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巨人の剪定(3)

 雨。雨だ。雨が降り続けている。ずっと。一時も止むことなく。雨の音しか聞こえない。雨が降るとき、すべての音は雨の音になってしまう。かすかな話し声も、硬いものがぶつかり合う金属音も、衣擦れの音も遠くのクラクションも。雨はあらゆる音を従属させ、ただひとつの音とする。雨は全ての上に平等に降り注ぐからだ。いや、それは正確ではない。平等になどといった表現は。平等とは、違いがあることを前提にした言い方だ。だがそもそも、雨の下でこの世界に、初めからあらゆる違いは存在しない。自他の区別も、形や性質による差異も、意思や命の有無でさえ、雨の下では何の意味も持たない。あるいは時間の流れすら。雨はただ露わにするだけだ。折り重なった無数の可能性が、ひとつの取りうる形を取っている、その様態を。
 あの日も、と藤森は話した。朝雨が降っていたんです。午前中ずっと降ってて、午後になったら止んだんです。あの日について俺が覚えていることはきっと、色々置き換わってたり、間違ってたりするんですけど、それだけは覚えてるんです。だってあの日、雨が止まなかったら、俺たちはあんなことしなかったんですから。
 雨はさらに勢いを増す。窓の外は最早、ガラス一枚隔てたすぐ外で、海が荒れ狂っているかのようだ。その時、硬く鋭い音がする。何かが軋む音も。次の瞬間、水圧や風圧に押され、窓ガラスが剥がれて、内側にひしゃげる。ギシギシ、ぴしぴしと大きな音を立てながら、上部からゆっくり透明な壁が倒れてくる。まるで巨大な波のように。そして訪れる、一瞬の静寂。不完全な静止。その後、轟音とともに波は崩れ落ちる。二人が座っていた席もまた、あえなくその波に呑み込まれる……。
 波。圧倒的なその力。全てをその現在の地点から引き剥がすほどの力。あらゆる物を呑み込み、波は進み続ける。そして再びはち切れんばかりに高く膨らむと、また力つきて倒れ、崩れ去る。その繰り返し。その末にやがて、崩れた波たちはゆっくりと、さらに巨大な流れの中へ回収されていく。渦を巻くような回転の中へ。回転。有機的でもあり、無機的でもある運動の形。最終的に、全てはこの回転の中で起こり続ける。あるいはそもそも初めから、回転だけがずっとここにあったのだ。計算不能なほど不規則な軌道を描きながら、無数の回転がただそこで続く。止まることのない流転。雨は降り続け、波が荒れ、そして回転はひたすら続いていく……。
 
 するすると回る車輪。ペダルをこぐ足。三台の自転車が、線路沿いの車道をふらふら走っていた。少し前に日が沈んでいて、辺りは薄暗かった。畑が広がるこの辺りは、この時間帯になると、まるで人影がなかった。車もたまにしか通らないので、自転車たちはライトも点けず、車道の真ん中を悠々と、蛇行しながら進んでいた。
 三本の影のように、薄闇を行く自転車。そこに乗っているのは五人の若者たちだった。二人乗りが二組ともう一人。若者五人―A、F、S、K、Yはそれぞれ、高校の友人同士だった。ぐだぐだくだらない話をしつつ、彼らは目的地に向かっていた。
「つーかさ、切った腕、小山のロッカーに入れとくとかはどう?」とK。
「それはwwwヤバすぎるwww」爆笑しながらA。「あいつ腰抜かしそうwww」
「あいつのロッカーだと、汚すぎて、中に腕が入らないとかいう可能性まであるくないww?」Sも笑いながら言った。
「確かにwww」とK。「じゃあ、やっぱり原口のかばんかー」
「いや、女子はやばいだろー」とF。「嫌われたくないしww、オレ」
「うわ! 出たよー、Fのそういうとこ」
「そもそもバレるわけねえだろwww、オレらがやったって」
「そうそう、分かんない分かんないwww」
「なんか知らんけど、バレるんだよ!ww、大概こういうのは!」Fが反論した。
 右へ左へ、自転車たちはそれぞれ道路上に大小の波形を描いていた。その動きに従って、三本の影は不定的なパターンで近づいたり、離れたりしていた。
「そういや、オレ明日朝練だわ。だりー、マジだりいんだけど」
「あれ? お前先月部活辞めたって言ってなかったっけ? 来月辞めるんだっけ?」
「そのふたつには巨大な違いがあるだろwww」
「なんかさ、オレが将来結婚するとかありえないと思うんだよな……」
「未来について何の根拠もない確信が下りてくること、たまにあるよな」
「そういえばこの間、Twitterで見たんだけどさ、なんかさ、値段だけ同じで、ポテトチップスの量とかが少なくなってることってあるじゃん? あれ、名前あるんだってさ。『シュリンクハレハレハレーション』っていうんだって」
「どうでもよくねwww? 名前なんかww」
「お前、何もかもどうでもいいと思ってる節があるよな」
「本気なんだよ、ある意味で。分かる?」
「いやいや、意味分からんwwwウケるwww」
「あーあ。9×9=81がずっとマックスのままだったらよかったのにな。思わん?」
「そう? オレ、割と好きだけどな、11の段。オシャレじゃね?」
 巨人の腕を切り落とさないか、と言い出したのはKだった。休日、彼らがそろってボウリングに行ったときのことだった。三ゲーム目の途中、Yが投じた七フレーム目の第二投は、スプリットした二本のピンの間、そのちょうど真ん中を、静かに奥の闇へと吸い込まれていった。三ゲーム目なので、特に野次も何も起こらなかった。何もかもどうせこんなもん、といったような顔をして、Yも席に戻ってきた。まさにそのタイミングで、「そういえばさあ……」と、Kがその話を切り出したのだった。
「上奈知のほうに、廃工場あるじゃんか」Kは言った。「あの近くに、巨人が一体立ってるの、知ってた?」
「あ、そうなんだ。知らんかったわ。いたっけ、あんなとこに」とS。
「オレも知らなかった。印象ないわ」Fも答える。
「いや、いるらしいんよ、小さいのが。オレも最近兄貴から聞いたんだけど」Kは続けた。「兄貴が言うには、兄貴の友だちが最近、その巨人の腕を切ったらしい」
「マー?」
「やばー」
「巨人の腕って、そんな簡単に切れんの?」
 休日のボウリング場はそれなりに混みあっていた。五人以外の客は当然ゲームを続けていた。すぐ隣のレーンでも、大学生らしき男女連れが遊んでいた。それぞれの投げるボールに対し、彼らは一球一球律儀に拍手を送っていた。とても退屈そうだった。だがその上で、その退屈さを完全に受け入れている様子だった。
「いや、マジで簡単らしい」Kは周囲の客に話を聞かれることを気にしておらず、声も全然落とそうとしなかった。「なんかやっぱり普通の巨人だと、腕がめっちゃ高いところに生えてるから、それこそ足場とか組んだり、電線の作業で使ってるような車でも使わない限り、腕なんか切れないじゃん。でもその廃工場の巨人は、足がダメになってるんだってさ。人間でいう、膝の下的な部分? その部分が全部腐ってて、なくなってるらしい。だから、普通の長いハサミ? 何て言うのかわかんねえけど、ああいうのさえあれば、普通にちょっと背伸びすれば、腕に届くんだってよ」
「へえ……」他に何を言ったらいいかFには分からなかった。「やば」
「だろ? ヤバいだろ?」Kは座ったまま、他の四人の方にぐっと顔を寄せた。「どう?」Kは続けた。「俺らも今度行ってみない? そこ。巨人見に」
「腕切るってこと?」Yは眉をひそめていた。
「まあ、そういうこと」Kは頷いた。「まあ、マジで切るかどうかは行ってから決めたらいいじゃん。ヤバそうだったら、止めて帰りゃいいだけだし」
 誰も何も答えなかった。
「なあー、行こうぜー」Kは笑顔だった。「面白そうじゃん! 行ってみるだけ! な?」
「まあ……」「別に…… 」「行くだけなら……」「暇だし……」
 そんなことを言いながら、五人はそれぞれ顔を見合わせた。

巨人の剪定

 目的地近くに着いたときには、全てが真っ暗になっていた。
 道の脇に五人は自転車を止めた。そこからは歩いて行こうと決めていた。暗闇にスマホのライトをかざし、それらしき方へ彼らは進んでいった。辺りはとても静かだった。自分たちが草を踏みしめるがさがさという音と、虫の声なのか何なのかよく分からない、細く長い音がどこか周りから時々聞こえてくるだけだった。しばらくそうやって歩いていった。すると、ほどなくしてライトの中に、廃棄された無数の建物たちの姿が浮かびあがってきた。ぼんやりと大きな建物がいくつもそこら中にあった。背の高い草たちが建物の周りを囲んでいた。壁という壁が変色し腐蝕し、あちこちに剥げが見えた。「おお……」「やば……」と少し立ち止まった後、彼らは歩みを再開した。流石に夜の工場跡にはそれなりの雰囲気があった。五人の間にも緊張感が漂っていた。互いを励ますように、あるいは互いに対して強がるように、彼らは馬鹿な話をしながら歩き続けた。彼らを拒むでもなく、受け入れるでもなく、ただ闇が周囲に広がっていた。
「いた」突然、Aが立ち止まった。「あれだ」
 全員が一斉に、Aがライトを向けた方を見た。そして思わず息を呑んだ。
 一体の巨人が暗闇の奥に立っていた。光を向けられてもなお、微動だにすらしないまま。「彼」は、恐らくかつてこの施設内において、主管工場的なものであったと思われる、一際大きな建物のすぐ外に生えていた。光景の全てが荒れ果てていた。割れた窓、崩れたブロック、ツタが這った壁……。そして今まさに現在進行形で、その建物を破壊しつくさんとしている力が、情け容赦なく巨人をも蝕んでいた。そう。その巨人は単純に老いていた。明らかに、見るからにして。Kが巨人について話したことは正しくなかった。巨人は別に足が腐り落ちてなどいなかった。老いた巨人はただ、自重を支えられなくなり、真っすぐ立つことができなくなっていた。複雑に折れ曲がったその身体は、近くの建物に寄りかかるようにして、何とか立っていた。ただ力なく垂れ下がった腕たちは確かに、背伸びすれば届きそうな高さで揺れていた。
「よし」Kが背負っていたリュックを地面に下ろしたと思うと、次の瞬間、その両手の中に高枝バサミが握られていた。「誰が腕を切るか、決めるぞ」
「は? お前が切るんじゃないのかよ」とA。
「言い出しっぺだろ! お前が」とF。
「ハサミ持ってきたのだってお前だろうが!」とY。
「俺はパス! マジで無理!」とS。
 一分にも満たない、声を潜めた言い争いの後、決定が五人の間でなされた。じゃんけん。負けたやつが切る。やり直しはなし。一発勝負。
「最初は、グー…!」Kが音頭を取った。「じゃんけん……!」
 四人がグー。Fだけチョキ。
「早く行け、早く行け!」「さっさと切って、戻ってこい!」「危なくなんかないから!」「ちゃんと切った腕は拾って来いよ!」高枝バサミを胸の前に抱え、ゆっくりと巨人に近づいていくFに、背後から心無い声が浴びせかけられた。
 四人が後ろからライトで照らしてくれていたので、前が見えないということはなかった。歩きながら、自分の息の音が大きく聞こえた。草をかき分けながら前に進んでいき、気が付くと、もう巨人の足元にいた。すぐ目の前に巨人の身体があった。Fにとって、こんな距離で巨人を見ること自体、初めてだった。近くで見ると、その肌は乾き切っていて、細かくひび割れていた。何となしにFは見上げた。
 真っ直ぐ頭上に巨人の顔があった。巨人はうつむいていたので、Fは思いがけず、その顔と正面から向き合うことになった。老いた巨人はその両目を閉じていた。口が曲がり、わずかに開いていた。鼻も痛々しく折れていた。顔全体がまるで悪夢でも見ているかのように歪んでいた。その表情はあまりにも人間的だった。そのことがFを動揺させた。慌てて彼は視線を落とした。
「ほら、早く……!」と、後ろからまた声をかけられた。
「分かってるよ……! うるせえな……!」と、振り向いて声を殺しながら叫んだ後、Fは巨人の方に向き直った。二、三度、長く息を吐いた。それから高枝バサミを両手でしっかり持ち直した。そして一番近くに垂れていた腕のほうに手を伸ばし、ゆっくりとその切っ先を腕に近づけていった。
 切る直前、一瞬溜めを作った。それから一気に力を込め、その腕に刃を入れた。あまりにもあっけなく刃は入った。ストローでも切ったかのようだった。一瞬後、切り落とした腕が地面に落ちた。ぽすんと軽い音がした。
 次の瞬間、それは起こった。
 始め、Fには何が起こったのか分からなかった。次に地震だと思った。とてつもなく大きな地震が起こったのだと。地面が丸ごと反転してしまいそうなほど揺れていた。後ろで他の四人が言葉にならない声、叫びを上げているのが聞こえた。そしてFはようやく気づいた。何か巨大なものが自分のすぐ近くで、動いているという確かな気配に。がさがさがさという大きな音に。夜全体がけたたましく震えていることに。
 再びFは上を向いた。そして見た。巨人が目を開いていた。その両目は茶色く濁り、中には全然光がなかった。顔全体に先程より深い陰影が刻まれて見えた。そして巨人は、奇妙に折れ曲がり、建物に体重を預けたその姿勢のまま、何かを訴えるように、体全体を大きく揺らしていた。その動きによって地響きが起きていた。振り回された無数の腕たちが、夜をかき乱し、音を立てていた。Fはその場に立ちすくんだまま、暴れる巨人をただ見ていた。その時、巨人が口を開いた。ばかりと、唐突に。顎が外れたかのように。それから何かを吸い込むような長い音が聞こえ始めた。音は巨人の口内から発せられていた。次第にそれは叫びに変わった。獣が咆える声のような、深く重たい叫び声に。叫びが夜に響き渡った。Fはただ呆然とその場に突っ立っていた。その時、後ろから腕を摑まれた。
「おい!」振り向くと、KとYがいた。二人とも見たことのない表情をしていた。「何してんだよ! 早く逃げるぞ!」
 そう言うなり駆けていった二人の後を、一拍遅れて、Fも追った。Fは走った。前方に漠然と広がる闇の奥に、他の四人が手に持ったスマホの放つ明かりがチラチラ見えた。ひたすらその光を追いかけていった。草に足を取られ、何度も転びかけた。巨人が体を揺する音、叫び声が、後ろからずっと聞こえていた。地響きも感じた。とにかく彼は走り続けた。光景、残像、混乱、後悔、そういった全てから逃れようと。彼は走った。躓き、もつれ、それでも足を止めず、ただ走り、走り、足を回転させ続け、回転、その先で……。
 
 水門の横を過ぎたところで、根室は走るのを止めた。速度を落とし、息を整えるためにそのままゆっくり歩いた。河原をジョギングするとき、根室はいつもここがゴールになるように同じ距離を走っていた。日曜日の午後、暖かな光が多摩川の河原に満ちていた。川沿いの道には彼以外にも多くのランナーや散歩者の姿があった。道の脇では、クラブに入った子供たちが野球やサッカーをしていて、彼らの発するにぎやかな声が河原の音調となっていた。何でもない、いつもの日曜日の河原の景色。その中を根室はゆっくり呼吸しながら歩いていった。
 歩き続けるうちに息は落ち着いた。そこで根室は川の向こうへと目を向けた。遠くにその姿が見えた。コリー。剪定が決まった巨人の姿が。二週間前、ついに彼の周りに足場が組まれ始めた。今ではすっかり、コリーの身体は足場に囲まれていた。その姿は極小の檻に囚われたようになっていた。
 最近いつもそうしているように、根室は道の脇で立ち止まった。それから、川の向こうの姿を真っ直ぐに見つめた。
 無数の鉄の棒で拘束されても尚、コリーの様子は以前と変わらなかった。ただぼんやり光を見上げ、目を細め、口をぽかんと開けたまま、だらりとした体勢でそこに立っていた。不自由さなど何も感じていなさそうだった。実際そうなのだろうと根室は思っていた。物質的な拘束は、対象がそう意識しない限り、誰からも自由を奪えやしない。どんなに弱い(とされる)存在からでさえ。その意味で、コリーはかつてと全く同じ自由さをまだその身に宿していた。ある意味で、何よりも自由な存在としてコリーはそこにいた。だがコリーには時間がなかった。彼にとっては、時間もまた無意味なものであろうにも関わらず、時間という概念ともっとくだらないものとが、コリーを痛めつけようと刃を研いでいた。比喩ではなく、文字通りの意味で。コリーは知らなかったが、根室はそれを知っていた。そのことを考えると根室の心はやはり乱れた。
 事ここに至っても、どうしてコリーの剪定の決定に自分が深く動揺したのか、根室は分かっていなかった。ずっと分からないままであるような気がしていた。その決定を聞いた瞬間からずっと、コリーの剪定は根室にとって受け入れ難いことだった。はっきりとした理由など何もなくとも。それは藤森の話を聞く前から同じだったが、彼の話はさらに、根室の中でコリーの剪定のイメージを立体的なものにしてしまった。すべて済んだあと、自分がかつてコリーだったそれを直視できないであろうことを根室は確信していた。自分は未来永劫、それから目を逸らし続けるだろう。電車の中にいても、河原にいても、世界のどこにいたとしても。
 しばらくそこでコリーの姿を見ていた後、根室は帰路についた。
 
 家に帰ると、妻がキッチンのテーブルでパソコンと睨み合いをしていた。
「あ、おかえり」ブルーライトカットの眼鏡を外しながら、妻は言った。「シャワー、浴びるでしょ?」
「うん、浴びるよ」根室は答えた。「晩ごはんどうする?」
「どうしようか」画面に顔を戻しながら妻は言った。「何か食べたいものある?」
「特に……。じゃあ、シャワー出てから、何かオレが作るよ。冷蔵庫の中見て考える」
「分かった。お願い。ごめんね」
「全然大丈夫」
「……あ!」思い出したように、妻は再び顔を上げた。「なんか、やたら大きな荷物届いてたよ。玄関に置いといたけど。見た? というか、何? あれ……」
 シャワーから出て、部屋着に着替え、ドライヤーで髪を乾かした後、妻が話していた荷物を玄関に取りに行った。確かに、大きな段ボールが自分宛に届いていた。首を傾げながら、宛名を確認した。藤森からの荷物だった。何だろう、と根室は思った。特に何かを話した記憶はなかった。自室に戻り、荷物を開けてみることにした。カッターでテープに刃を入れたタイミングで、胸の内が奇妙にざわついた。一瞬躊躇ったが、思い切って箱を開いた。中身を見て、動悸が激しくなるのを自分で感じた。
 中に入っていたのは、古い一本の高枝バサミだった。全体にとても汚れていた。そしてその刃の表面には、何かべとべととした液体が、まるでついさっき付着したかのようにぬらぬらと光って付着していた。
「何だった? 中身」と、後ろで妻の声がした。心臓が飛び上がりそうになった。根室は本気で慌てて、「いや、違う。これは……!」と振り返った。
 開いたドアの先に巨大な影が立っていた。腕や頭などがついていないように見える、ごく単純な形の影が。ゆっくりと影は部屋の中に入ってきた。だんだんさらに大きくなりながら。何か言いたいことがあるかのように、あるいはこちらに何かを言わせようとするかのように、影は真っすぐ根室のことを見つめていた。

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