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お前だったのか

 子どもたちはそれぞれ物蔭に隠れ、息を潜めていた。
 彼らが見ているのは、今にも崩れ落ちそうな小さな家。漆喰の壁はぼろぼろで、病気の犬の肌のようだ。家の周りには、背の高い草や年老いた木が生い茂っていた。子どもたちはみな、その木の下に集まっていた。はるか高くからの太陽の光が、枝や葉を通して、光のノイズを散りばめていた。虫の羽の音が、あちこちから聞こえた。
 突然、小さな汚れたきつねが一匹、家の前へと躍り出てきた。子どもたちはそれを見ていた。だがきつねに、彼らを気にする様子はなかった。
 不健康に痩せたきつねは、大きな栗をくわえていた。少し周囲の様子を窺ったあと、きつねはゆっくりと、戸の隙間から家の中へと消えていった。少しの時間が経過した。すると、先ほどのきつねが再び、戸口から顔をのぞかせた。再び辺りを確認し、きつねは家から出ていこうとした。
 その時、地面が崩壊するような大きな音が、静けさを貫いた。
 石にでもなったかのように、きつねはその場で凍り付いた。それから小さな身体は、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。
 次に近くから現れたのは、一人の男だった。ぼさぼさの髪に、黒ずんだ肌。家と同じように、身につけた服もぼろぼろだった。手の中には、細長い不格好な筒があった。その先端からは青白い煙がまだ出ていた。
 男はゆっくりと近づいてきた。怒っているとも、戸惑っているともつかない表情をしていた。男もまた、子どもたちへ視線を向けることはなかった。
 弾が命中したことを確認すると、男は軽く息をついた。それから、男は足早に家へと向かい、荒らされていないかどうか、中を覗きこんだ。その表情はすぐに、驚愕で凍りついた。男は数歩、後ずさった。温度を失い縮んでいく、ずっと透明だった存在に、彼はついに目を落とした。
「ごん」男は言った。「お前だったのか。いつもくりをくれたのは」
 ようやくその名を呼ばれた孤独は、ゆっくりと彼の問いに対して頷いた。

「はい、ここまで! お話はここで終わりです!」
 子どもたちの後ろ、少し離れた位置。そこにずっと立っていた教師は、彼らに声をかけると同時に両手を叩いた。ぱちんという音とともに、男の姿が静止した。静止したのは、男だけではなかった。家も、木も。草や枝も、風にさらわれる細かい砂も、屋根から滴る水も、日の光も、銃口から立ち昇る細い煙も。子どもたちが目にしていた、拡張現実の映像すべてが、教師の合図で停止したのだった。
 映像が止まった途端、子どもたちは好き勝手に話し始めた。そんな彼らを諫めながら、教師は前へと出た。一時停止した物語を背景に、教師は大きく手を振った。散乱する、幼い注意を自分に集める。十分静かになったあとで、教師は続けた。
「じゃあまず、ここまで見たお話を、もう一回読んで確認みようか」
 何もない宙の中、教師は右手をさっと振った。大きく読みやすい文字たちが、滑るようにそこに現れた。文字はくらげのようにふわふわと浮かび、教科書の『ごんぎつね』の本文をそこに記した。
「大丈夫かな。みんな見える」と教師は子どもたちに尋ねた。「はーい、先生。見えまーす」と彼らは答えた。
 教師の指名に従って、子どもたちはそれを、それぞれ一文ずつ読み上げていった。異変が起きたのは、彼らの朗読が終わる直前だった。
「痛い!」突然大きな悲鳴を上げたのは、サリサだった。振り返って彼女は、後ろの男子たちを睨みつけた。「やめてよね! あんた本当に子供なんだから」
「何もしてねえよ!」喧嘩っ早いナカキが、反発する。「言いがかりつけんなよな」
 言いがかりって何よ、と爆発しはじめるサリサを、「はい二人ともやめなさい。ほら」と教師は落ち着かせた。「サリサさん、大丈夫? どうしたの」
「こいつ、わたしの腕を思いっきりつねったんです」ほら見てください、と二の腕を示すサリサ。確かに赤くなっていた。
「本当だ。痛いね」と教師。「ナカキくん、謝りなさい」
「だから先生、俺ら何もやってないですよ」とナカキは抗議の声を上げた。
 するとまた、「いてっ」と小さな声が、別のところから上がった。
 慌てて教師がそちらを見ると、今度はダインが尻餅をついていた。顔をしかめ、痛そうに臀部をこすっている。
「どうしたのどうしたの」教師は彼に近づいた。
「いや、なんか、肩にぶつかられて」気の弱いダインは、今にも泣きだしそうだった。
「だめじゃないこんなことしちゃ」教師は本気で怒ってみせた。俯く子どもたち。重たくなる空気。「押したのは誰?」と教師は言った。誰も答えなかった。「友達に意地悪なことをしちゃだめでしょ」彼らは顔を上げなかった。「先生、怒らないから。誰がダインくんと、それからサリサちゃんに悪いことしたか。正直に言いなさい」
「先生」ハイジという男の子が、そこで手を挙げた。「あなたがやったの」教師は叱る言葉を自分の中に探した。
 だが、「いいえ違います」とハイジは首を振った。不思議そうな顔をしていた。「先生、なんか変なにおいしませんか」
 うわ、ほんとだ、くっせー、と子どもたちは口々にはしゃいだ。確かに教師もにおいを感じた。思わず顔をしかめた。それはまさにちょうど、『ごんぎつね』の舞台に住んでいそうな、獣のにおいのように感じられた。
 大げさに咳き込んだり、えずいたりしてみせる男の子たち。彼らは全員鼻をつまみながら、とりあえず場所を移動した。
 その途中でまたサリサが、鋭い悲鳴を上げた。「先生! 先生! 先生!」怯えた様子で、彼女は叫んだ。「あそこ、あの草の中! あそこに今、何かいました! 本当です!」
 全員がそこで立ち止まった。まるで映像が停止したかのように。それから、彼女が指さした方、家の裏の草が茂るあたりに、全員が目を凝らした。だがもちろん、CGの草むらは停止して、まったく動いていなかった。そしてサリサが見たという影も、認めることはできなかった。
「本当よ」とサリサは主張した。「きつねみたいなのが、見えたのに」

 その時、少年はもうすでに、その場から逃げおおせていた。
 どうして突然彼らが騒ぎ出したのか、少年にはあまり分かっていなかった。だが彼らが急に、警戒心という棘をまとったのを、本能で少年は感じ取った。だからこそ、少年は彼らから逃げ出したのだ。
 二十メートルほど走ったあとで、少年は立ち止まり、振り返った。まだ彼らは同じ場所で、身を寄せ合っていた。そのまましばらく、少年は彼らのことを見ていた。彼らが重ね合わせている、白い手を。それらは、少年の手とはまったく違って見えた。やがて少年は、静かに踵を返した。
 少年はとぼとぼと、辺りを見ながら歩き続けた。少年が今いるのは、とても広い空間だった。偶然先ほど、彼はここに迷いこんだのだった。あちこちに、先ほどの彼らと同じようなグループがいた。大人が一人、そして複数の子どもたち。それぞれが、不意に一斉に声を上げたり、何もないところで奇妙に手足を動かしたりしていた。
 彼らの内の誰一人、そこを歩く少年には気付かなかった。彼らにとって性少年は、見えない存在、決して気付かれない影だった。もう先ほどのように、不用意に彼らに近づいてみようとは思わなかった。少年は時々立ち止まり、離れたところから彼らの様子を眺めた。
 いくら見ていても、彼らが何をしているのか少年には分からなかった。ただそれでも何となく、少年は彼らのことを見物していた。そして聞いていた。時々一斉に、彼らの中で起こる笑い声を。

 少年は知らないが、ここは学校と呼ばれる場所だった。
 現在、この国で生まれた赤ん坊の大半は、生後すぐに目の手術を行った。網膜に取り付けた装置を通して、拡張現実による映像を見るためだ。
 物質的資源がつきた世界。そこでは多くのものが、現実に存在しなくなった。道も看板も、レストランのメニューも、会社における資料も。何もかも。だが人間たちは変わらず、文明社会の中で生きていた。どのようにしてか。失われた物たちは、映像によって補われたのだ。かつての繁栄社会を再現した映像を、彼らは作り上げた。
 そして手術された目を通し、彼ら全員が「世界の正しい姿」を見た。全員が同じ視点を共有した。そして生まれてから死ぬまで、彼らは映像の中で生きたのだった。
 学校教育でももちろん、同様だった。学校には机も本も、何もなかった。子どもたちには、目だけが必要だった。
 だが実は映像を見ている間、彼らの目に「現実」は映らなかった。目は映像だけを認識し、荒廃した世界は、完全に見えなくなってしまうのだ。だがそれの、何を気にすることがある? 誰もが目の手術を行っているのだ。全員が同じ「世界」を見ている。それならば、「現実」とやらを見る必要などどこにあるだろう?
 そしてもちろん、手術には費用がかかった。

 少年は建物を出ると、黒ずんだシャツで鼻水をぬぐった。少年の服は、あちこちが破れ、その姿は小さい獣のように見えた。建物の外にも、たくさんの人が行きかっていたが、その中の誰にも、彼のことは見えなかった。傷だらけの裸足で、少年はまたとぼとぼと、社会の隙間、その奥へと去っていった。

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