🥇さま 34 サラエボ

157、著者(ジェラルディン・ブルックス)はノーベル賞受賞者のウォーレ・ショインカが好きらしい。

158、脳の組織の大半が死んで海綿状の塊でしかない状態で人工的な方法で体を生かし続ければ、四肢の拘縮がさらに進んで、床ずれとの闘いになる。肺や泌尿器の疾患をいつ起こしてもおかしくはない。

159、フォッグ美術館の警備は厳重で、入館許可証にはコンピュータ・チップらしきものが埋め込まれていて、訪問者の建物内での動きを追えるようになっているらしい。

160、稀少な顔料に、マンゴーの葉だけで育てた牛の尿から作るインディアンイエローという、やや緑がかった美しいその黄色の顔料があるが、インド統治時代のイギリス政府が厳格な食事制限は牛への拷問に等しいとして、製造を禁じた為に今は入手不可能になった。

161、古い分光分析装置に顕微鏡にサンプルを置いて、両側についたライトを調整して光がきちんとサンプルに当たるようにした後、10以上のスペクトルを検出するのに数時間はかかる。

162、全ての分子はさまざまな色のスペクトルを発する。物質によって青みを帯びる傾向があるもの、赤みを帯びるもの等色々で、分子のスペクトルはいわば指紋のようなもので、その物質が何であるかを突き止めるために利用出来る。

163、1996年時の最新式の分光分析装置は200ものスペクトルを1分足らずで検出出来たた。

164、コーシェル・ワインとは、ユダヤの戒律に即した過越しの祭のために用意したものである。

165、コーシェル・ワインは動物性のものの使用が禁じられている。昔ながらのワインの醸造過程では大抵の場合、清澄剤として卵白を使うから蛋白質の痕跡が分光測定で得られる。コーシェル・ワインは清澄剤として卵白の代わりに精製した粘土のようなものを使ってきた。

ヴェネツィア 1609年

166、『私は、神の祭壇に上ろう(イントロイボ・アド・アルタレ・デイ)』旧典礼のミサより

167、1609年時はヴェネツィア共和国の十人委員会の公安組織が重要な決定を下しており、ローマ教皇の名代である異端審問官のヴェネツィアの執務室は薄暗く内装はお粗末で、食料も乏しかった。つまり、公安組織がローマの手先は低い地位に置かれることを示していた。

168、ヴェネツィアで1番大きく深く響くわたる鐘はサン・マルコ広場だった。(1609年時今は不明)

169、サン・マルコ広場の鐘の音は職人に1日の仕事の始まりを告げ、更には近くのユダヤ人強制居住区の門が開く合図でもあった。(1609時)

170、神学は難解で抽象的なものである。

171、ローマ教皇シクストゥス5世は1589年にカトリック教義に反することが記されたユダヤやイスラムの書物を禁ずると宣言した。

In March 1589 Sixtus V extended the ban in his Index to "Books of the Jews" containing anything which might be construed as being against the Catholic Church.

https://www.jewishvirtuallibrary.org/censorship

172、ユダヤの書物でヘブライ語で『キリスト教徒のイエスへの崇拝は、イスラエル人の金の子牛の偶像崇拝より性質が悪い。キリスト教徒の過ちは、ある女の体に聖なる何かが宿ったと唱えている点である。穢れた場所……糞尿が溜まり、分泌物や血を放出し、男の子種を蓄える場所に』という冒涜的な文章が書かれた本もあり焚書に処され燃やされた。

173、ローマ教皇グレゴリウス13世は『私はヴェネツィアを除くあらゆる場所でローマ教皇である』と発言した。

Disputes as to the taxation of Church property, the right of the Pope to inspect the monasteries, the right of the Republic to try criminous clerics, exacerbated the situation until at length Gregory XIII. declared in 1581 that he would no longer consent to be Pope everywhere but in Venice, and sent his nuncio to make a visitation of the Venetian monasteries. The Republic refused permission, and the conflict called of the Interdetto began. But the fight between Italian Popes and Italian sovereigns, even in our own times, has generally been a comedy played for the mystification of Transalpine Powers and all ended in compromise. The Signory appointed the Bishop of Verona as the nuncio’s colleague, and persuaded itself that the nuncio went with the Bishop; the Pope satisfied his dignity by claiming that the Bishop went with the nuncio. In 1605 the Spanish party, ever the evil genius of the Sacred College, re-opened the quarrel.

Venice and Its Story CHAPTER XI

174、ヴェネツィアに住むユダヤ人の中にはスペインの異端審問が原因でスペインから追放された子孫がいた。その他、オランダ、ドイツ、そして東からやってきた者もいた。

175、ユダヤ教徒にとって、印刷はアヴォダ・ハコデシュ(聖なる労働)であり、ラビの中には印刷を祭壇に例える者もいた。ユダヤ教徒は印刷を『多くのペンで文字を書く』と言い、シナイ山でモーセが始めた神の言葉の伝道を更に広げるものと見なしていた。(1609年時)

176、2つの部分からなるタルムードは、バビロン捕囚以来のユダヤ人の思想を昇華させたものである。

177、タルムードの主を成すミシュナは当時救いようがなかったが、ゲマラはミシュナに付け加えられた律法学者たちによる解説で、様々な見解や異議がおさめられている。


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