【第四話】●わたし● 2






 どうやらダイニングテーブルに顔を突っ伏したまま、一晩中寝てしまっていたらしい。顔を上げると、すでに正面の出窓からは眩しい朝陽が外の桜をまだらに輝かせていた。

 ふと、窓台に置いた二つの写真立ての傍らにある鉢植えのアングレカムが、いつのまにか枯れてしまいそうになっているのに気が付いた。

 元々冬から春にかけて咲く花だから仕方ないけど、それでもやっぱり大好きな花が萎れていくのを見ると、それと一緒にわたしの心も萎れてしまったような気持ちになる。

 こんな気持ちになるくらいなら初めから育てなければいいのに、去年も、一昨年も、なんなら十年以上前からこの時期になるといつも感じる憂鬱を、わたしは今年もまた性懲りもなく痛感した。

 枕にしていた腕に押し当てていた顔の右半分に、ジンジンと軽い痺れを感じた。スマホ画面を鏡にして確認すると、案の定、額から右頬にかけてが少し赤くなっている。

 口の中にもまだ昨日のアルコールの残滓が残っていた。二日酔いというわけではなさそうだけど、変な体勢で寝たせいもあってか、なんだか嫌に頭が重かった。

 ぼんやりした目を指の腹で揉みほぐすようにしながら立ち上がり、キッチンに足を向かわせた。薬缶に水を汲み入れ、コンロに火をつける。冷蔵庫を開け、なにか口に入れられるものはないかと探してはみるけど、食欲はあまりなかった。

「コーヒーだけでいいや」

 ぼそりと呟き、湯気立つ薬缶の火を止める。

 コーヒーを片手にリビングに戻り、ダイニングチェアにふたたび座った。

 テーブルに置きっぱなしにしていた雄馬の日記を手に取り、熱いコーヒーを唇に染み込ませるようにして飲みながら、ページをめくった。


『2013年12月3日 火曜

 日記を付けはじめて二日目。隣の寝室で寝ている楓を起こさないように、リビングでこれを書いている。さて、今日はなにを書こう。今日は仕事だった。当たり前か。仕事といえば、ふと気が付いたことがある。バイト時代も含めると、どうやらぼくは今の職場に10年近くいることになるらしい。いやはや恐ろしい。時の流れというのは本当に恐ろしい。グリュックにバイトの面接で初めて行った日のことは、まるで昨日のことのように覚えている。影山さんに「手狭な事務所で恐縮です」と言われて、本当に「手狭だなぁ」と思ったことも覚えている。思い返してみると、この10年では色々なことがあった。辛いことも、もちろんあった。お客さんに理不尽に怒鳴られたり、バイト仲間と喧嘩をしたり。だけど、大抵のことはもうすっかり忘れた。忘れる、というのは意外と大事なことなんだと思う。じゃないと人間、いつか頭がパンクしておかしくなっちゃう気がする。そういう意味では、どうやら時間というのは恐ろしいものではあるけど、付き合い方次第では心強い味方にもなってくれるらしい。……なに言ってんだ、ぼく。はい、お察しの通り、少し酔ってます。あとで読み返して恥ずかしい思いをするんだろうなぁ。忘れよう忘れよう。楓はもう寝てしまっている。今日はぼくの帰りが遅かったから仕方ない。今日のオーディションの感触はどうだったかな。明日、起きたら訊いてみることにしよう』



 この日のことは、今でもよく覚えている。

 珍しく雄馬の帰りが遅かった日で、わたしもちょうどドラマのオーディションが終わったばかりで疲れていたので、先にベッドに入って休んでいたのだ。

 その夜、寝室のドアが開く音がして、わたしはまぶたを閉じたまま目を覚ました。雄馬はわたしが起きたことに気付かなかったみたいで、ベッドのふちに腰を下ろすと、わたしの手を取り、わたしの鼻先に顔を近づけ、

「今日のオーディション、上手くいってますように」

 と、何度もそう繰り返した。まるで彼が大好きだったミラチュルチンチュングを唱えるみたいに。

 すると途端になぜだか涙が込み上げてきて、わたしは寝返りを打つふりをして、咄嗟に彼のその声から顔を背けた。起きているのがバレ、涙の理由を問われた時に、その場でハッキリと答える勇気がなかったからだ。

 翌朝、わたしが起きてリビングに向かうと、雄馬は今日のわたしみたいにダイニングテーブルの上に突っ伏して眠っていた。

 二人分のコーヒーを淹れて向かいに座ったわたしは、彼を起こして、昨日の涙を言葉に変えた。

「あのね、雄馬、今回のオーディションがもしダメだったら、そろそろ今の道を諦めてもいいかなって考えてるんだよね」

 少し前から考えはじめていたことではあった。

 わたしが主演した映画を雄馬の映画館で上映する。───たしかにそれも華やかで素敵な夢ではあるけれど、それと同じくらい、雄馬と二人でささやかな幸せを噛み締める人生を歩みたいとも思うようになってきていた。

 いつ叶うかも分からない夢を追い続けているより、今ある確かな幸せを一身に感じたかった。

 前夜の雄馬の祈るような囁きとは相反してしまうけど、だけど彼のその優しさが、かえってわたしのそんな想いをよりいっそうに強くさせた。あの時の涙は、その矛盾に対する葛藤が、わたしの目から溢れ出してきたものだった。

 わたしの言葉に、雄馬は驚いたように目を広げると、ふっと悲しげな微笑を浮かべて、
「そっか」
 と呟くように、そう言った。
「楓の人生なんだから、楓のしたいようにするのが一番だと思う」

「うん……」

 わたしは頷く代わりに、コーヒーをひと口飲んだ。

「ごめんね、大事なことなのに、こんなことしか言えずに」

「ううん、ありがとう」

 正直、雄馬の口から「結婚」の二文字が出てくることを少し期待していた自分もいた。

 そしてなにより、そうやって自分の都合で彼にわたしたちの人生の決断を押し付けようとしている、そんな自分が、情けなくて、みっともなくて、恨めしかった。

「だけど本当にそう思うんだよ。楓が後悔しないなら、ぼくはそれでいい。楓が後悔してしまうのが、ぼくにとってもなによりの後悔だから」

「うん……」

 つくづく、雄馬はどこまでもわたしに優しい人だった。

 そして、彼のその優しさになにもかも委ねてしまうわたしは、つくづく卑しい人間だった。

 結局、彼の死の直後にオーディションの結果が発表されて、次の審査への通過が決まったことで、わたしの夢は辛くも延命された。

 本当の意味でわたしが女優の道を諦めたのは、それからさらに五年が経ってのことだった。

 現実に返る。ぬるくなったコーヒーを飲み終える頃には、そろそろ部屋を出ないといけない時間になっていた。

 着替えと軽めの化粧を済ませて、玄関を開ける。空を見上げると、一面にねずみ色の分厚い雲が浮かんでいた。

 この時間、新宿までの上り電車はいつもいつも満員だ。それなのに、ひしめく人波に揉まれて苦悶しているのはわたしだけ。周りの乗客たちはみんな、平然とスマホをいじったり、本を読んだりしている。

 新宿駅に到着すると、満腹の子供が食べたものを戻してしまうみたいに、満員の車両が乗客たちをドサドサと吐き出していく。後ろのおじさんの膨らんだお腹に弾き出されたわたしは濁った溜息をついて、地下のホームを昇って地上の改札を脱出した。

 図書館までの道中、信濃町方面に向かう大通り沿いを歩いていると、車道側から突然、パパーッと甲高いクラクションが鳴った。

 ギョッとして肩を跳ね上げ目をやると、スマホを操作しながら歩いていた若い男性が誤って横断歩道を赤信号で渡ってしまったらしく、すんでのところで急ブレーキをかけた車の運転手が窓から顔を突き出し、その男性にめがけて怒声を浴びせていた。

「てめぇ、この野郎、俺を人殺しにする気か!」

 轢かれかけた男性は青褪めた表情を浮かべて、駆け足になって横断歩道を渡りきると、車が走り去ったあともしばらくその場に立ちすくみ、すでにそこにはいない相手に向かって何度も頭を下げ続けていた。

「───朝っぱらからうるせえな」

「───轢かれたら面白かったのに」

 あわや大事故の瞬間を近くで見ていた周りの歩行者たちの声が、横から後ろから、ちらほらと聞こえた。

 どうしてみんな、平気でそんなことが言えるのだろう。

 車道を挟んだ向かい側の歩道では、目の前でペコペコと謝り続ける男性の姿をスマホで撮影している人もいた。

 どうして誰も男性に声をかけてやらないのだろう。

 今にもわたしは過呼吸を起こして、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 もちろん、赤信号で横断歩道を渡ったあの男性が一番悪い。そんなのは分かっている。だけどこの先、なにかのはずみで自分があの男性のようになるという可能性もゼロではない。

 それなのに周りの人たちは皆、まるで他人事のように轢かれかけた男性を軽蔑し、嘲笑している。

 その光景が恐ろしくて仕方がなかった。

 しかし、なによりも恐ろしいのは、わたし自身がその光景を構成している人間の一人だという事実だった。

 その場に立ちすくむだけで、あの男性に駆け寄り、声をかけてやることのできないわたしも、結局は周りにいる歩行者たちとなんら変わりないのだ。

 わたしはギュッと目を閉じ、ふらつく体の芯をピンと立て直すように背筋を伸ばした。

 深呼吸をしてから、目を開ける。

 気付けば男性の姿は見えなくなっていた。

 気にしちゃダメ。わたしはなにも見ていない。わたしは自分にそう言い訳をして、ふたたび図書館を目指して歩きはじめた。





 美代子さんが過労で倒れたと連絡を受けたのは、それから二週間後のことだった。

 息を荒げて病室の扉を開けたわたしに、ベッドに上体を起こして本を読んでいた美代子さんはいつものように、まるで待ち合わせに少し遅れてやってきた友人に気付いたみたいに、あっけらかんと片手を上げた。

「おー、楓ちゃん。来てくれたんだ」

「美代子さん……大丈夫、なの……?」

 わたしはベッドに駆け寄り、白色のタイルの床に膝をついた。

「大丈夫大丈夫。なんか一瞬、体がバテちゃったみたい。一応何日か検査入院をしましょうって話らしいけど、ほらこの通り。私は全然、大丈夫だよ」

 下唇を突き出し、おどけてみせる美代子さん。だけど、二週間前に会った時よりもさらに痩せているのは明らかだった。あの時は減酒ダイエットなんて言ってふざけていたけど、もしかするとあの時点ですでに美代子さんの体には良くない変調が起きていたのかもしれない。

「よかった……、本当に……」

 目元に溜まった涙で、美代子さんの顔がぼやけて見えた。彼女の異変に気付けなかった罪悪感とか、もちろん命に別状はなかったことへの安堵とか、いろいろな感情が涙になって、胸の奥底からドッと込み上げてきたのだ。

「なになに、なんで楓ちゃんが泣いちゃうの」美代子さんは呆れるように眉を垂らした。

「分かんない……」

「ごめんごめん。でも、ありがとうね」

「ううん……わたしの方こそ、ごめん……」

 ふと、窓辺のチェストに目がいった。そこに置かれたキレイなフラワーアレンジメントが、少しだけ開いた窓から吹き込む優しいそよ風に揺らされていた。

「ああ、これ。これはね、さっき西郷くんがわざわざ持ってきてくれたの。相変わらず律儀な奴だよねぇ」

 美代子さんがチェストの上に親指を向ける。

 大ちゃん。わたしの今の恋人。西郷大介。

 恋人なのに、わたしが一方的に距離を置かせてほしいと申し出た今年の一月以来、もう何ヶ月も会っていない。

「大ちゃん、来たんだ」

「そうそう。一時間くらい前だったかな」

「そっか……」

「……なんか彼、今日は一日休みで、暇にしてるって言ってたよ」

 窓の外の曇り空に目を向けて、さりげなくそう言う美代子さん。彼女のその言葉の意図は明らかだった。

「そっか」
 わたしは俯き、手のひらを揉んだ。
「じゃあ……、あとでちょっと連絡してみる」

「うん、それがいいよ。お互いに」

 窓からわたしに視線を戻した美代子さんの目が糸になる。美代子さんの笑顔はいつも、普段の凛としていて男勝りな彼女と打って変わって、あどけない少女のように可愛らしい。

「……てかっ、わたしのことなんかより」
 わたしは話を逸らした。
「美代子さん、働きすぎなんだよ。気持ちでは大丈夫だと思っていても、疲労はしっかり体に蓄積していくんだから。もう少し適度に休まないと」

「はいはい。でもまぁ、その点についてはもう大丈夫かな」

「だから、自分では大丈夫だと思っていても……」

「いや、そうじゃなくて」

「そうじゃない? ……って、どういうこと?」

「わたし、今の会社辞めることにしたから」

「へ?」

「辞めるの、今の会社。退院したら、退職届を出すつもり」

 涼しい顔でそう言う美代子さんに、わたしは驚きのあまり言葉が出てこなかった。

「え……っと、え?」

「別に急に決めた話でもなくてさ、前々から考えてはいたんだ。最近、なんか自分、停滞気味だなぁって。漠然とさ、このままじゃダメだよなぁって」

「停滞って……、着実に昇格してて順風満帆そうだったじゃん」

 実際、美代子さんは旧態依然とした会社に身を置く女性のわりには、異例の早さでステップアップを踏んでいた。同期に差をつけ、上司を追い抜き、後ろから嫉妬や僻みの囁きを浴びせられながらも、歯牙にも掛けずに仕事をこなす。美代子さんはまさに、今の時代を象徴するような強い女性なのだ。

「順風満帆と停滞は表裏一体ってことですなぁ」

「でも、辞めてどうするの?」

 ようやく、頭に冷静な疑問が浮かんできた。

「ふふふ、楓ちゃん、西郷くんと同じこと訊いてくるね」

「……そんなのはいいから、どうするつもりなの?」

「ま、月並みだけど、外国にでも行ってみようかなって」

 美代子さんはベッドのヘッドボードに後頭部を押し当て、天井に息を吹きかけるように首を上に傾けた。

「外国……って、もしかして」

 ハッとするわたしを横目で見やり、ニヤリと笑う。

「うん、そうなのよ。お察しの通り」

「まさか、前に言ってた、あのナイジェリアの?」

 二週間前の居酒屋で美代子さんが何気なく漏らしていた、あの男性。たしか、ナイジェリアにルールを持つアメリカ人と言っていただろうか。

「そ。セルジュっていうんだけど、あ、でも待って、別に彼と結婚するとか、そういう話じゃないからね。ただ単純に彼からアフリカでのボランティアの話とかを聞いてて、そっちの道もアリかもなぁって、そういう話だから」

「美代子さん、英語喋れたっけ?」

「ううん、全然。そもそも行く国が英語圏とも限らないし。でもまぁ、とりあえずある程度は勉強してから行くつもり」

「いつ頃? いつ頃行くつもりなの?」

「まぁ今年中には」

「今年中って、もうあと半年ちょっとしかないじゃん」

 わたしは美代子さんの肩を掴んで、親に駄々をこねる子供のように言い縋った。

 美代子さんはどんな時でもわたしのそばにいてくれた。

 雄馬が亡くなった時も、女優を諦めた時も、大ちゃんと付き合うことになった時も。

 そんな人があと一年もしないでわたしのそばからいなくなるなんて、想像するのも嫌だった。

 だけど───。

「さすがに無謀かな?」

「無謀だよ、そんなの」
 わたしは頷き、
「でも」
 と続けた。
「今まで美代子さんが選択を間違うところなんて一度も見たことないから、だから多分、今回もきっと大丈夫なんだろうなとは思う」

 美代子さんは昔からそうなのだ。誰よりも自分のことを冷静に、長期的に、俯瞰的に見つめ、すると決めたらスパッと決める。一度彼女が決めたことを他の人間が覆すのは、きっと山を動かすよりも難しい。

「へっへっへ。だよね、自分でもそう思う」

 と、そう言って美代子さんは天井を見上げたまま嬉しそうに破顔した。窓の向こうで雨雲の隙間から束の間に射し込む太陽の光が、凛々しさの中にもやっぱりどこか幼さの残る彼女のその横顔を明るく照らし出していた。





 その日の夜、わたしは新宿の駅近くにある喫茶店に足を運んだ。

 わたしの到着から数分遅れて、といってもわたしが待ち合わせの時間よりも早く着き過ぎただけなのだけど、大ちゃんが店に入ってきた。

 美代子さんの病室を出たあと彼に連絡を入れて、今日の夜にここで会おうと約束したのだ。

 突然のわたしからのLINEにも大ちゃんはものの数分で「分かった」と返信をくれた。

 この店は三年前、大ちゃんと付き合いはじめた時から二人でよく来ていた店だった。

「久しぶり」

 大ちゃんは店の奥の窓際のテーブルに座るわたしを見つけると、ぎこちない笑みを口元に浮かべて、向かいの椅子に腰を下ろした。

 数ヶ月ぶりに見る彼は心なしか少しげっそりとしていて、口周りにはあまり似合っているとは言えない無精な髭がポツポツと生えていた。

「久しぶり。ちょっと痩せた?」

「あー……どうだろう。たしかにちょっと痩せたかも」

 と、そう言って顎の輪郭を手でなぞる大ちゃんが着ている紺のジャケットは、よく見ると以前、わたしと一緒に出かけた時に彼が購入したものだった。その下に白い無地のTシャツ、下はコーデュロイの茶色いパンツを履いている。いかにも大ちゃんらしい、素朴で優しい格好だ。

「髭も生えてる」

「うん、いつも剃るの忘れちゃうんだよなぁ」

「そっか」

 注文を取りにきたウェイターに大ちゃんはアイスココアを注文した。彼は雄馬と違ってコーヒーが苦手で、わたしのカフェ巡りに付き合う時はいつも必ず、カフェオレやココアを注文した。

「美代子さん、思ったより元気そうでよかったよね」

 しばらくして、運ばれてきたアイスココアをストローでカラカラと掻き混ぜながら、大ちゃんが言った。

「うん」

 わたしは唾を飲み込むように頷いた。そのまま窓の方を一瞥すると、いつのまにか分厚い雨雲が地上に雨を振り落としはじめていた。

「最初に聞いた時は、ビックリしたけど」

「美代子さんが倒れたことに? それとも、いきなり外国に行くって言い出したことに?」

「んー、どっちも」

 大ちゃんはストローをいじる手を止め、ニコッとどこか儚げに微笑んだ。

 きっと彼もこの店に呼び出された時点で、わたしが今日なにを言うつもりでいるのか、わたしになにを言われるのか、大体の予想はしてきているのだろう。

「だよね。わたしもビックリした」

 わたしの言葉で会話が途絶える。

 言葉と言葉の隙間の静寂を埋めるように、降り落ちる雨がコツコツと店の窓ガラスを鳴らしている。

「雨、降り出しちゃったね」

「店を出る頃には止んでるといいけど」

「そうだねぇ」

 大ちゃんが相槌を打つ。会話が途絶える。雨音がわたしたちの会話の間を埋める。

 気まずい沈黙に耐えきれず外の景色を探ってはみるけど、会話の手掛かりになりそうなものはどこにもない。余計な話はいいから早く本題を切り出せと、空の上から神様に急かされているような、そんな気がした。

「あのね、大ちゃ……───」

 わたしが意を決して言おうとした、その時、店の入り口の扉に掛けられた小さな鈴がカランコロンと音を鳴らした。

 意識と視線が思わずそちらに逃げてしまう。

 扉を開けて中に入ってきたのは、服をびしょびしょに濡らした大学生くらいの若い男女数名だった。

「雨やべー! 最悪だな!」

「もう髪もびしょびしょだよぉ、ホント、サイアク!」

「ははは、お前、髪の毛ワカメみたいになってるぞ!」

「まじか、最悪だわ」

 最悪、サイアク、と口々に嘆きながらも、彼らはその「最悪」を「最高の青春」に変換して楽しそうに笑い合っている。

 わたしにも、あんな時代が確かにあった。もう遠い過去の話だけれど、どんなことにも楽しみを見出せるような、幸せを感じられるような時代が、確かにあった。

 だけど今はもう違う。

 楽しげな彼らを見ても、今日は元々夜から雨の予報だったのだから傘の一本くらい用意できただろうにと、つまらないことを思うばかりだ。店の中では静かにしろよと、大人げないことを思うばかりだ。

「ねぇ……、楓」

 一度閉じた口をふたたび開けられずにいるわたしに代わって、大ちゃんがゆっくりと口を開いた。

「うん」

「どうして今日、楓が僕をこの店に呼んだのか。一応、勘の鈍い僕なりに分かってはいるつもりだよ」

「うん」

「だけど、もう少し待ってもらえないかな」

「待つ……?」

 無意識に下向けていた顔を正面に持ち上げると、目の前に座る大ちゃんの優しい瞳が少しだけ潤んでいるように見えた。

「君に距離を置かせてほしいと言われて数ヶ月が経った。僕も待ったんだから、楓も少し僕を待ってくれないかな。そのあとでもう一度、二人で話し合って答えを出しても遅くはないんじゃないかな?」

「でも……、これ以上わたしのせいで大ちゃんの貴重な時間を無駄にしてほしくはないの」

「別に僕は無駄にしてるなんて思ってない」

「ううん、してるの。ていうか、させてるの、わたしが」

「僕はそんな風には思ってない」

「でも、わたしはもう……」

「お願い、楓。僕はまだ、君との約束を果たせてない」

 大ちゃんが潤んだ目を力ませる。彼のその一言で、わたしは、三年前に大ちゃんに交際を申し込まれた日のことを思い出した。

 そういえば、あの日もわたしたちはこの喫茶店にいた。あの日、大ちゃんはこの店でわたしに、「もう二度と楓に悲しい想いはさせない」と、そう約束してくれたのだ。

 それなのにわたしは───。

 わたしは、もう二度と経験したくなかったはずの想いを、大切な人との別れの道を、今まさに、しかも今度は自らの意志で、選ぼうとしている。

 大ちゃんがわたしとの約束を果たせていないのではない。わたしが大ちゃんとの約束を反故にしたのだ。

 どうしてこんな選択をしようとしているのか、正直自分でも分からない。

 なにが正解で、なにが間違いなのか。

 美代子さん、本当にこれでいいのかな? そこにいるはずのない美代子さんに泣き縋るように、わたしは店の天井を仰ぎ見た。

「……分かった。じゃあ、ゆっくり考えてみて」

「うん、ありがとう」

 大ちゃんは目元の涙を指先で拭うと、まだ一口も飲んでいないアイスココアを、ふたたびストローでカラカラと掻き混ぜた。





 大ちゃんとは新宿の駅で別れて、そのままわたしは電車に乗って帰宅した。

 誰もいない部屋の玄関を開けて、電気をつける。日中に美代子さんが倒れたと聞いて家を飛び出した時のまま、埃の位置ひとつ変わっていない。

 シャワーを浴びてリビングのダイニングチェアに腰を下ろした。なんだか今日一日でドッと疲れが出たような気がした。

 水道の水を少しだけ注いだコップをくゆらせながら、「なんでこうなっちゃったかな」とひとりごちる。

 不思議と涙は出てこなかった。

 窓台で枯れかけたアングレカムを一瞥したのち、テーブルの上の雄馬の日記を手に取った。

 三日目のページをめくる。


『12月4日 水曜












                  』


 三日目の日記は、その日の日付だけ打たれて、あとはなにも書かれていなかった。

 なにかを書こうと思ったけど、直前に思い直して書くのをやめたのだろうか。

 そもそも雄馬がどれくらいの熱量でこの日記を書いていたのか分からないから、日付まで書き記したところで、ふと飽きが来てしまったのかもしれない。

 ノートを閉じると、欠伸が漏れた。さすがにまたここで寝落ちをするわけにもいかず、わたしは重たい体をなんとか椅子から持ち上げ、寝室に移動した。

 今朝起きた時のまま毛布がべろんとはだけたベッドに体を潜り込ませると、しばらく使われていない他人の家のベッドのような、ひんやりとした違和感があった。

 明かりを消して、目を閉じた。

 暗くなった視界の中に、先ほどの大ちゃんの姿がぼんやりと映し出された。切なげな顔でアイスココアを掻き混ぜる、あの時の大ちゃんの姿は、わたしの罪悪感そのものだった。

 静かに目を開け、ふたたび閉じる。

 暗闇からまた暗闇へ。

 だけど大ちゃんの姿は、もうそこにない。

 時計の秒針が毎秒を刻む単調な音と外の雨音とが暗闇の中で混ざり合い、ただひたすらに寝心地の悪い不協和音が、わたしの耳を撫でつけてきていた。



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