見出し画像

なぜ海外旅行で感受性が豊かになるのか

久しぶりの投稿です!是非暇な時間読んでください!

皆さんも海外旅行に行った際、普段ならあたり前に通り過ぎるような場面でも立ち止まって考えるような、俗にいうカルチャーショックを経験したことがあると思います。筆者も一度フィリピンに行き、(海外にはこれっきり行ってないのであまり多くは語れないのですが、、)非常に陽気なスタッフたちの姿に驚かされました。

そこで題名にあるとおりなぜ海外では普段は受けないような衝撃を受けるほど感受性豊かになるのかについての理由を少し深く考察しようと思います。またそれを皮切りに、最後には芸術に触れることの大切さを語っていきたいと思います。

これから子どもを育てていくお母さんたちにもぜひ読んでいただきたい記事になってます!もし家事の合間にこの記事であっていたなら最後まで目を通していただけると嬉しいです!では、本題へ。

自文化と異文化

まず異文化について考える前に、私たちが普段の生活の中で触れている自文化について考察してみましょう。

私たちは意識するかしないかに関わらず、教育や過去の経験によって形作られた“常識”のフレームワークの中で生きています。そしてその常識のメガネを通してこの世界を見ています。同じような文化に育った人たちは、当然皆似たような文化のメガネを装着しているので、同じ文化を共有するもの同士であれば、共通の認識なるものが形成されているのです。日本人はとりわけハイコンテクスト文化であり、言わずしてしてわかるだろう文化が濃厚ですが、このあたりの話は今回はおいておきます。

そして、異文化の考察に移る前にもう一つ私たちの社会における前提を確認しておきましょう。私たちが社会で出会うあらゆるモノやコトには、様々な関係者の恣意的な目的や意図が存在しています。例えばあなたの家にある椅子を例に考えてみましょう。その椅子がIKEAの椅子であれば、IKEAという会社のその椅子の製造に関わったデザイナーやプランナーたちの意図がその椅子には埋め込まれていることでしょう。アフォーダンス理論やら黄金比といった様々な技巧を駆使しているかもしれません。そのような人々の意図があらゆるモノに潜んでいて、それらを無意識的にも感じ取って人間は生きていると言われると、確かに意識はしていなかったが、そう言われればそうかもしれないと考えると思います。

そして、このような物事の背後にある意図は文化と不可分であるということができると考えています。もちろん、さっき例の中で述べたような理論から感じ取るものはもしかすると普遍的なものであり、文化の違いによって差はないかもしれませんが、作り手が文化の住人である以上、その椅子に込めた作り手のメッセージは必ずその文化の中で規定されているはずです。そして同じく文化の住人である私たちはこのような意図や目的を無意識にでも感じ取りながら日々の生活を送っているのです。

若干強引に私なりのことばによって簡単に表現すると、文化のメガネと潜在的文化意図という二つが私たちの文化を形作ってきたと言えます。この文化のメガネと潜在的文化意図のどちらがさきでどっちが後かという問題はニワトリと卵の問題であり、遺伝子によって文化は規定されるのかなど考えられることは山ほどあるのでここでは思考のブランチを無防備に増殖させるのはご遠慮!

さて、この前提にたって異文化を考えてみましょう。もちろん異文化には異文化のメガネと潜在的文化意図が存在します。しかし、自文化にどっぷり染まったあなたが、異文化に対峙したとき、その瞬間、あなたは異文化の文化のメガネも潜在的文化意図も感じ取ることができません。普段当たり前のように立ち居振る舞うために依拠していた常識のフレームワークも無意識に感じ取ることができていた潜在的な文化のメッセージも、あなたは感じ取ることができないのです。この状況を端的に理解するために、地上にいるときの自分と水中にいるときの自分を想像してみましょう。あなたは地上で生活している際に特別意識せずとも生活できるはずです。しかし、水中では今までの動きをそのまま再現することは当然できません。さらに水中でゴーグルをしながら目を開くと、光の屈折の違いで目に映るものは地上のそれとは根本的に異なります。このような状況では、あなたが考えることも感じることも全て地上のそれと同じはずがないのです。そう、それこそ異文化との出会いです。あなたが海外で目の当たりにする出来事は全てあなたの感じ、考えてきたものとは全く異なるものなのです。もちろん同じ人類ですので、普遍的な部分で共有する特徴はあるはずですし、これらを排除して考えることは暴論ですが、ここでは特に異文化と自文化の違いに焦点を当てたいと思います。

異文化という果たして自分の思い通りに理解することができない存在に対峙したときにあなたの日常では感じることがなかった感情が呼び覚まされるのです。認識の再構築と呼んでもいいかもしれません。これがカルチャーショックの正体だと私は考えています。それではこのカルチャーショックと同種の感情は、わざわざ飛行機便を予約し、無機質なスーツケースを引き下げ、異国の地にたどりつかなければ感じることができないものなのでしょうか?

芸術に対峙したときのカルチャーショック

上記の問いかけに対する私の考えはNOです。この節の題名ですでに示した通り、私たちの認知を再構築させる装置として機能するもの、それが芸術です。とりわけ美術は私たちの認識の地平にカルチャーショックの榴弾を投げ込んできます。あの太陽の塔を手がけた画家の岡本太郎氏も「芸術は爆発だ」ということばを残しています(このことばの解釈は様々ですが)。ではなぜ、芸術によってカルチャーショックが生まれるのでしょか?もしかすると芸術を嗜んだことがない人にとっては、あんなものがカルチャーショックなんて何を大げさなことを言っているんだと笑われるかもしれません。私も大学の授業で美術や芸術について学ぶまでそのうちの一人でした。しかし、一度美術作品に対峙したことのある人なら一度は経験している感情があります。それは、

「訳がわからない」

これにつきます。これこそ美術がカルチャーショックを生み出す正体です。私たちの認識のフレームでは、美術作品を理解することができない。そして言わずもがな、美術作品には潜在的文化意図なんてものは存在しません。そこにはただ芸術家の魂が、人生の叫びが、混沌として表現されている。いや、もしかしたら表現されていないかもしれない。理解しがたい絵画に対峙する経験はまさに海外における異文化との接触と同質のものだと言うことができるのです。もし現在コロナウイルスの影響で、海外に行くことができず、カルチャーショックロスだという人は美術館に行ってみてください。笑


ここまでの話を簡単にまとめると、私たちは意識するしないにかかわらず自文化のフレームの中で行きおり、そのフレームによって捉えることができない理解しがたい体験や物事に対してカルチャーショックを抱き、普段よりも感受性が豊かになるということです。

それでは最後に純粋な芸術に触れることの重要性について考えたいと思います。


純粋芸術を求めて

ずっと文化についての話をしてきたのですが、翻って考えると文化とは人間の営みが生み出す特徴であると言うことができます。洞窟に象形文字を描いていたホモサピエンスが、それぞれの集団で文明を築き、国家という集団を形成して、独自の文化を発展させるまでの間の人類の営みが現在の我々の世界の文化の多様性を生んでいる。それらに触れることで私たちは、自分自身の文化のフレームを構築していくのです。ですが、現在の社会における文化はどうでしょうか?皆がスマートフォンを持ち歩き、若いうちから広告まみれの毒されたテキストに触れ、隠しきれないほどの恣意的意図が渦巻く世界で生きていくことを強いられている。それが現代を生きる我々の社会です。もはや、資本主義の触手から逃れられる場所は存在せず、文化はいたずらに商業化していると言っても過言ではないです。もちろん国家の取り組みにより国の重要文化財が指定され、文化を守るための取り組みがなされているということは評価すべきことであり、いらぬ揚げ足取りの批判などをする必要はないと考えます。しかし、現在の社会で純粋な芸術に触れる機会が減少しているというのもまた事実ではないでしょうか。美術だけではなく、音楽、文学といったあらゆる純粋芸術に触れる機会をなくしてしまっては私たちの人間的精神が豊かになることはありません。そして、これから生まれてくる子どもたちがそのような豊かな感性を育むことができる機会持つことができるかどうかは私たちの営みにかかっています。

私は、日々の忙しい生活の中でも自分の感性を広げてくれる体験に対する敬意の念とそれを楽しむ心を持ち続けたいと思います。

最後に話がかなり壮大になってしまいましたが、海外におけるカルチャーショックという手軽な話題から文化を形成する芸術を守ることの大切さを想像し、あわよくばそのような活動を支援する人が現れることを願っています。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?