岩田太郎さんの「森批判」批判が切れまくり、冴えまくり

タイトルにある通りなのだが、岩田さんの記事を読む前に、まず梶井さんの記事を読んでいただきたい。

これはこれで、非常によく論点がまとまっていて、中立的に書けている良記事です。

ですが、森氏の問題点はよくまとまっているのですが、批判側の問題点という視点は、抜け落ちていたように思います。そのことに気付かせてくれたのが、岩田さんの記事です。

この記事は途中までしか書かれていません。全部はこちらで読めます。全文を読んだ後に、noteの記事に戻って「いいね」することをお勧めします。

岩田氏の主張を私なりに簡単にまとめると

・五輪の主目的がジェンダー問題の解決だとミスリードしている。
森会長を糾弾する人たちは、五輪を政治利用している。
・そもそも五輪自体がすでに政治の道具に成り下がっている。
・国会や民主的な議論を経ずに、非民主的な外圧と五輪を利用してクォータ制を導入する手法が採られている。
・「ジェンダー平等」が正しいという主張は循環論法である。
・「多様性」を謡いながら「欧米」の「先進的」な価値観以外を排除する矛盾。


とまあ、気持ちよいくらい、自称リベラル勢を滅多斬りです。その指摘1つ1つが全て理に適っていて、自称リベラル勢の矛盾と欺瞞を見事に炙り出してます。

特に個人的に深くうなずいたのは以下の二点。

 しかし、森会長を糾弾する人々の主張を聞くと、オリンピックの存在目的がジェンダー問題の解決であるかのような印象さえ受ける。また、森会長に対する国民の積年の恨みの発露が、ジェンダー問題に関する国民の総意と意図的に混同される一方で、森会長の退任で、求心力が絶大なトップを失った五輪が中止に追い込まれることよる自民党政権への間接的なダメージ狙いという、オリンピックの政治化が起こっていることも注目される。

まあ、要するに「おまえら森会長だから叩いてるんだろ」っていうのが見え透いてるんですよね。例えば、全く同じ発言を乙武さんがしたとしたら、多少は叩かれるだろうが、そこまで叩かれるとは思えない。

森氏が相手なら何を言っても構わない、というような、ある種のイジメの構図にしか見えないのですね。森イジメは森氏が首相の時にも散々見せつけられた記憶が鮮明に残ってます。

何度目になるか分かりませんが、乙武さんの名言を再度引用しておきます。

そして、次の指摘は「森イジメ」よりも深刻な問題を抱えている。

 社会に対して重大なインパクトがある「結果の平等(クオータ制)」は既得権が生まれ、妥当性に関する検証のメスが入りにくくなる可能性が高い。それゆえに、国民の代表たちによって議論が尽くされるべき重大な方針転換であるにもかかわらず、言論の場や国会をバイパスして、外圧とオリンピックの政治利用により実質上達成する裏口スキームが進行中なのだ。

つまり、欧米ではジェンダー平等が先進的とされている。だからジェンダー平等は正しいのだ(権威に訴える論証)(新しさに訴える論証)と、マスメディアを使って一方的に宣伝し、国会での議論や立法措置を回避して、なし崩し的にクォータ制をごり押ししているのが、今のジェンダー平等主義者の手口だと指摘しておられるわけだ。

自称リベラル勢は、表向きは民主主義者であるかのようなフリをしているが、その実は怪しい。自称リベラル勢は「民主主義とは多数決ではない」「少数派の声も聞け」と一見正論っぽいことを言うが、しかし民主主義は少数派の独裁ではないし、少数派の声も聞けと言ってる人たちほど多数派の声など全く聞かない。その典型が、自民党が勝てば「選挙結果に驕るな」と言い、非自民が勝てば「これが民意」と、過去の自分の主張を忘れて驕慢になる。民主党が政権を取ったときの驕慢さは我々にトラウマを植え付けるのに十分すぎるほどだった。

また、自称リベラル勢は「声を挙げろ」ということを盛んに煽る。もちろんこれも、声を挙げること自体は間違ってないのだが、一方で、彼らが気に入らない声に対しては全力で集団リンチする。森会長への一方的なリンチにもその臭いがする。

そもそも、「声を挙げろ」と強要すること自体が、ただの同調圧力ですよね。「声を挙げても良いんだよ」なら、分かりますけど、なんで挙げたくもない声を「挙げろ」と言われなきゃならないのか。

彼らがデモを重視するのも、要するに選挙では、たまに勝つことはあっても勝ち続けることはできないと分かっているからでしょう。だから、選挙以外の方法で政策変更を要求する。もちろん要求すること自体は国民の権利ですので否定はしませんが、その要求のレベルが、心理的、物理的、あるいは時間的な圧力となってしまうのであれば、それはただの要求のレベルを超えてしまい、不当な圧力になってしまいます。

忘れもしない2017年7月の都議選のアレ。あんなものは「国民の声」でも「正当な要求」でもなんでもありません。まったく非民主的な、不当な圧力です。あれを礼賛したマスメディアのせいで、その2年後の、高円寺で杉田水脈さんに対する選挙妨害事件が起こったと言っても過言ではないでしょう。マスメディアもさすがにアレは不味いと思ったのか、大半のメディアが「報道しない自由」を行使していましたね。

書いているうちに自称リベラル勢への怒りが増幅して、まとまりのない文章になってしまった(笑)。


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