あのときの自分は「壊れていたな」と思う時期があって、その時期に関わった人たちには本当に申し訳なかったと思う。今の自分はあのときの自分と同じ人間で、過去は消せない。過去の自分がいたから、今自分の周りにいる壊れ気味の人の存在もなんとなく受け止められる。感謝。
家族は大切 家族は大切だからこそ、 家族は自分で選ぶ 自動的に家族であり続けるなんて ただのしがらみでしかない 私が感じてきた違和感がわかった 誰と家族でいたいかは 自分で決めれば良いんだ この人と家族で居たいと願うこと いちばん大切な単位になりたいと願うこと 努力を続けること そこに家族の意味が生まれる
「家の都合で学校を休みます」 子ども本人が学校に連絡をいれたようで、 学校の先生から確認の電話がかかってきた。 「息子さんから休むと電話がありましたが、 お母さんご存知ですか?」 知ってるわけないです。 家の都合で休む予定じゃないので。 制服で通学用の自転車にのり、 学校方面に向かう姿は見たけど、 学校にはいないとのことで大捜索。 一時間ほどして先生から電話があり。 「息子さん、公園で見つかりました。」とのこと。 ちゃんと制服から私服に着替えて、 絵を描く道具を持って
「みんなと仲良く」することが良いことだと教えられる子ども時代。とにかくぶつからず、とにかく笑顔でね。 そんな毎日の中に健全な自己主張が育つはずがないなと思う。 自分は自分なのに、自分を感じよう表現しようと思うと「個性が強すぎる」「協調性がない」と言われて、決められた「正しい」枠の中に存在するように「導かれる」。 自分とは違って、規律や決まりや、そうあるべきことからはみ出ている人がいたら、それは迷惑なことですか?交通ルールは守りましょう、割り込みはやめましょう、そういうベー
もう彼とは終わりだなと思った。 彼は私に「君に嫉妬していた。ただのかまってちゃんだった。」と言った。 私が彼に頼んできた些細なことを、ひたすら受け入れずに彼の価値観ですべてを決めてきたことも、私へのマウンティングに過ぎなかったということのようだ。 彼は私と自分を比較して、私に「負けている」と思って劣等感をいだいのだろう。どっちが勝っているとか負けているとか、そんなことを考えたこともなく、ただお互いに楽しいと思える生活を得るために努力することを大切にしてきたつもりだった。
波長の合う人とシンプルにつながると、何もかもスムースに回り出す。
大好きな存在に囲まれると、 自分の感覚が自分より外へ延びていく気がする。 つながるって、こういうことだろうと思う。
「最近の若者たちは、楽しいことにパーっと集まって、パーっと散っていくでしょ?あれが理解できないんだよねー。」って言っている人がいた。 楽しいことに集まるのって、普通なんじゃないかなと思うし、一度集まってきた人にずっとそばにいて欲しい寂しがりやなのだとしたら、みんなが離れたくなくなることを続ける努力をするしかないんだと思う。 離れていくことを薄情だとか、ポリシーがないなんて言ってる暇があったら、好きな人たちに集まってもらえる人になればいいんじゃないのかな。
平日の夜だけど、どうしても見ておきたい作品があったため、子供たちを連れて映画館に足を運んだ。そんなに広報活動にお金をかけている感じもなく、内容的にも「何かがある」というものでもない。 殺人も起きないし、人間関係がこじれて苦しい思いをしたりすることもない、なにかの驚異が訪れるわけでもない。ただ笑顔を生み出したい人たちの話。 もちろん登場人物たちの心の動きや、何気ない日常にポロポロとこぼれていく思いやりや悲しさ、迷いや決断は描かれている。丁寧に優しく、温かく物語は進んでいく。
中学一年生の次男と本屋を歩いていたとき、 ある恋愛小説が平積みにされているのをみて、 「これ、面白いって人気なんだよ。」って教えてくれた。 「でも、僕は恋愛小説って読まないんだけどね。」と次男。 私も恋愛小説の類はほとんど読まないので、 「ママもそういうのは読まないな〜。」とコメントした。 「ハッピーエンドかそうじゃないか、そうじゃなければ死んじゃうか。そういうどっちかはっきり決まってるわけだし、そういうのってあんまり好きじゃないんだよね。面白くないと思う。君の名はの終わ
このところ、自己に向き合っていない人と関わると疲れるな〜と感じることが多い。何を話しても自己から発する自分の言葉のフィルターを通して返ってこないので、その相手と私との間にはコミュニケーションが生まれていないのだと思った。 2人で壁に向かって、それぞれが壁打ちしているのと変わらない状況で、いくら同じコートに存在していてもボールがやり取りされることはないのと同じ。 自己ってなんだろう。幼稚園や保育園に通うことになり、初めてぬくぬくとした自己の延長のような家庭から抜け出して、完