気で、世の中のことなんてなにも考えていないようなのに、実は誰よりも好奇心旺盛で、インプットとアウトプットを繰り返し、なんでも器用にこなしてみせる。

 二日前に緑のサマーセーター男が言っていた「事前に選択肢から弾かれる人間」つまり「社会に有益と見做された人間」というのは、きっとリュウのような人のことを言うのだろう。

 やや経って、ぼくたちのもとに注文していた料理がズラズラと運ばれてきた。基本、リュウが自分のオススメを注文してくれたから、テーブルの上にはパスタやらピザやらクリームでふにゃふにゃになったフランスパンやら、詳細の分からない魚料理やら、とにかく色とりどりの料理が野放図に並んだ。

 そのどれもこれもが絶品で、口に入れ、咀嚼し、飲み込み、美味いと感嘆するたびに正面で得意げな顔をするリュウを見るのは癪だったけれど、ぼくも楓もしばらくは会話をするのも忘れて豪華な食事に入り浸った。

「黒色の蝶ってのは、死者の魂らしいな」

 すると突然、リュウが手元を見つめて、そんなことを言った。

 なんの話かと思えば、テーブルの上のバケットの皿のふちのところに、小さな黒蝶のイラストがあしらわれていた。

「あ、なんかそれ、聞いたことあるかも」

 楓が赤ワインのグラスを口に傾けながら、片眉を上げた。その所作一つとっても、手前味噌だが、やっぱり彼女には女優の素質があるように思う。

「特に西洋ではそう信じられてきたらしい。ギリシャ語じゃ蝶はプシュケっつって、その語源を辿れば霊魂を意味するプシュケーから来ているくらいだからな」

「でも、なんで黒蝶が死者の魂なのかな」

 ぼくは素直な疑問を口にした。黒というのが死のイメージと結びつくのは分かるけど、蝶のどこに死の要素があるというのか。

「蝶は花に寄ってくるだろ? そんでもって、墓地には必ず花があるから、自ずと蝶もそこにやってくる。大切な人を弔う時に、どこからともなく花に向かって飛んでくる蝶の姿が、昔の人には死者の魂に見えたんじゃないかな。いや、というより、昔の人にとってそれは間違いなく死者の魂だったんだよ」

「なるほどねぇ。素敵な発想」楓は感心するように頷いた。

「だろ?」
 と、そう言ってニヤニヤと笑うリュウ。彼が次になにを言うのか、ぼくには容易に察しがついた。
「この話をすると……」

「大抵の女の子はすぐに落ちる、でしょ?」

 リュウがインプットした知識をアウトプットするのは、小説を書く時か、ぼくたちに話をする時か、女の子を口説く時かの三択と決まっているのだ。

「お、さすがおれの幼馴染で無二の親友。よく分かってる」

「その幼馴染で無二の親友のぼくでも、なんでリュウがそんなに女の人にモテるのか、いまだによく分からない」

 なんてね。リュウが女の子にモテる理由は誰よりもぼくがよく分かっている。

 顔立ちもよく見れば男前だし、性格も明るく、なにより彼には才能がある。女癖の悪さだって、彼の要領の良さをもってすればたちまち色気に変わる。むしろ、モテない理由を探す方が難しいくらいだった。

「おれはな、雄馬」
 リュウが人差し指と親指をピンと伸ばして、銃を構えるようなポーズを取った。
「恋愛ってのは狩猟と同じだと思ってるんだよ」

「へぇ、狩猟かぁ」

 楓が組んだ両腕をテーブルの上にくつろがせ、また変なことを言い出したぞと興味深げな目でリュウを見ている。

「いいか? シベリアにいるユカギールっていう狩猟民族はな、エルクっていう大きなヘラジカを捕まえる時、まずは自分の体に毛皮とか耳飾りをつけて、自分自身がエルクになりきることから始めるんだ。ただ真似をするんじゃない。本当にエルクになる。すると、本物のエルクが仲間だと思って警戒を解いて近づいてくる。ユカギールはそのタイミングを狙って、エルクを撃ち落とす。それが彼らの狩猟方法なんだ」

 と、そこまで言って言葉を焦らすようにワインを口に含ませるリュウに、楓は上体を少し前のめらせて、話の続きを促した。

「それで? それがどう恋愛に結びつくの?」

「いいか? 要するにだ。ユカギールがエルクになるってことは、心も体もエルクと一体になるということだ。自分自身もエルクの目線に立って、エルクに同化する。だからエルクもユカギールに対する警戒を解く。恋愛もさ、それと一緒だよ。どれだけ好きな人の目線に立って物事を考えられるか。それが肝要だ。この人は今なにを求めているのか、なにを言ってほしいのか。それが次第に、自分は今なにを求めているのか、なにを言ってほしいのか、という自問と絡まり合い、融合する。わたしはあなたで、あなたはわたし。心を通わせるっていうのは、そういうことだ」

「リュウくんも、それを実践してるってわけだ」

「そういうこと」

「で、成果は?」

 笑いながら訊ねる楓に、リュウは大袈裟に肩をすくめた。

「ちょうど昨日、可愛い女の子にフラれてきたとこだ」

「ダメじゃん」

「ああ、ダメダメだな」

 目尻に涙を溜めて笑う楓に、口を広げてゲラゲラ笑うリュウ。

 そんな二人を見て、ぼくも笑う。

 ぼくたち三人の重なり合った笑い声が店の中に響き渡る。

 他のお客さんに迷惑かなとは思ったけれど、溢れ出す笑いは止めようがない。

 こんなに屈託なく笑えたのは、思えば死の宣告を受けて以来、初めてだった。

 楽しい時間は瞬く間に過ぎていき、夜の九時を超えたところで、そろそろ今日はお開きにしようということになった。リュウはこれからまた仕事の打ち合わせに出向かなければならないらしい。

「次、いつ会おうか」

 別れ際、ほろ酔い気味の楓が店の前でスマホを確認しながら言った。マフラーに半分うずめた彼女の口からはふわふわと白息が立ち昇っている。

「まぁまた近いうちに」

 と答えるリュウも、両手をコートのポケットにねじ込み、寒そうに体を縮こませている。

「ダメダメ。そんな風にしてるとまた次の機会に、次の機会にってズルズルと先延ばしになっちゃうんだから。今日だってほら、何ヶ月ぶり? とにかく、こういうことは早めにズバッと決めなくちゃ」

「それもそうだな。じゃあ……来年の年明けにしよう。二人の一月の予定が分かったらまた連絡してくれ。その中でおれも大丈夫な日があれば、そこでどうだ」

「オッケー。あっ、そうだ、じゃあ今度はさ、誠司せいじさんも招待して、わたしたちの家で新年会しようよ!」

 楓が少し赤らんだ顔で、ぼくを見上げた。彼女の言う誠司さんというのは、ぼくの父さんの下の名前だ。

「おお、そうしようぜ!」

 リュウもそれに同調する。

「ね! じゃあそれで決まり!」

「よっしゃー!」

 楓とリュウが子供のようにはしゃいでハイタッチをするすぐそばで、ぼくはひとり、なんとも言えない虚しさを感じた。

 夢見心地の足元に突然、底なしの穴が開かれたような感覚だった。

 楽しいひとときを過ごしたからこそ、この振り幅は、この時期の寒さと同じくらい、身に堪えた。

「来年の楽しみが一つ増えたねっ!」

 ぼくに向けられた楓の声がぴょんと弾む。

 楓も、リュウも、まだ知らない。

 その新年会が開かれることは、多分ないということを。

 それどころか、今日みたいにみんなで一緒に集まれる機会は、もう二度とやってこないということを。

「……うん、そうだね」

 それを知っているのは、この世でただ一人、ぼくだけなのだ。





 夜、帰宅してそれぞれシャワーを浴び終えると、ぼくと楓は久しぶりにベッドの上で体を重ねた。

 今日はどうしようもなく楓を抱いていたかった。

 正直、今日抱いておかなければもう二度と抱くチャンスはないという、邪な気持ちというか、危機感に似た想いがあったのも否定はできない。

 だけどそれ以上に、こんな言い方をしてしまうと陳腐に聞こえるかもしれないけれど、積もり積もった楓への愛情が、どうしようもなく抑えきれなくなったのだ。そして、この溢れ出る愛情を言葉で伝えられない以上、ぼくに残された愛の表現方法は一つしかなかった。

 それなのに───楓の肌がぼくの肌と触れ合うたびに、彼女の温度、表情、息遣い、仕草、体のライン、そのすべてが愛おしく思えてきて、しかし愛おしいと思えば思うほどに、ぼくの心は絞ったレモンのように萎びていくのだった。

 それでもなんとか心臓が性器に血液を送り続けられたのは、人間の生命力のなけなしの抵抗といったところだろうか。

 その後、先に眠ってしまった楓に毛布をかけて、ぼくは寝室をあとにし、リビングのダイニングチェアに腰を休めた。

 棚から持ち出してきた日記を開き、新しいページに今日の日付を書き込む。

 思いの丈をすべてそこにぶつけるように、ぼくは乱暴にシャーペンを走らせた。

 途中、そのシャーペンの芯が何度も折れた。消しゴムで消そうとすると、勢い余ってページがくしゃっとひしゃげてしまった。シャーペンの頭をクリックする。溜まった消しカスをテーブルにに払う。

 ポタ……とページに水滴が落ちた。

 いつのまにかぼくの目からは重たい涙がこぼれ出てきていた。

「ねぇ……今までにもぼくと同じ境遇の人はいたんだよね?」

 一、二時間はそうしていただろうか、ぼくは、溢れ出る涙がこれ以上日記を濡らしてしまわないように両手で顔を覆うようにしながら、リビングの諸々を退屈そうに物色して回る緑のサマーセーター男に声をかけた。

「ん? あぁ、うん、たくさんいたよ」

「どんな感じだった? 自分の死が差し迫ってきた時、その人たちは」

「どんな感じって……まぁ、みんな、今の君と似たような感じだよ。最初は驚いて、でもわりとすぐに落ち着いて、だけど途中でいきなりぶわっと感情が込み上げてきて、そして最後は諦念の境地に至る。みんな同じだ」

「諦念……」

 ふと手のひらを顔から離すと、あれだけ止まらなかった涙がピタリと止まっていた。涙が枯れる、なんていうのは大昔から使い古された言葉かもしれないけれど、ぼくはこの時、初めてそれを実感した。

「さて、明日で四日目だ」
 と、男は短く溜息をつくように言った。
「一日をフルで過ごせるのは明日がラストだよ。そろそろ、なにを俺にお願いするか決めた?」

「ううん、まだ」

「いいかげん早くしてくんないかな。こっちにも都合ってもんがあるんだから」

「分かったよ」

 ぼくは日記を手に取り、席を立った。

 キッチンでコップ一杯だけの水を飲み、寝室のドアをゆっくりと開く。

 静かに寝息を立てる楓を起こしてしまわないよう、息をひそめてベッドの中に体を潜り込ませる。部屋の就寝灯をオフにすると、部屋はすっかり真っ暗になった。


『12月4日 水曜

 あと2日でぼくは死ぬ。正直に言って、死にたくない。当たり前だ。まだまだ人生これからだと思ってた。まだまだやりたいことはたくさんあった。まだまだやり残したこともたくさんある。楓といろいろな国に旅行したかった。楓と現地でドイツ代表の試合を観戦したかった。楓が女優として今よりももっと活躍する姿を一番近くで見たかった。楓が主演した映画をシネマ・グリュックで流したかった。楓と結婚したかった。リュウの小説をもっと読みたかった。リュウの映画を観にいきたかった。リュウと二人でもっとバカしたかった。アホみたいなことでもっと笑いたかった。楓との子供がほしかった。幸せな夫婦生活を送りたかった。父さんにもっと感謝を伝えたかった。受けてきた恩に比べて、ぼくは父さんにまだほとんどなにもできていない。恩返しがしたかった。もっと良い息子でありたかった。父さんの料理をもっといっぱい食べたかった。もっとみんなで一緒にいたかった。死にたくない。まだ死にたくない。もっと生きたい。なんでぼくが死ななくちゃいけないんだ。意味が分からない。死にたくない。死にたくない。死にたくない死にたくない』




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