僕は黙る。

僕が沈黙したからといって、「ぐうの音も出なくなった。」とか「言い負かしてやった。」とは思わないでほしい。
僕の沈黙は大抵、呆れによく似た諦念である。

全く理解出来ない意見はもちろん、簡単に論破出来てしまう意見や全く道理が通っていない意見、そのような意見に対して、僕は黙る。そこに至る思考回路に絶望して、会話を諦めてしまう。
小学生の時、先生が怒っているのを反論せず、やり過ごしていたように、「無難な対処」として黙ってしまう。
肯定も否定もしたいわけではない。ただ、僕が納得出来ないように、僕の意見も納得してくれると思えない。

「大人だからしっかり話あえば、」とか「ちゃんと向き合えば、」とかは、前提から違う。

僕はまず、人と人とは分かり合えない。と考えている。
個人と個人は、他人同士である。
見てきたもの、食べてきたもの、育った場所、関わってきた人、性格、身長、体重、顔、名前。
全て違うのに、どうして分かり合うことが出来るだろうか。
「価値観」というものは、その概念に名付けられているものであり、中身はまるで違う。
「水分」として括られているコーヒーとオレンジジュースが別物であるように。
そして、誰もが自分の経験に起因する価値観の、その経験を否定しないために、自分の価値観には絶大な信頼を置いている。つまり、価値観は人の中で完成されていて、他人が干渉する隙がないのだ。
だから、価値観は合わない。
価値観が合わないからこそ、すなわち、分かり合えないからこそ、他人である。

人類に理解力がない。と言いたいのではない。
理解には限界がある。と言いたいのだ。
「馬の耳に念仏」。それ以上に、馬にどれほど熱く語っても、価値観を理解してくれない。

他人を"馬"として割り切っている僕は、「話し合って分かり合う」という考えの、一番遠い場所にいる。
そして、僕は経験を否定されないために、また黙ることで価値観を懐にしまい、守っているのだ。
つまり、僕は、究極の人種のるつぼ論者であり、究極の事なかれ主義なのだ。

交わらないと思い、喧嘩にならないように、そういうわけで、僕は黙る。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?