表現の不自由展実行委員会の中心人物「エロ・グロに表現の自由なんて認めない」

※反ヘイト活動で有名な法曹の先生=神原元弁護士を差すと推測。

仁藤夢乃みたいな低偏差値の馬鹿がしゃしゃり出ると途端に議論の質が下がる。nowhereman134とかもそうだが、こいつらの考える「権力」って常に一方通行でトップダウンなわけですが、そのような権力が存在するのは一部の独裁国家だけであり、日本を含め全ての民主主義国はトップダウンだけではなくボトムアップの力も強く働いている、というかむしろボトムアップの力のほうがおそらく強い。

権力者の暴力性というが、そもそも人間は誰しもが多かれ少なかれ暴力性を秘めているものであり、権力者に限定する理由がない。フェミニストだって暴力性を秘めているし、「しばき隊」なんて暴力性を露骨に露わにしているではないか。結局、人間から暴力を完全に切り離すことなんてできないのだから、暴力を否定するイデオロギーは実践的ではない。暴力は否定ではなく適切に管理するしかないのだ。

そもそもを言えば「権力者」も「社会的な構造」も人間の認識の中にしか存在しない。例えば、反アベ的な人たちは自民党を権力者だと認識しているが、選挙を棄権するような人たちは、自民党を自身の生活とは切り離された存在だと認識していると思う。皮相的には自民党=権力者と刷り込まれてるから「自民党は権力者か?」と聞かれればハイと答えるだろうが、自民党の権力を肌で実感するような経験はおそらく何も持ってないだろう。実は私もそうだ。庶民にとって身近な権力と言えば警察であり、あるいは会社の上司や先輩であり、学生ならば学校の教師だろう。もっと言うと、人が生まれて最初に出会う権力者は自身の肉親だ。いずれにしても「権力者」は人の認識の中だけにしか存在しないのだから、いくら反アベ的な人たちが「権力批判」をしても、その認識を共有していない人たちからの共感を得ることは絶対にないのだ。

そして、「権力者」と「社会的な構造」を、おそらく無自覚に並列しているのが興味深い。「社会的な構造」というのは、基本的には権力者が作るものではない。中には権力者自らが社会的な構造に手を加えようとすることもあるが、権力者が意図しない結果を招くことは往々にしてある。例えば最低賃金を強引に引き上げたら失業者が増えたとか、暴力団への取り締まりを強化したら半グレ集団が生まれたとか、そういった事例は枚挙に暇がない。それでも、これらの事例はまだ因果関係が分かりやすい。実際にはもっと因果関係が複雑な問題はいくらでもある。例えば現在の少子化の原因は多岐にわたり、何か1つの原因があるわけではない。ただ1つ言えることは、その原因を作った人たちが、少子化を望んでそうしたわけではないということだ。

個々のケースに於いては最適解であっても、それを全体に適用すると期待とは異なる結果を生み出してしまうことを合成の誤謬と言うが、仁藤のような偏狭な社会活動家に総じて言えることは部分最適だけしか見てないということだ。つまり、仁藤の言葉を借りると「少女や女性などのマイノリティに対する差別や暴力を強化し助長し、承認するような」ものを徹底的に排除し弾圧することを全体に対して行った場合、必ず別のところに弊害が現れるだけではなく、肝心の「差別をなくす」という当初の目的にすら反する結果しか得られない、という結果に陥りやすいのだ。

結局のところ、彼らは「権力と戦う」などとうそぶきながら、実際には会田誠氏や、宇崎ちゃんの作者のような、権力とは何の関係もない普通の市民を標的にしている。それは「不倫は許せない」という単細胞ロジックでベッキーや矢口真里を糾弾した鬼女どもと何が違うのか。スマイリーキクチをコンクリ事件の犯人だと盲信して誹謗中傷を繰り返したクズどもと何が違うのか。「性の悦びおじさん」を殺した人たちと何が違うのか。

反ヘイト活動で有名な法曹の先生は「正義が暴走して何が悪い」と主張して憚らないが(何が悪い?頭が悪いに決まってるだろ)、正義というやつもまた人間の認識の中にしか存在しないため、往々にして認識を共有できないことがある。つまり「正義を共有できない」ということだ。例えば「悪魔の詩」を翻訳した五十嵐一教授を殺害したヒットマンは、捕まってないので実際はどう思ってたのかは類推するしかないが、おそらく「正しいことをした」という認識を持っていた可能性が高いと思う。ウサマ・ビン・ラディンを殺害した特殊部隊の隊員たちだって同じだろう。誤解しないでいただきたいのは五十嵐教授を殺したヒットマンとビン・ラディンを殺した特殊部隊が同じだと言っているのではない。ビン・ラディンは何の罪もない市民を3000人も殺したテロの首謀者であり、五十嵐教授は単なる翻訳者であり物理的には誰一人として殺しても傷つけてもいない。しかし、それは我々の考える正義であって、アルカイダにはアルカイダの、我々には到底受け入れがたい別の正義がある、ということは、別に声高に主張しなくてもいいけど頭の片隅には置いておくべきだと思う。

結局、神原元や仁藤夢乃や、まあ要するに左界の症人たちが嫌われるのは、自分たちの正義を絶対的なものだと盲信し、他者と認識を共有しようとする努力もせずに一方的にワケのわからん正義っぽいものを押し付けてくるからであって、なぜ彼らがそうなるかというと、物事を多層的に考えることができない、要は頭が悪い、1bit思考、ってことですね。


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