【第六話】●わたし● 3



● わたし ●





 目を覚ますと、天井にできた小さなシミと目が合った。二つの黒いシミが点々と横並びになっているせいで、いつも上から誰かに睨まれているような感じがする。

 いつからあるのか、ここに引越してきた当初はあんなシミ、なかったはずだ。そろそろまた引越しをするべきだろうか。

 溶け落ちるようにベッドから下りて、寝室を出た。

 洗面所で顔を洗って歯を磨く。

 鏡を見ると、青黒いクマを目元に滲ませた自分の顔がそこに映っている。とても人に見せられる状態ではないが、化粧をする気にはなれなかった。

 適当に支度を済ませて、部屋をあとにした。

 最寄り駅から電車を新宿で乗り換え、降りたのはJR池袋駅。

 スマホに送られてきた地図を頼りに人混みの中を歩いていくと、しばらくして目的のファミレスが見えてきた。途端に自分の足取りが重たくなるのを感じながら中に入ると、店の奥角のテーブル席に、見慣れた男の姿を見つけた。

「おう、楓、こっちこっち」

 周りには他のお客さんもたくさんいるというのに、平気で大声を出す男。

 だらしなく膨らんだ顔、口周りに生えた汚い髭。

 お父さんだ。正確には、元お父さん。

 度重なる不倫とギャンブル癖の増長がキッカケでこの人がお母さんから離婚を言い渡されたのは、わたしがまだ小学生の時だった。

「久しぶり」

 わたしは無表情のまま歩み寄り、向かいの椅子に腰を下ろした。

 近くにいた店員さんにアイスコーヒーを一つ注文すると、お父さんは「あ、俺はね」と調子よく言って、チョコレートパフェを注文した。

 液晶画面を確認してから、スマホを表向きにしてテーブルに置いた。時刻はちょうど昼の十二時。土曜日のランチタイムだからか、店内はそれなりに混み合っている。

「いやぁ久しぶりだよ本当に。一年ぶりくらいか? 今年の正月だって、お前、会ってくれなかったもんなぁ」

「わたしも別にヒマじゃないから」

「そうかそうか、うんうん、ヒマじゃないのはいいことだ」
 お父さんは下手くそな相槌で顎の贅肉をタプタプと揺らすと、頬杖をついた顔を窓に動かし、恨めしそうに眉を寄せた。
「それにしても、最近ますます暑くなってきたな。もう夏だな、こりゃ」

「まぁ、もう七月だからね」

 永遠のように思えた梅雨もようやく過ぎ去り、暦は七月を迎えて、すっかり夏らしい季節になった。

 雨の喫茶店で大ちゃんに「もう少し待ってもらえないか」と言われてから、早二ヶ月だ。

 あの日以来、大ちゃんからの連絡はない。

 もちろんわたしの方から連絡することもなく、付き合っても別れてもいない曖昧な関係が、あれからずっと続いている。

 店員さんが運んできたアイスコーヒーを受け取り、ストローでひと口、ちょろっと啜る。暑さで渇いた喉の内側に、冷たいコーヒーが風のように吹き抜ける。

「お前、今年でいくつになった? 四十か?」

 訊ねるお父さんのもとにも、チョコレートパフェが運ばれてきた。甘い物好きのわたしでさえ少しウッとしてしまう見た目をしたそのパフェを、しかしお父さんは下品な迎え舌で美味しそうに頬張った。

「違う。三十五」

「三十五! もう若いなんて言ってらんないな」

 大袈裟に驚き、幼子がキャンディでもしゃぶるかのようにスプーンを舐める。

 昔から、まだ家族三人で一緒に暮らしていた頃から、わたしはお父さんのこの食事の仕方が嫌いで嫌いで仕方なかった。

 どうしてこんな人と結婚したのかとお母さんをなじったのも一度や二度のことではない。

 そんな時、お母さんはいつも困ったように眉を垂らして、昔はカッコよかったんだよ、今も良いところはあるんだよ、と笑うばかりだった。

 お母さんにはわたしの目には見えないお父さんの良いところが見えていたのだろうか、はれて離婚をしたあとも、ついぞお父さんの悪口は口にしなかった。

 その離婚にしたって、お父さんの不倫やギャンブル癖に愛想を尽かしたというより、このさき多感な時期を迎えるわたしを守るためだったように思う。

 そんなお母さんが逝去したのは、わたしが高校生の時、胃がんが原因だった。二度にわたる手術の甲斐なく、最期は自宅の寝室で静かに息を引き取った。

 お母さんは亡くなる直前まで、「お父さんにも良いところが……」と念仏のように唱えていたけど、わたしはいまだにお母さんの言う「お父さんの良いところ」を見つけられずにいる。

 というより、もはや見つけようとすらしていない。

 そういう意味では、わたしも雄馬も育ってきた環境はよく似ていた。事情は違えど早くに親の片方を失い、それ以来ずっと、わたしはお母さんに、雄馬はお父さんに育てられて大人になった。

 わたしも雄馬も自らの生い立ちをわざわざ悲劇ぶって話すような性格ではなかったけれど、段々と打ち解けていく中で二人とも似たような境遇で育ってきたことを知り、「なんだ、わたしたち(ぼくたち)似た物同士なんだねと」と笑い合ったものだった。

「仕事はどうだ? 結婚も、そろそろしておかないとヤバいだろ」

「……ボチボチだよ」

 会ってほんの数分で早くも表面張力を起こしたお父さんへの嫌悪感を吸い込むように、わたしは口をすぼめてアイスコーヒーを飲む。

 このいかにも前時代的な男の今現在の社会的な立ち位置を、わたしはなにも知らない。

 どんな仕事をしているのか。家族はいるのか。一度再婚をして、すぐにまた離婚したらしいけど、それも相当昔の話だ。

 子供はいないと思う。この男のことだから、もしいたらすぐにわたしに報告してくるだろうし、隠すなら隠すで、わたしに会いになんて来るはずがない。

 要するに、いないのだろう。わたし以外に話を聞いてくれるような身内が。だからこうして今でもわたしに会いにくるのだ。

「あー、ほら、前に言ってた男とはどうなったんだ? なんつったっけ、だい……だい……だいき?」

「大介」

「そう、大介!」

「もう別れたよ」

 正確には保留中だけど。

「なっ、おいおい、まじかよ楓。お前、それでいいのか? 四十近い女を拾ってくれる男なんてそうそういねぇぞ? 結婚、したくないのか?」

「少なくとも自分の両親を見てたら、結婚に安直な希望は抱けないよ」

「たしかに、それもそうだな」

「お父さんはどうなの?」

 と、興味もないのについ訊ねてしまった。マズい……と後悔しても、もう遅い。

「どうって?」

 案の定、お父さんはパッと顔を広げて、嬉しそうに前のめりになった。自分に興味を持ってもらえたと思ったのだろう。

「……いや、やっぱりいいや」

 その嬉々とした顔圧が鬱陶しくて、わたしは椅子の背もたれに体を深々と預けて、溜息をついた。

 あぁ、疲れる。げんなりしながらテーブルのスマホを一瞥すると、まだここに来てから数分しか経っていなかった。

「なんだよ、言えよ」

「だから、好きな人とか、お付き合いしてる人とか、そういう人はいないのかって」

「好きな人? 俺に? ハッハッハ! お前、バカ言うなよ!」

 お父さんが口を広げて笑ったせいで、見たくもないものが視界に映る。大きな口の中でぐちゃぐちゃになった生クリーム。歯と歯の隙間に詰まったチョコレート。黄ばんだ舌。上の歯から下の歯に糸を引く粘っこい唾。

 つくづく、どうしてこんな汚らしい人と定期的に会っているのか、というか、会ってあげているのか、自分でもよく分からなかった。

「なにがバカなの」

 とりあえずその汚い口を閉じてと、自分の口に手を当てるわたしは、まるで小さな子供に食育をする母親みたいだ。

「だってお前、考えてみろよ。俺みたいな還暦越えの贅肉ダルダル男を男として見てくれる女がどこにいるってんだ? いるなら教えてくれよ。地球の裏側まで迎えにいくから」

「自覚はあるんだ」

 スマホを見る。十二時七分。

「お前はまだ還暦も超えていないし、贅肉もダルダルじゃなさそうだけどな、油断してるとすぐにこうなる。なんてったって俺の血を受け継いでるんだからな。いつまでも過去を引きずってばっかりいると取り返しがつかなくなるぞ」

「……なにそれ」

 不意に急所を突かれた気がして、心臓の隅っこの方がズキンと疼いた。

「何年か前に亡くなっちまったお前の前の彼氏だよ。そいつのことを今でも引きずっているせいで、だいきとも上手くいかなかったんじゃないのか?」

「だから、大介だってば。それに……やめてよ、別にそんなんじゃないから」

「まぁな。たしかに大切な人を亡くすのは悲しいことだ。でもな、なにも過去を忘れろってわけじゃないが、ずっと後ろばっか見ているのも違うんじゃないか?」

「だから、やめてってば……!」

 わたしは思わず声を荒げた。両手で頭を抱えるように顔を俯し、背中を丸める。肘がテーブルを叩いて、アイスコーヒーのグラスがガシャンと鳴った。

 なにも知らないくせに、ありきたりな台詞で分かったようなことを言うお父さんが腹立たしかった。

「な、なんだよ急に。そんな怒んなよ」

 わたしの怒気に驚いて目を点にするお父さん。本人には至って悪気がないところが、余計に腹立たしい。

「……ごめん、でも、お父さんは心配しなくていいから」

 十年前に雄馬が亡くなったことを、お父さんに話したのは失敗だった。それ以来、この人は会うたびに雄馬の話を持ち出し、表面上は前向きな言葉を使って、わたしをどんどん後ろ向きにさせていく。

 心から軽蔑している人に「足を前に出せば前に歩けるよ」と何度も言われているようなもので、お父さんのこの有難い金言は、わたしにとってはイライラの炎にくべる薪でしかなかった。

「あ、そうだ!」
 お父さんは自分の失敗を取り繕うように話を変えた。だけど、なにを失敗したのか本人に自覚がないから、必死に話を変えたところで、新たな薪をさらに炎に投げ込むようなものだった。
「なぁ楓、そろそろ俺もさ、お前と一緒に、母さんの墓参りに行っちゃ駄目かな?」

「駄目だよ。駄目に決まってるじゃん」

 わたしは弱々と顔を横に振って、席を立った。十二時十分。今日はもう、限界だ。

「なんでだよぉ」

「そんな子供みたいに泣き顔を作ったって無駄。お父さん、今さらどんな顔をしてお母さんに会うつもりなの?」

 お母さんが他界してから約二十年。これまでわたしは一度たりとも、お父さんと一緒にお母さんのお墓参りには行っていない。お父さんはお父さんで時々一人で顔を見せてはいるようだけど、二人で一緒には一度もない。

「でも、俺ももう十分に反省したし」

「一人で行くのは勝手だけど、わたしは絶対に一緒には行かないから」

「一緒に行かないと意味ないだろ?」

「ごめん、何度お願いされても、それだけは無理。じゃあ、わたし帰るね」

 透明の筒に丸められた伝票を抜き取った。アイスコーヒーとチョコレートパフェで1000円ちょっと。お父さんの分までわたしが支払うのは癪だけど、お父さんに奢られるのは、もっと癪だ。

「なぁ、おいちょっと待てよ、楓」

 レジに向かおうとするわたしの背中を、お父さんは呼び止めた。

「なに?」

「次、いつ会える? 美味いカレー屋に連れてってやるよ。お前、小さい頃からカレー好きだったろ?」

 お父さんはお母さんを不幸にした。わたしのことも、少しだけ。

 そんなお父さんと会ったところで、精神的な負荷が掛かるばかりで良いことなんて一つもない。

 だから、できることならもう会いたくないのだ。

 会いたくないのに……。

「また、連絡するから」

 と、そう言って、わたしは店をあとにした。





 足を踏まれた。

 お父さんと別れた翌日の朝だ。

 相変わらず慣れない満員電車で必死に吊り革を掴んでいると、車体が少し揺れた拍子に隣に立っていた男性の片足がわたしの片足に乗っかってきたのだ。高そうなスーツを着た出勤途中と思しき男性だった。

「いっ……」

 痛みを噛み殺し、顔を上げた。

 するとその男性はジロリとわたしに横目を向けて、
「チッ、邪魔なんだよ」
 と、露骨な舌打ちをひとつ鳴らした。耳にはワイヤレスのイヤホンを装着していて、流している曲がそこからわずかに漏れて聞こえる。わたしも好きでよく聞く海外のアーティストの曲だった。

「あ……すみません……」

 わたしは咄嗟に頭を下げて謝ったけど、よくよく考えてみると、これってまったく意味が分からないなと思った。

 もちろん、この男性がわざとわたしの足を踏んだわけじゃないのは分かっている。

 だけど、それにしたって、どうして踏まれた側のわたしが舌打ちをされなければならないのだろう。邪魔と言われなければならないのだろう。へこへこと謝らなければならないのだろう。

 嫌な出来事というのは連続するもので、今度は午後、わたしが図書館の受付カウンターに入って仕事をしている時だった。

 カウンターでは基本、やってきた利用者への本の貸出と返却の手続き作業をすることになる。受け取った本のバーコードをパソコンで読み取り、利用者の利用データに紐付けていくのだ。そうすることで、その利用者が今何冊本を借りているのか、返却期限が過ぎている本はないかなどが一目で把握できる。

 わたしのカウンターに、元気盛りの男の子を連れた女性がやってきた。

 女性は担いでいたバッグを無言で下ろすと、そこに詰め込んだ何十冊もの絵本をドカドカとカウンターの上に積み上げていった。

 図書館によってルールは違うが、わたしのところでは返却された本を一冊一冊パラパラとめくって、汚損はないか、水濡れはないか、破れているページはないかと確認する決まりになっている。面倒な作業ではあるが、できるだけキレイな本を多くの利用者に読んでもらうためには欠かせない、大事な作業だ。

「あの、早くしてくれません?」

 いつも通りの手順で本の状態を確認していくわたしに、目の前の女性はあからさまにイラついた態度でそう言った。

「申し訳ございません、もう少々お待ちください」

「そういうチェックはあとですればいいでしょ」

「すみません、ここでする決まりになってるんです」

「もう……要領悪いわ、この人」

 わざとわたしにも聞こえるような声で呟く女性。わたしよりも少しだけ歳上だろうか。着ている服は見るからに上等で、手にしている財布も有名なブランド物だ。「婦人」という言葉がよく似合う見た目だなと、わたしは対応しながらぼんやりと思った。

 何冊目かの絵本をめくっていると、かなりひどいレベルのシミが、しかも明らかにコーヒーをこぼしたと思しき茶黒いシミが、数ページに渡って出来ているのに気が付いた。

「あ……」

 思わず声を漏らしてしまう。すると、女性が舌打ち混じりにわたしを睨んできた。この日二度目の理不尽な舌打ち。

「なによ」

「あの……、ここ、コーヒーかなにかでシミになっているようなんですが……」

 多少の水濡れであれば一度こちらで引き取り、修復できるか否かを試みるのだが、明らかに修復不可能の場合は、その場で利用者に弁償をお願いすることがある。今回は誰の目から見ても後者の案件だった。

「あー、それ、なんか子供がこぼしちゃったみたいね」

 女性が自分の腰の高さにある男の子の頭をチラリと見下ろす。まだ小学生にも満たないであろう小さな男の子だ。この子がコーヒー片手に絵本を読んでいたとは、とても思えない。

「こういった場合、大変申し訳ないんですけど、同じ本の新品を買ってきていただいて、弁償という形を取らせていただくことになっていまして……」

 多分、わたしのこの言い方にも問題があったのだろう。

 この一言に、女性がキレた。

 絵に描いたように、まるでそうすると初めから決めていたかのように。

「は? なに、それと同じものをこっちに買わせるつもり?」

「はい、一応そういう決まりで」

「そんなの、子供がしたことでしょう。わたしにどうしろって言うのよ」

「それは、はい、その……」

 だから、弁償してくれと言っているのだ。

「はー……」
 女性は濁った溜息を空気に吐き出し、いかにも蔑んだ目で、ふたたびわたしを睨んできた。
「あんた、子供いたことないでしょ。子供ってね、あんたが思っている以上に勝手に動き回るの。そりゃあ水もこぼしますよ。子供なんだから」

「でも、これは水じゃなくてコー……」

「親の気持ちが分かる人なら、弁償なんて、そんな殺生なこと言うはずがないわ」

「はぁ……」

 こちらに喋る隙も与えず捲し立てる女性に、わたしもつい呆気に取られてしまう。

「もういいわ。別の人呼んで。あんたじゃ話にならない」

 女性に選手交代を言い渡されたわたしは仕方がないので事務所の電話に内線をかけた。

 電話に出た館長の薮田さんにこうこうこうでと事情を説明すると、薮田さんはすぐに状況を汲み取ってくれて、それじゃあ今から僕がそっちに行くからと、その後の対応をわたしに代わって請け負ってくれた。

 しばらくして、わたしが事務所の休憩室のソファに座って時間を潰していると、対応を終えた薮田さんが戻り、わたしの隣に腰を下ろした。

「どうなりましたか?」

 おそるおそる訊ねると、薮田さんは飄々と肩をすくめて答えた。

「なんとか納得してもらったよ。今度、弁償した絵本を持ってくるってさ。まぁ……もう二度とこんな図書館使わないって捨て台詞も吐いていかれたけど」

「すみません、ご迷惑をおかけしました……」

 薮田さんはここに勤めている図書館員の中でも一番ベテランの男性で、年齢は五十代後半だっただろうか。もしかすると六十代に入っているかもしれない。物腰の柔らかい口調と目元の深い皺が、いつもなんとも言えない落ち着きを周りに与えてくれる。

「いやいや、あれはもう、貰い事故みたいなものだから」

「はい……」

「僕もね、もう随分と昔だけど、お前の態度が気に食わないって言われて、閉館後二時間くらい延々とクレームを受け続けたことあるよ」

「二時間。それは……キツイですね」

 今のわたしがそれをされたら、きっと号泣して、発狂して、卒倒してしまうことだろう。

「まぁとにかく、気にしないことだよ。ねっ」

「ありがとうございます……」

 休憩室を出ていく薮田さんの背中に、わたしは弱々と頭を下げた。





 夕方になって、図書館を退勤したわたしは新宿駅に向かう途中、ふと思いついて近くの花園神社に進路を変えた。

 なにか目的があったわけではない。ただ疲れて疲れて、疲れ果ててしまって、───昨日今日と精神がすり減るような出来事が続いたから───ぼうっと歩いているうちに、生きていた頃の雄馬がよく一人でこの神社に足を運んでいたのを思い出したのだ。

 結局、お父さんの言う通りなのかもしれない、と思った。

 雄馬の死から十年経った今も尚、わたしはなにかにつけて、雄馬が隣にいた頃の過去ばかりを見て生きている。

 引き返せるはずのない後ろばかりを見て歩いている。

 だからわたしは、いつも同じ場所で躓くのだ。

 思い返すと、雄馬のことを初めて認識したのは、大学にまだ入学したばかりの春の頃、哲学Ⅰの、最初の授業の時だった。

 まだ半分高校生のわたしがどこに座ればいいのかも分からず講堂内を右往左往していたところ、偶然通りかかった雄馬に声をかけられたのだった。

「───どこに座ってもいいんだよ」

「え?」

 きっと雄馬は忘れていただろうけど、この時のやりとりが、わたしたち二人の初めての会話だった。

「いや、なんか迷ってる感じがしたから」

「……あぁ、席! 自由席なんですか?」

「自由席っていうか……うん、まぁ空いてる席に順々にって感じ」

 そう言って、だだっ広い講堂の一番後ろの席に座って退屈そうに頬杖をつく雄馬の姿に、わたしは自分でもよく分からない、不思議な引力を感じた。一目惚れと言ってしまえばそれまでだけど、だけどその一言だけでは収まりきらない、なにかを彼に感じたのだ。

 とはいえ、その頃のわたしは今よりもさらに気の弱い人間だったから、その日以来、雄馬とは一度も会話できずに、気付けば半年が経っていた。

 その年の年末、偶然にも雄馬の隣の席が空いていたので、わたしは意を決してそこに座った。後期授業の単位の有無を左右するかなり重要な小テストの日だった。

 教壇に立つ先生が問題用紙を配っていく中、なにか話すキッカケがあればいいなとわたしがひとり悶々としていると、隣の雄馬が突然、ひどく焦った様子でカバンの中をガサゴソと漁りはじめた。

 どうやら筆箱を忘れたらしい。キョロキョロと周囲を見渡し、講堂の隅っこに落ちていた鉛筆を見つけると、彼は宝物を見つけた子供みたいに目を輝かせた。

 ところが鉛筆と同じくらい重要な消しゴムがない。再度、雄馬はキョロキョロと顔を左右に振るけど、どこを探しても消しゴムは見つかりそうになかった。

 わたしは唾を飲み込み、自分を奮い立たせた。

 今がチャンスだ。

 今を逃せば、もう一生、この人とは話せない。

「消しゴムを忘れちゃったんですか?」

「……え?」

 雄馬がキョトンとした目をわたしに向けた。どうやら緊張のし過ぎで、あまり声が出ていなかったらしい。

 聞き返された時点でわたしは早くも気後れしてしまいそうになったけど、今がチャンスだとふたたび自分に言って聞かせて、もう一度、今度は自分で自分の声を確かめるようにゆっくりと言った。

「消しゴム、ないんですか?」

「はい……、消しゴム、ないんです」

「わたしのでよければ」

 ちょうど買ったばかりの消しゴムを持っていたので、それを定規で二つに割って、その半分を雄馬に渡した。

 その瞬間、たった100円そこらの消しゴムの価値が、100倍にも1000倍にも膨れ上がったような気がして、わたしは自分の心がみるみると満たされていくのを感じた。

 与えるということは、与えられるということなのだと思った。

「───あれ? 楓ちゃん?」

 花園神社の本殿前の階段に座って、当時の記憶に想いを馳せていると、不意に後ろから聞き馴染みのある声が聞こえた。

「えっ」
 わたしは振り返り、驚いて目を広げた。
「うそ、リュウくん?」

「おー、やっぱり、楓ちゃんだ。こんなところでなにしてんの?」

「わたしは……仕事帰りだよ。リュウくんの方こそ、ここでなにをしてるの?」

 十年前のリュウくんはたしかにこの近辺の居酒屋をよく飲み歩いていたけど、ここ数年はそれもめっきりなくなったと言っていたから、まさかこのタイミングで彼に会えるだなんて思ってもみなかった。

「おれは、ほら、この二人と散歩だよ」

 リュウくんはそう言うと、すぐ後ろに立つ女性と、その女性と手を繋ぐ、リュウくんと瓜二つの小さな男の子を指で差した。

「あ、こんにちは。いや、もうこんばんわ、かな」

 そこにいる二人の姿に遅れて気付いたわたしは、跳ね上がるように立ち上がった。

「こんばんわ」
 女性はニコリとわたしに微笑むと、
「ほら、雄太郎も、楓さんにこんばんわでしょ」
 と、彼女の太ももの高さくらいにある男の子の顔を見下ろした。

「こんばんわ、かーでさん」

 男の子は恥ずかしそうに体をくねらせながら、ぺこりとわたしに頭を下げた。

「こんばんわ、雄太郎くん」

 女性はリュウくんの奥さんで、真奈美さんという。二人は六年ほど前に結婚し、一人目の息子が産まれたのが三年前。それがこの雄太郎くんだ。

「お久しぶりですね、楓さん」

「そうですよね。前に会った時はまだひと目見ただけじゃ分からなかったけど、すっかりお腹も大きくなってきましたね」

「はい、もう八ヶ月になります」

 嬉しそうに破顔する真奈美さんは現在、二人目の子供を身ごもっている最中で、次に産まれてくるのは女の子なんだと、リュウくんからは聞かされていた。

「おんなのこがね、うまれてくるの」

「すごいね、雄太郎くん、もうすぐお兄ちゃんだね」

「うん、いいでしょ」

「いいねぇ、よかったねぇ」

 わたしは腰を屈めて、西陽で少し汗ばんだ雄太郎くんの柔らかい髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。

 と、その時だった───。

 わたしの視界が突然、シャッターがガシャンと閉じたみたいに真っ暗になった。

 かと思えばすぐに明転し、身に覚えのない、だけど不思議な既視感もある映像が、映画のダイジェストのような感じで、そこに流れはじめた。

 目の前に雄馬が立っている。

 タキシードを着ている。

 向かい合うわたしはウェディングドレス姿だ。

 場所は結婚式会場。あまり派手な演出は好きじゃないから、お互いの家族と数名の友人だけを招いての小さな挙式。

 新婚旅行は雄馬の希望でミュンヘンへ。

 わたしの希望はニューヨークだったけど、それはまた次の機会に後回しになってしまった。

 ミュンヘンで雄馬の好きなドイツ代表の試合を観戦している。ルールはよく分からないけど、現地の人たちと一緒になって盛り上がる雄馬を見ているうちに、わたしもついつい熱くなる。

 子供が生まれる。

 雄馬は男の子だからサッカーを習わせたいと言う。

 わたしは女の子だからピアノを習わせたいと言う。

 わたしたちの言い合いをベビーベッドから呆れるように見つめる子供は、果たして男の子だろうか、女の子だろうか。

 子供が小学校を卒業して、家族三人で海外旅行。

 行き先は今度こそわたしの希望でニューヨーク。子供の希望のハワイはまた次回。拗ねる子供も、いざニューヨークの地に降り立つと、誰よりも楽しそうにはしゃいでいる。

 子供が大学に進学して家を出ていき、久しぶりに夫婦水入らずの生活が始まる。

 昔はこんなんじゃなかったのにとお互いに文句を垂らしながらも、それなりに幸せな夫婦生活。

 歳を重ねるにつれ、体に無理が利かなくなってくる。

 思い描く未来が減っていくほど、思い返す過去が増えていく。

 あんなこともあったね、こんなこともあったね、なんてことを言い合いながら、雄馬がぼそりとひとりごちる。

 幸せな人生だった。

 わたしもそれに同意する。

 幸せな人生だったね。

──それは、わたし自身に起こりえたかもしれない、わたしと雄馬の未来の映像だった。

 やがてふたたび視界が暗転し、そしてすぐに明転した。我に返ると、目の前にリュウくんの息子の雄太郎くんが立っていた。

「どうしたの、楓ちゃん」

 わたしの異変に気付いたリュウくんが心配そうに声をかけてきた。

「リュウくん……、わたし……もう、どうしたらいいのか分かんないよ」

 縋るように見上げたリュウくんの顔が、自分の涙で滲んで見えた。





 その後、わたしはリュウくんと二人で階段に座って、二ヶ月前に大ちゃんと別れ話をした件と、それが今もまだ保留になっている件、それから昨日と今日にあった憂鬱な出来事の連続を打ち明けた。

 真奈美さんと雄太郎くんは、わたしたちの話が終わるまでの間、ずっと階段の下で落ち葉を集めたり石を拾ったりして待ってくれている。

 辺りはすっかり夜になり、境内の至るところから夏の虫の鳴き声が聞こえてきていた。

「なるほどねぇ」
 わたしがひとしきり一人で話し終えると、リュウくんは手のひらを手のひらで揉むようにしながら、短く相槌を打った。
「それで、楓ちゃんはさ、本当にその大ちゃんくんと別れてよかった……というか、本気で別れたいと思ってるのか?」

「……ううん、正直、分からない」
 わたしはかぶりを振った。
「ただ」
 と、言い訳するように付け加える。
「雄馬の時みたいに、大ちゃんを心の底から愛せる自信はない。わたしもこうなって初めて気が付いたけど、わたしにとって雄馬は、それくらい大きな存在だったの」

 わたしが鉢植えに咲いた花だとするなら、雄馬はそこに注がれる水だった。

 わたしが幸せでいられたのは、雄馬がそこにいてくれたからなのだ。

「それなんだけどさ」
 とリュウくんは言った。
「そもそも雄馬と同じくらい愛そうなんて、そんな風に思わなくていいんじゃねぇの? 雄馬は雄馬、大ちゃんくんは大ちゃんくん、それぞれをそれぞれの塩梅で愛せばいいんだよ。一人しか愛しちゃいけないルールなんてないんだから」

「簡単に言うけど、それが難しいんだよ」

「そうか? おれなんて一度に十人の女を愛したこともある。二人くらい余裕だよ」

「……それ、真奈美さんの前で絶対に言っちゃダメだよ」

「大丈夫大丈夫。真奈美も全部知ってるから。器用だねぇって褒めてくれたよ」

「寛容だなぁ、真奈美さん」

「まぁ要するにだ。楓ちゃんはきっと、恐れてるんだよ。大切な大ちゃんくんが、また雄馬みたいに自分の前からいなくなってしまうんじゃないかって。だから雄馬と同じくらい愛せないとか、そんなことを考えちゃうんだ。愛した人を喪う恐怖が、楓ちゃんに愛するという行為を制限させてる。そんなところだろ」

「そう……なのかな……」

「そんな楓ちゃんに、おれが有難い話をしてやるよ」

 と、そう言ってリュウくんは人差し指をピンと立てた。目を輝かせ、鼻の穴を広げて、自慢げに蘊蓄を語る時の、あの顔だ。

「なに?」

「環世界っていう言葉があってな」

「それはもう、前にしてくれたよ」

「そうだったか? じゃあこれはどうだ。環世界と似ているようで、だけど少し違う話だ。仏教の『空』っていう概念、聞いたことないか?」

「あるような、ないような」わたしは片眉を歪めて空を見上げた。

「究極的に、この世のありとあらゆる事物は存在しない。それが空の概念だ。でも、楓ちゃんの目の前におれはいる。おれの目の前に楓ちゃんはいる。たしかに存在している。それは、楓ちゃんとおれとの関係の上で初めて立ち現れるものなんだ。楓ちゃんがいるからこそ、楓ちゃんにとってのおれがいる。逆に、おれがいるから、おれにとっての楓ちゃんがいる。この『〜にとって』がポイントで、要はこの世のすべては相互に関係して初めて成り立つものってことだ。分かるか?」

「んー、難しい」

 片眉を歪めたまま、口も歪めた。相変わらずリュウくんの話は面白いけど、相変わらず小難しい。

「おれはさ、人生っていうのは誰かとなにかを共有することだと思うんだよ」

「共有?」

「そう、それは物質的な……たとえば家でもいいし、車でもいいし、あるいは概念的な時間でもいいし、思い出でもいい。誰かとなにかを共有することこそ人生。言い換えれば、誰かとなにかを共有している限り、人の人生は続くんだ。だから、楓ちゃんが雄馬との思い出を共有している限り、雄馬の人生も永遠に続いていくんだよ」

「永遠に……」

「楓ちゃんの環世界にはまだ、雄馬がいるんだよ。もう実体としてはそこにいないけど、でも間違いなく存在はしている。これは別にスピリチュアルな話じゃなくて、概念としてそうなんだ。死んでいるけど、死んでない。そう考えると、大ちゃんくんを愛することを恐れる必要なんてないと思えてこないか?」

「思えてくる……かも」

 わたしは小さく頷いた。これは決して、嘘ではなかった。

 わたしはまだ雄馬を喪っていないのだから、大切な人をふたたび喪うなんて、起こりえない。

 リュウくんの話を100%理解したわけではないけれど、心に留めておく価値はあるなとは思った。

「おーい、そろそろ行くよー」

 階段の下から、真奈美さんが手をメガホンにして声をかけてきた。

 見ると、いつのまにか雄太郎くんは真奈美さんの手を握ったまま、ウトウトと頭を上下に振っていた。

「ごめん、長々と付き合わせちゃった」

 立ち上がり、お尻についた砂をパンパンと叩くと、鳥居の方から生ぬるい風がヒュウと吹き抜け、わたしの肌の上を舐めるようにそよいだ。

「おう、じゃあまた、なにかあったら」
 リュウくんは階段を降りながらそう言うと、ふとこちらに向き直って、わたしの背後にある本殿を指差した。
「せっかくだから、そこの本殿に手を合わせるといい。参拝の作法は知ってるな? 二礼二拍手……」

「知ってるよ。分かった、そうする」

「ここの神様は、楓ちゃんの願い事なら、きっとなんでも叶えてくれる」

「なんでまた」

「なんでも。おれが言うんだから間違いない」

 リュウくんが背中を向けて、じゃあなと手のひらをなびかせる。

 真奈美さんと雄太郎くんも下からわたしに手を振ってくれていたので、わたしも一生懸命、笑顔を浮かべて、彼らに「またね」と手を振り返した。




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