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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part4【「第1章 基礎原理」p11 26行目〜p15 27行目まで】

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第1章の基礎原理 p11 26行目〜 に入っていきます。


第1章 基礎原理 (p11 26行目〜)

今回の三行まとめは以下のとおりです

・発声訓練教師にできることは「発声器官を刺激して自己治癒させ、本来の機能を発揮させる」ことだけである。

・すなわち声の訓練の本質は「解放する」ことである。

・大事なのは「筋力」ではなく、「筋肉の柔軟で機敏な可動性」である。


さて、前回は11番まで番号づけしておりますので、今回は12番から始めていきます。


12.「発声器官を刺激することによって発声器官自身が自己治癒するようにする」。
そうすることによって、「発声器官の本来の機能を発揮させる」ことができる。
それだけが私たち発声訓練教師が出来ることだ。(p11 26行〜p12 6行)

ここから解説版での区分3に入っていきます。
ここは順番に読むと「うんうん、うんうん…わかったけど…つまり?」となりやすい部分かと思います。
少し長くなりますが順番に読み解いていきます。

まず
’発声訓練教師は、歌う器官に外部からつけ加え得るものは何もないこと、歌うのに必要な全ての素質はすでにその器官の中に存在していることを理解しなければならない。’p11 26行〜
という文から始まります。

発声訓練教師は理解しなければならない。
  何を?→歌うために必要なすべての素質は、発声器官に備わっていることを。

前提として「理解しなければならない」というのは原著で「realize」という単語があたっており、「明確に理解する、悟る、実感する、体得する、実現する、実行する」などの意味を持つ単語で、ただ単に「頭で理解する」ではなく「体でわかる理解」が要求されている、と解説版では補足されています。

さて、解説版の補足から本筋に戻りまして、ここの内容は前回part3で触れられていた部分から理解できると思います。
繰り返しになりますが、「人間は生まれつきの歌手」であると、歌うための能力は発声器官に備わっているのが自然な状態だという話は、第1章前半部分の肝と言える部分です。
それを踏まえると、ここは「歌うために必要なものは人間生まれつきもっているよ」と言いたいのだということがわかります。

続けてもう一つ理解しなければならないものをフースラーは並べ立てます。
「発声器官の本来の機能を発揮させる」こと以外には何もない。
と。

まとめて読むと
私たち発声訓練教師は理解しなければならない
・歌うために必要なものは人間生まれつき持っていること
・発声器官の本来の機能を発揮させる!それだけが私たちに出来ること

という2点の主張が読み取れます。

そしてそこから続けて
’我々が出来ることはすべて、自分自身を救うようにその器官を刺激することである。’p11 29行〜
とあります。
すなわち先ほどの「理解しなければならないこと」を踏まえて、「では私たちにできる唯一のこととはなんなのか?」のアンサーがここで述べてある形です。
上の引用を読み解くと「発声器官を刺激することで、自己治癒を促すこと」と言っているととれます。

発声器官を刺激する、という部分について「?」となる場合は解説版の解釈を交えて説明させていただきます
まず「発声器官」とは「狭い範囲の少数の器官」によって成り立つのではなく、「広い範囲の多くの器官」によって構成されており、それ等の器官は「神経と筋肉の集合体である」というのが解説版で述べられております。
発声器官というと例えば声帯、喉頭、といったいわゆる喉、内喉頭筋に焦点が当てられがちですが、視野を広く取ると、胸骨や肩甲骨、茎状突起や下顎骨 etc… 数多くの箇所と筋肉で繋がっています。
このような広範囲の多くの筋肉が発声には関わっており、それらが複合的に動作して人間の声が作り上げられる、故にこれらをまとめた総称として「発声器官」という言葉が使われています。
では発声器官についてわかったところで、では「刺激する」とはなにか?
「筋肉や神経に対する刺激」とは「実際に動かすこと」であると捉えると辻褄があう、というのが解説版では述べられています。
前回part3でも出てきましたが、使われない筋肉は神経支配が悪くなるなどの現象が起こります。
そこと繋げて考えると、「実際に動かすこと」を通じて「筋肉や神経を刺激」して「筋肉の神経支配を良くする」という一連の「発声訓練教師が行う唯一のこと」の大筋が見えてきます。

残りの続きは「なぜそうと言えるのか?」を別の有機物を例に出して説明している内容になっています。
’園芸家は植物から、その中に潜在する以外のものを引き出すことはできないし、同様に、動物には、自然の習性にないことを無理にさせることはできない’p12 2行〜上記の引用は括弧の中に入っていますが、
『だから、これらの動植物と同じで人間も「潜在する以外のものを引き出すのはできないし、「自然の習性にないことを無理にさせることはできない」んですよ』
というのが主張なので、ある意味補足というよりもメインの内容と言えます。

そしてこの段落の最後2行の内容はすこし過激ですが、ここも解説します。

’自分勝手にでっちあげた法則によって仕事をする発声訓練教師は、自然の機構の代わりに、病的な不自然な器具をおきかえるだけで終わるだろう。しかもそのときそれはあまりにもしばしばおこる災害、というような信じがたい理論があらかじめ用意されている。’

ここの言い回しで混乱を招くのは「病的な不自然な器具をおきかえるだけ」と「しかもそれはあまりにもしばしば起こる災害、というような信じがたい理論があらかじめ用意されている」
の2点かと思います。

1つずつ簡単に読み解くと

『病的な不自然な器具をおきかえるだけ』
これは、本来生まれつき持っている歌える能力をもった器官を、
自然な使い方ではない使い方をされている発声器官=「病的な不自然な器具」と読むと、「自然な使い方の発声器官」から「不自然な使い方の発声器官」におきかえられてしまう、と言っているのだと読み取れます。

『しかもそれはあまりにもしばしばおこる災害、というような信じがたい理論があらかじめ用意されている』
これは、1つ前のような悲惨な結果が起こってしまった時に、
「しばしばおこる災害だよね」という言い訳があらかじめ用意されている。
と読んでよいと考えます。
「理論」を「言い訳」と読み替えましたが、言い訳という言葉はそもそも
『「好ましくない事柄」に対する事情説明を妥当ではないとする』
といったニュアンスが含まれております。
悲惨な結果は当然「好ましくない事柄」に該当しますから、それに対する事情説明、それが起こってしまった理論を「しばしばおこる災害」で片付けるのは、現代日本においては「言い訳」という言葉が最も近い表現となると思いますので、あえて読み替えをさせていただきました。

さて少し長くなりましたが、ここまでを簡単な言葉に言い換えると、
『動植物、有機物に共通する原則は人間にも適応されるんだから、それを無視して「自然の習性にないことを無理やりさせたり」すると、おかしくなってしまうよ』
ということを言っていると読み取れるかと思います。

さて、ここは解説が必要な事項が多かったので長くなりましたが、後半部分は前半部分の補足的な内容で、最後の2文に至っては「自分勝手な法則に従って仕事をする発声訓練教師」に対するフースラーの怒りが綴られているような、そんな文でしたので、要点をまとめている12番のタイトルは前半部分だけで作られています。
そこが主として述べたい部分であると取れるためそのような形を取っています。


13.偉大な歌手の発声器官が特別なものとして作られているわけではなく、シンプルに発声器官が解放されていて、それを自在に操作できるだけである。
すなわち声の訓練の本質は「解放する」ことである。
(p12 7〜24行)

ここでも繰り返し、人間の発声器官は歌う能力を有している、自然によってそう作られている、上手く歌えない人にもその能力は潜在している、とフースラーは繰り返し主張します。

フースラーメソッドについて調べたり学んだりしたことがある方は、一度は目にしているであろう表現として、「目覚めさせる」「解放する(開放すると書かれることも)」「自由に解き放つ」といった言葉がここでも出てきます。

「人間は生まれつき歌手である」
これは、歌手という言葉でアーティストだったり歌い手だったりボーカリストだったりをイメージしてしまうと少し本筋からずれてしまいます。
人間は生まれつき歌う能力を有しているのだ、というのが本筋です。

この本筋を意識して読み解いていくと、
主張:人間は生まれつき歌う能力を有しており、その能力は潜在している。
Q .ではなぜ上手に歌えないのか?(いわゆる「偉大な歌手のように」)
A .それ(歌声)を出している発声器官が目覚めさせられていない状態だからだ。
というのがこの前半部分の主張です。(p12 13行目まで)

そして偉大な歌手(歌が上手い人)は特別な喉頭の形をしていたわけではなく、普通の人のものと同じだったこと。
それからこういった偉大な歌手たちは発声器官の本来の使い方から乱すことによって普通の人の声をモノマネできること。
と、いうことは、「普通の人」と「偉大な歌手」の違いは発声器官を自由に使うことができるという点だけ。
それだけのことなんだよ、シンプルでしょ?
(…少し言い方を砕きすぎたでしょうか?)
というのが後半部分の主張です。(p12 13〜23行)

くわえて、目覚め、開放、解放といったワードについてはこの
「発声器官を自由に使うことができるか?」という部分にフォーカスして、比喩的に表現したものです。
「普通の人」の発声器官は本来の能力を出せてないということで
「目覚めていない」だとか「解放されていない」と表現することができて、
「偉大な歌手」の発声器官は本来の能力が出せているということで
「目覚めている」とか「解放されている」と表現することができる。
と読み取ることができます。

すなわち、発声器官の本来の能力を使うことができるようにするための
「声の訓練」の本質は「解放する」ことである、というのがこの段落での最終的な結論です。

補足的に、邦訳版では「開放」、解説版では「解放」、そして私の本ブログでは「解放」と解説版と同様の表現をとっています。
これについては解説版でも特に触れずに「解放」を用いておりますので、私のブログでそちらを用いる理由を軽く説明させていただきます。

これは私の中での日本語のニュアンス+簡単に調べた限りの情報として
「開放」は「あけはなつ」と書くように、ひらけているニュアンスがあります。
対して「解放」は何か縛られているものや制限をかけられているものの縛りや制限が外されるといったニュアンスがあります。
このニュアンスを踏まえると、発声器官に対して用いるのに適切なのは「解放」であると言えます。
という点が、私が「解放」という表現を用いた理由です。


14.発声器官の本来持つ能力は莫大で、全てを引き出すのは不可能に近く、引き出すためには発声器官の全てが的確な神経支配を受けて敏速で伸縮自在な張力を獲得することが必要である。(p12 25行〜p13 13行)

ここでは、先ほどまでで述べてきた「解放」とつながる部分として、
「解放」の難しさを述べています。
まず発声器官に隠されている歌唱経験のための資産というのはこれまでも出てきた「発声器官が本来持つ能力」と同じものを指します。
そしてそれは莫大なので、一個人が全て引き出すのは不可能に近いほど難しいとフースラーは述べます。

ではそれを引き出すのはなにをしなければならないのか。
①発声器官のすべてが的確な神経支配をうけること
②活力を取り戻すこと
③筋肉が敏速+伸縮自在な張力を最大限に獲得すること
④二重に添加されているための障害が除去されること←!?
これらがここでは述べられています

まず①、これは書いているままに取れば良いと考えます。

次に②、これは発声器官を構成する筋肉が萎縮している状態から、本来の状態に戻る、と取ると理解できるかと思います。

続けて③、ここも①、②を踏まえて筋肉の神経支配が良くなり活力を取り戻して、と来て、その筋肉を、柔軟性をもって自在に動かすことができれば、筋肉が動くことによる「引っ張り」をコントロールできる。といったことを述べている、と読むとわかるかと思います。

最後の④、これは突然話が変わっています。何が二重?添加?障害?
これは解説版の方で解決してくださっています。
英語版原著では下記のように表現されている箇所のようです。
'…and if the diverse superimpositions are eliminated, …'
superimposition これが「重ね合わせ」や「二重」といった意味のようですので、これがややこしさを生んでいると思われます。
翻訳によると、「そして、もし多様な重ね合わせが排除されるなら」となるようです。
ここから読み取れるのは、発声器官が全ての能力を引き出すには、多様、すなわち様々な障害が重ね合わせられているということ。
そしてそれらを排除することができるなら、発声器官の本来持つ能力を引き出すことができるだろうと述べていると読み取れます。
砕けた表現をすると④は
そこまでの3点、そしてそれ以外にもその他諸々の障害を突破すること!それを実現できれば、この資産(=発声器官が本来持つ能力)を手に入れて、本格的に歌うことができるだろう!
といったことが述べられていると考えられます。(5行目まで)

そして、コロラチュラ(コロラトゥーラ)、フィオリチュラ(フィオリトゥーラ)、トリルなどの「技術的に熟練したうまさ」、「テクニック」と言い換えても良いと思います。
こういった歌唱技術の才能、能力も、この資産に含まれている。といったことがここでフースラーの述べている内容です。

この段では最後に補足的に、「すぐれた歌手」でも発声器官の機能が妨げられている声を出すことがあり、その欠点を巧妙に隠しているといったことが述べてあります。
「何かしらのテクニックで、発声器官の機能がうまく使えないことを隠しているが、それは楽器(人間の体)使用法として非生理学的である」
というのがここで補足的に述べている内容です

15.神経支配の悪い柔軟性を欠いた発声器官は呼気圧迫、過剰緊張することで歌を歌おうとする。それではいけない。筋肉の本当の活力は「可動性」の中にあるのである。(p13 14行〜p14 7行)

ここから解説版の区分4に入ります。
ここではまず、神経支配の悪い柔軟性を欠いた器官は、外部の力を使う(本来発声に関わらない体の動き、及び呼気圧力を増す)と述べ、その結果が「過剰緊張」と呼ばれるものを引き起こすと説明されます。
そしてこじつけの例えかもしれないと述べつつ例を挙げています。

「握る」のに必要な前腕の筋肉の部分的麻痺が生じたとして、その手を握ろうとする時には、関係ない筋群を一緒に働かせようとする傾向がある
その時働く筋肉の例として咀嚼筋があるが、人は体で力を出そうとする時「歯を食いしばる」。さらに呼吸器は閉じた喉に向かって圧力を加える。(息を止めてきばる)

すなわち、「神経支配の悪い柔軟性を欠いた発声器官」でも、これと全く同じことが起こるのだとフースラーは述べています。

そして
・「筋肉の盛り上がったタイプ」の筋肉の力が強い人
・「ほどよくやせたタイプ」の人
を例に挙げ、後者の方が名声を博する、要するに良い結果を残すといったことを述べています。
筋肉の「力の強さ」よりも「可動性」「柔軟性」に富んでいる筋肉を持つ方がよいといった表現と読み取れます。
「筋肉は機敏で、柔順で、迅速に反応する必要がある。」
「神経からの刺激は、最大限の迅速さで緊張と弛緩をさせるために、十分強くある必要がある」
といった表現からも、「筋肉の強さ」よりも「可動性があって柔軟であること」「神経支配の良いこと」の重要性を述べているといって良いと考えます。

16.現代の文明人に起こりがちなこういった過剰緊張に対する決まり文句の「relax(力を抜け)」は意味がなかった。なぜなら悪い習慣は必要に応じて現れるため、関連する筋肉がうまく働かないが故に現れるからだ。(p14 8行〜p15 1行目)

まず前半部分についてはこれまで現代人に起こってきた、文明の発達に伴って悪化していった私たちの体についてのことが記述してあります。

文明の発達に伴って私たちは日常的な体の動作を行う時間が、自然で暮らしている時代よりも圧倒的に減っています。

今こうしてブログを書いている私がまさにそうです。
言語習得以前の、狩り、あるいは漁をし、食料を確保して自然で暮らしていた、そんなころの人類と比較して、今椅子に座ってパソコンを叩いて一歩も動かずに文字を打っている…明らかに…運動不足と言えます。
(それを補うための日常動作やウォーキング、簡単な運動は行っていますが…)

こういった体の機能が衰えている人間は何かと過剰緊張に悩まされます。
スマホを見てばかりの画面の向こうのあなたもおそらく肩こり、猫背やスマホ首、ストレートネックに悩まされていることでしょう。
これらも文明が発達したが故の体の衰えと言えます。

そしてそれらは何かしらの筋肉が過剰に緊張している状態が維持されて痛みを生んだり身体的な不自由さを生んだりしています。

それへの対応として「力を抜け」と言われても、筋肉が張った肩の力を抜く、とは…?となるのではないでしょうか?
(このあたりは掘っていくと長いのでこの辺りで終わりにしますが…)
同様に「力を抜け」と言われても、力を抜くメソッドを考案しても良い結果は生まれなかったとフースラーは述べます(19行目)
なぜなら過緊張は悪い癖!とされているだけで、その原因が取り除かれていなかったからです。
というのが前半部分の主張です。

後半部分については私の解釈と意訳、あるいは取り方によっては創作ともとられるかもしれません。
まず上記の悪い癖、これはイコール「悪い習慣」です。

そしてフースラーの述べている内容としては
・解剖学的に奇形だったり神経の異常に悩まされているわけではない限り、
・関連する筋肉が完全に反応性をもち活動的でさえあれば
・誰も歌う時に、舌や軟口蓋etc…を硬くすることはしない(すなわち過剰緊張させることはしない)
・力を抜いた状態をいつも維持しろ、何て言われてもそれはただの必要条件であってそれ以上の何者でもない。
といった内容になります。

4つめの内容が特に誤解を招きやすいと考えます。
これは邦訳では「弛緩とはもともと自明の必要条件であるだけであって、それ以上の何者でもない」とされています。
ここでいう弛緩とはすなわち、「不要な筋緊張をしていない状態」という読み解き方を私はしています。
先ほど例として挙げた肩首の異常などがいわゆる不要な筋緊張が起こっている状態といえます。
こういった異常がない状態を維持しろ!と言われても「それはそう」としかなりませんし、「できるならやってる」という感想を抱かれるのが関の山でしょう。

そしてそれらの異常、すなわち悪い習慣が現れるということは、日常的な体の使い方に対して、体が適応するためにそういった習慣が現れます。

肩こりしやすい姿勢でデスクワークをしていたら肩こりになります。そういったことです。

そしてそこから考察できる内容として、先ほどのフースラーの述べている内容2番目
・関連する筋肉が完全に反応性をもち活動的でさえあれば
ということは、逆説的にいえば関連する筋肉がうまく働かない場合は、こういった悪い癖が現れる。と読み解けます。

肩首の異常の例でここまできましたが、発声器官においてもそれは同様で、歌う能力をうまく使えないのは関連する筋肉がうまく働かないからだというのは理解しやすいのではないかと思い、逆説的な創作をここに入れさせていただきました。

17.ここまでのまとめ+α(詳細は以下へ)(p15 2行〜27行)

ここが区分4の最後です。
主要な論点を繰り返し強調する、と述べていますが、実際には繰り返し部分もありつつもまた別の話も入ってきます。
特に3番以降はそういった内容が多いです。
まずは述べていることを箇条書きしていきましょう。

①人間に、生まれつき歌手としての能力が備わっているなら、「抑制された発声器官」が復活すれば、歌手になりうる。(2〜5行)
②「普通の人」の発声器官は無力で、一種の分裂状態 or 永続的に妨害された状態である。(5〜10行)
③ただし発声器官が解放されても、「驚異的器官がそこにある」というだけで「驚異的声楽家」になれるわけではなく、専門歌手になるには様々な条件(要求)を満たしつつ長年の激しい勉強が必要だ。(11〜17行)
④これらを全て満たした歌手でさえ、発声器官を常に自分の制御の下におけるように訓練しなければ声を失うだろう。(17〜25行)
⑤今日の歌手たちは、現代の音楽の「高くなっていくピッチ」「大きくなる音」、さらには「鈍感になってきた耳」とも戦わなければならない。(25〜27行)

ここは全部で6つの内容に分けます。
順に①、②はおさらいです。
新たに「分裂状態」や「永続に妨害された状態」と言い換えられていますが、これは①の「抑制された発声器官」の状態を少し具体的な言葉で表したものです。

・本来筋肉神経が共同で発声器官を作り上げるところが、うまく共同させることができない=「分裂状態」
・抑制されたままの発声器官では、本来発声器官がもつ能力を発揮できない=「永続に妨害された状態」

です。

続けて③、これは「発声器官が本来の能力を発揮する」ことと、「素晴らしい歌手であること」は同義ではないということです。
歌手になるには音楽性や健康、性格…etc…のプラスαが必要で、さらに長年勉強し続けなきゃいけないよ、というのがここでフースラーが述べていることです。

そしてここで邦訳版の記述に気になる点があります。

’徹底的に訓練されたことがなかったならば、遅かれ早かれ必ずその声を失ってしまうに違いない。危険なのは器官が最初から完全であればあるほどよけい傷つきやすいためである’(18、19行)

ここで「器官が最初から完全であればあるほどよけい傷つきやすい」は
イマイチピンとこないのではないでしょうか。
これは邦訳に問題があると解説版で触れられています。

’The danger lies in the fact that more an organ is intact at the outset, the more sensitive it is, and that is why the singer's natural gift of perfectly functioning vocal organ has to be always under his control.'

危険なのは、オルガンが最初から無傷であればあるほど、より敏感であるという事実にある。だからこそ、歌手の天賦の才能である、完璧に機能する声帯オルガンを常にコントロール下に置かなければならないのだ。

まず、オルガン=発声器官ととらえます。(解説版でもそのように翻訳しています。)
そして、邦訳で「危険なこと」は「完全であるほど傷つきやすい」とされていましたが、原著英語版では、「無傷であればあるほど敏感である」とされています
これは日本語的にも大きな違いがあるかと思います。

「完全に解放されていて抑制されていない発声器官が傷つきやすい。」のではありません。
体に潜在している歌う能力がどの程度解放された状態からスタートするのか、そこに個人差はありますが、そのスタート地点では基本的に無闇な訓練や、乱暴な訓練に出会う前で、発声器官はダメージを受けていません。
すなわち、
「まだ不注意で乱暴な訓練を行なっておらずダメージを受けていない発声器官は敏感である。」
「そして、敏感=傷つきやすいからこそ、発声器官を常にコントロール下に置かなければならない」

ということをここでフースラーは述べていると読み取れます。

そしてこれが次の④で述べている内容につながります。
この行間では「コントロール下に置かなければならない」「乱れてしまった時もどうすれば治せるのか知っていなければならない」ということを例を交えて説明しています。

最後の⑤では、歌手が戦わなければならないものとして、常に目まぐるしく変化しつつある、「歌手に求められること」、さらに文明の発達によって「鈍くなりつつある自分の耳」を挙げています。

特に歌手に求められている
・より高い声を!
・より大きな声を!
については現代日本の大衆が聴く音楽においても通ずるところがあると私は考えているので、みなさんにも伝わりやすいのではないかと思います。
実際に、高い声を出したい!という生徒さんや、声量を上げたい!という生徒さんが多いのがそれらの「戦わなければならないこと」を示しているといえます。

ここまでが区分4、そしてこの第1章 基礎原理でフースラーが述べていると私が読み取った内容です。

p15 28行目から先は、区分5とされており、
「ここまでに述べてきた「声の訓練の基礎」に対して、質問が出そうな内容、用語についてもっと明確に述べていく」
といった内容で、これまでの記述に対する補足が述べられていきます。


この区分5については次回とし、今回はここまでで一区切りとさせていただきます。

また次回の更新までお待ちください。

以上、よろしくお願いします。



あとがき的なものとして今後の更新についてですが、言い回しの解説や内容について、もう少し解説を軽くして投稿頻度を上げていけたらなと考えています。
(このままでは一生かかってしまうかもしれないので…)
読まれている方が「補足が足りなくて結局わかんない…」となってしまっては本末転倒なので、理解できない点があればご指摘いただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。

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