「教える」の2つの意味


教えるという言葉には、まったく異なる2つの意味があると知りました。その2つとは、「意図的教育観」「成功的教育観」です。


意図的教育観と成功的教育観


意図的教育観とは、教える側を中心にした考え方です。なにかを「指示した」、情報を「伝えた」、問題の解き方を「説明した」という教師の努力や行動があったかどうかを考えます。指示したり、伝えたり、説明をした場合、意図的教育観を持つ教員にとっては「教えた」ということになります。教師が教えようと努力している状態のみで教えていることになります。つまり、学習者が本当に理解したかどうかは別問題として考えているということです。

一方で、「成功的教育観」とは学習者の成功をもって「教えた」とする態度です。たとえ教員が解き方を説明したとしても、学習者が解けるようになっていなければ「教えた」とは言えない、というのが成功的教育観です。

2つの「教える」のうち、どちらの態度をとったほうがいいのかは明らかです。「意図的教育観」を代表する発言の例として、
「これは前にも教えたじゃん」
「この件は、掲示板に書きましたけど?」
「生徒の努力がたりない」
というものです。

言い換えると、意図的教育観は教師中心、成功的教育観は生徒中心の考え方となります。


成功的教育観をもっている教員は、生徒目線で物事を考えられます。たとえ教師が一生懸命に語ったとしても生徒の行動や技能に変化がなければ、教えたことにならない、と考えます。これは、教員の身としては厳しい態度です。教えることは非常に大変なことだし、生徒は一人ひとり違いますから一辺倒な教え方は通用しません。
成功的教育観では、常に教え方を工夫させられます。自分の教え方を振り返り、改善をし、設計しなおすことが要求されます。


成功的教育観を持ち続けるのは難しい

学校という組織は、旧態依然としているとよく言われます。私もそう思うことがよくあります。上意下達、お上(文科省)の決定次第、校長の一声が超重要になっています。また、給料も年功序列、若手教員は給料ひくいが、運動部や担任という重責をもってしまう。どれだけ仕事をしても上下関係はまったく変わりません。
このような組織に居続けると、「意図的教育観」に染まってしまいそうです。「年配の指示」に従っているうちに、生徒にもそのような態度を要求するようになってしまうのは自然なことだと思います。


教員の仕事は「これだけやればすべて終わり」という状態は永遠に訪れません。授業はいくらでも工夫できるし、生徒は常に変化します。よって、成功的教育観を常に持ち続けるのは本当に大変なことです。

私は常に成功的教育観で現場に立っていたいです。しかし、よく振り返ると意図的教育観のもとで発言していることもよくあります。本当に気を付けないといけません。
意図的教育観で考えてしまったとき、「自分はまだまだだ」と認識させられます。未熟を思い知るからこそ、成長しようと思えます。こうだから、この仕事は面白いなぁと思います。




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