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「争う」=「強さ比べ」

fujiokaさんがこの記事について何か書いてたので、OoAさんが何を書いているのか読んでみて少し気になったこと。

「リベラリズム」というのは民主主義的で先駆的でもある、「寛容」を旨とする思想はいかなることを排除しない、素晴らしいと思いますよホント  しかし、「強さ」という部分はないんですよ、「寛容」はイコール「争わない」という事ですから、なので「強さ」求めたがる傾向の人間が行きつくところは大抵「極右」とか「愛国」とかになってくる、

この方は「争わない」を否定しておられるわけですから、つまりは(ネトウヨ、レイシスト等と)争う、と言ってるわけですよね。

で、「争う」って何かっていうと、根源的には「強さ比べ」だと思うのです。

そうすると

「強さ」求めたがる傾向の人間が行きつくところは大抵「極右」とか「愛国」とかになってくる、

ってのは、自己紹介ということになってしまいますね。

ANTIFAがファシストにしか見えない理由がここにあると思います。

木乃伊取りは木乃伊になるし、深淵を覗けば深淵もこっちを見てるわけです。

前記したが「リベラリズム」とは「広く受け入れ深く考えない」思考であると思う、これは何を意味するのか???? 例えば「リベラルなら差別主義者、レイシストにも寛容でなければならない」という考え、つまりこれは「差別主義者だからと言って社会から排除しないよ」と言って何もしないという意味に他ならない、その差別主義者が被差別マイノリティに攻撃をしても「自分には関係ない」という事を意味しているのだ、よくそういう人間は「自分たちも差別には反対です」というけど、一体差別の何か反対なのかがさっぱりわからない

差別反対とか言ってる人たちがチベットやウイグル、内モンゴル、あるいは法輪功などへの差別や弾圧、北朝鮮の人権侵害に声を挙げないことはとりあえず目をつむってあげるとして、だったらどこまで考えれば良いのでしょうかね。ウイグルやチベットのために声を挙げなくて良いのなら、自分に関係ない人のために声を挙げる必要はどこにもないってことになるわけで。

あるいは、そういうときだけ都合よく国内と海外を分けるんでしょうかね。それもまた差別なんじゃないのかな。

マザー・テレサの名言。

世界平和のために何をすべきか?家に帰って、家族を大切にしてあげてください

差別をなくそうとか、戦争をなくそうとか、そういう大きいことを言う人ほど、争いが大好きだったりする。

次は約2500年前の中国の賢人、老子の名言。

天下に水より柔弱なるは莫し 而も堅強なる者を攻むるに 之に能く勝つこと莫し。

水は柔弱だが、堅強なものを攻めるのにこれ以上のものはない、という意味です。後に「三略」という兵法書でも「柔よく剛を制す」という、日本でも有名な言葉が出てきますが、その原形みたいなものでしょうか。

つまりは「広く受け入れ深く考えない」ほうが結局は勝つんですよ(笑)。

最後は、マタイの福音書に出てくるイエスの言葉。

七回どころか七の七十倍までも赦しなさい

別に490回までは赦して491回目は罰しろという意味ではなく、要は無限に許せって言ってるのですよ主は。あ、俺キリスト教徒じゃないからね(笑)。

いつまでも誰かを憎しみ続けても絶対に幸せになれないし、終わったことはさっさと忘れて自分の幸せのために行動したほうが良いよってことです。

さて、OoAさんに話を戻します。

実はこうした「リベラリズム」の限界は早くから議論されてきた、特にドイツでは民主主義国家でありながら「ナチスドイツ」時代の物は全否定されている、

あれ?じゃあなんでドイツにAfDが存在するんだろう。しかもドイツ連邦議会で結構な議席持ってるみたいだけど。あんまりドイツを理想化して日本叩きすると出羽守って言われちゃいますよ。

あっそういけば今年の東京都知事選挙で桜井誠が17万票取ったってのが結構話題になったよね。あれ得票率2%を余裕で超えちゃってて、もしも全国であの得票率が取れたら参議院で議席取れちゃうって話があって、今まで書くタイミングが無かったんだけど今思い出したのでついでに書いておきます。

でも仮に「日本第一党」が1議席取ったとしても、1議席じゃ何もできないわな。


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