なぜ左翼は「政治を語れないのは不健全」と言うのか?

この記事の続きです。

①自らに政治を語る勇気がないことを社会のせいにしている。

誰だって批判されたくないですもんね。批判されると精神的にダメージ受けます。私はメンタル弱いので匿名でしか意見を言えませんし、もちろん顔を出して街で政治行動なんて恥ずかしくてできません。実名で政治的意見を発信してる人のメンタルって凄いですよね。ただしメンタルの強さと意見の論理的整合性には全く相関関係がない、ということは強く留意するべきです。つまり実名だから偉いという思想は明白な誤り

話が逸れましたが、意見を言えないのは社会のせいではなく、あなたのせい。今の時代、政治的意見を言う手段なんていくらでもあるのに。

②批判されたくない。反論されたくない。

①とも関連しますが、自分の意見は言いたいけど、誰からも反論されたくない。反論は聞きたくない。はい、ただの我儘ですね。言論の自由はあなたにだけあるのではありません。あなたの反対者にも言論の自由があります。左翼はこの大原則をわりと無視しがち。

③政治的発言を封じ込めているのは国家権力である、という被害妄想。

左翼にとって、社会=政治です。一般的には、この考え方は間違いだとすぐにわかるのですが、左翼は両者の区別がついていません。社会が間違っているのは全て政治のせい、なのです。したがって、彼らにとって、反対者=ネトウヨは国民ではなくナントカ・ユーゲントであり、左翼だけが国民、あるいは市民であり、絶対的弱者であり、絶対的正義なのです。

もちろん、ネトウヨ=ナントカ・ユーゲントは非国民なので言論の自由はありません。

④保守・右翼と議論して勝つ自信がない。

左翼は、自分たちは道徳的には優っていると考える一方で、論理的には保守に勝てないということを、自覚しているかどうかは別として潜在的に分かってます。論理的には間違ってても道徳的に正しい、という発想自体が狂ってるのですが、ともあれ、左翼がダブスタの限りを尽くすのは、彼らが論理ではなく道徳を思考の軸としているからです。もちろん彼らの考える道徳が本当に道徳的であるかどうかは、また別問題です。

なので、議論をすると、必ず論理的にやり込められてしまいます。しかし、彼らはそれを「敗北」とは考えず「抑圧された」と被害者スイッチが入ってしまうのです。

⑤市民=正義、政権=悪、という古臭い二元論。

彼らは自分たちのことを道徳的には絶対的に正しいと考えており、自分たちに同意しない人たちを、政権擁護者=ネトウヨと考えます。そして、政権と政権擁護者(=ネトウヨ)は一心同体の存在だというのが彼らの考え方です。さらに、政権=悪、ですから、政府擁護者=悪、ネトウヨ=悪、となります。そして、悪には基本的人権を与えてはいけないので、ネトウヨに言論の自由を与えてはいけません。

⑥左翼にとって「政治を語る」=「政権批判」

左翼が「芸能人は政治を語れ」と言いながら、同じ口でスガシカオ、糸井重里、Gackt、西川貴教、さらには松本人志、つるの剛士、武田鉄矢などを「ネトウヨ」などと呼んで攻撃する矛盾は、左翼のこうした考え方にあります。中立を貫こうとした星野源に対してでさえ「アーティストは政治的意見を表明する義務がある」とか言う人がいるほどですよ。

⑦「ネトウヨだけが自由に政治を語ることができている」という歪んだ認知。

左翼「自分たちは虐げられている」という被害者意識と、「自分たちは支持されていない」というマイノリティ意識を、ともに肥大化させています。しかし一方で「自分たちが自由に政治を語れば国民は必ず我々を支持するはずだ」という根拠のない自信にもなぜか満ち溢れています。そして「自分たちが支持されないのは政治を自由に語ることができないからだ」という循環論法が生まれます。もちろん彼らにとって「政治を自由に語ることができない」理由とは、国家権力による弾圧です。

⑧つまるところ、左翼はカバート・アグレッションである。

カバート・アグレッションとは「隠れた攻撃性」という意味で、良い人のふりをして(道徳を振りかざして)他者を攻撃してくる人たちのことです。その攻撃のモチベーションの源となっているのは、強烈な支配欲であり、彼らが権力を過度に批判するのも、要するに彼らが権力者に取って代わりたいと思っているからにすぎません。左翼に高学歴が多いのも「自分はこんなに優秀なのに恵まれてない」という意識が強いからです。左翼が政権を取ると独裁者になるのもむべなるかな。

まとめ:政治の話がタブーなんて事実はありません。

「政治の話をタブーにするな」と言うのは、左翼の被害者ポジ取りのためのポジショントークにすぎません。もちろん、現実には、昨日も話した通り、知人に気を使ったり、スポンサーに気を使ったり、インテリ嫌いの馬鹿に気を使ったりして、政治の話をする場には、一定の社会的制約があることもまた事実です。しかし、社会的制約があるのは別に政治に限った話ではなく、例えばスポーツの話でも音楽の話でもアニメの話でもアイドルの話でも下の話でも、なんだって一定の制約はあります。それにだいいち、社会的制約は権力が課しているものではないので、権力に歯向かったところで何の解決にもなりません。




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