フランスに歓迎された14歳の花嫁がたどった悲しい結末 - 王妃マリー・アントワネット
マリー・アントワネットはシェーンブルン宮殿で有名なハプスブルグ家マリア・テレジアの末娘。
生まれながらにして、王妃の地位が約束されていた女性。
当時ハプスブルグ家は「幸いなるオーストリア、汝は結婚せよ」と政略結婚で、まわりの国と関係を深めてました。
1770年、マリー・アントワネットは、14歳でフランス皇太子(後のルイ16世)と結婚。ヴェルサイユ宮殿にやって来ました。
まだあどけなさが残る顔立ち。その純粋無垢な美しさに、皇太子は一目で釘付け。
彼女はフランス語も話せ、完璧な礼儀作法と優雅な身のこなしは、父ルイ15世も感動させるほど。
若く美しい皇太子妃は、フランス中から歓迎されました。
マリー・アントワネットの第一印象は完璧でした。
しかし、宮殿生活が始まると風向きが変わりだします。
儀式や礼節でがんじがらめの生活。まだ十代だった彼女には、辛い生活だったのかもしれません。
宮殿を抜け出して、パリの歓楽街で夜遊び朝帰りもしばしば。
それでも、皇太子妃の頃はまだ大目に見てもらえました。
しかし、王妃になっても、彼女の贅沢と浪費は止まりませんでした。
国中に愛された花嫁でした。
でも、いつの間にか 浪費ばかりで責任を果たさない、国民にとって問題しかない王妃になってしまうことに。
遠く離れてオーストリアにいる母マリア・テレジアからも、心配する手紙が何度も。
それでも、マリー・アントワネットの生活は変わりませんでした。
結婚から7年後、待望の第一子を出産したマリー・アントワネット。
「世継ぎを生んで責任を果たしたので、これからは王妃としてではなく、一人の私として生きたい。」と彼女は言いました。
王妃としての責務をほぼ放棄。ルイ15世から贈られていた離宮「プチ・トリアノン」にこもってしまいます。
彼女は、当初この離宮でも浪費が続きます。
当時流行していたのが自然回帰の思想。
彼女は敷地内に小集落を建造。藁葺き屋根の農家や水車小屋など次々に造ります。
皮肉なことにここでの生活することで、王妃の心に変化が。
宮殿のきらびやかな生活より、プチ・トリアノンで子どもたちと、のんびり穏やかにすごすことを好むように。
贅沢や浪費もしなくなりました。
しかし、時は既に遅すぎたのです。
その日のパンにも困るほど国の財政がひっぱく。その責任は王妃マリー・アントワネットにあると国民は思ってしまうように。
国民の憎しみを払拭することが出来なくなってしまった王妃。
1789年 フランス革命が起きると、王妃は国王に続き、処刑されます。享年37歳。
たった14歳で親元から離れ、遠く知らない国にやって来た少女。寂しさもあったかも。
まわりに心許せる人がほとんどいない中での息のつまる宮殿生活。プレッシャーもあったのかもしれない。
国の財産を使っての浪費も贅沢も、もちろん許されることではありません。でも、悪気は無かったのかもしれません。
国民が困窮していることに対する無知。自分の置かれた立場に対する無自覚。
もう少し早く慎ましい生活に目覚めてたら、違った結果になってたのでしょうか。
マリー・アントワネットは、本当に処刑されなければならないほどの悪女だったのでしょうか?
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