🥇さま 29 サラエボ

60、古書保存修繕専門家からしたら釈然としないアンティーク詐欺的みたいなものに見えるものがある。例えば、蒐集家が趣味で美術品を集めている米石油王とかに、祈禱書でおそらくは時禱書の一部と考えられる綴じの部分から出てきた羽根ペンの僅かな削りかすが発見された書物つま各聖人に捧げたとりなしの祈りが記された書物を1425年頃にパリで活躍した『ベッドフォードの巨匠』と呼ばれる細密画家によって書かれたものもあるという鑑定書付きのものを売ろうとしたりするが、通常羽根ペンの削りかすから何かがわかることはまずない。実際にそれは複製品であった。(1600年代に作られたものを蒐集家も本物としてひと財産になるお金で石油王に売ろうとする。)

61、通常羽根ペンの削りかすから何かがわかることはましがないのは、羽根ペンに珍しい鳥の羽を使う必要などないからである。

62、専門家からしたら中世のヨーロッパをダチョウの羽根ペンを使用する映画は失笑物であり、中世ヨーロッパをダチョウの大群が闊歩しているわけがなく、物を書く時には羽根をほぼ削ぎ落として、一本の棒なような状態にして書く。なぜならば綿毛などが飛んで文字を書くのに邪魔になるからである。

63、オーストラリアの先住民アボリジニはラスコーで人類が初めて絵筆を手にして何を描こうか思い悩むより遥か以前の3万年ほど前から、住居である洞穴の壁に洗練された絵を描き続けていた。

64、1960〜1970年代にユーゴスラビア人は旧世界の因縁を新大陸にまでしつこく持ち込んだ唯一の移民グループだった。それ以外の移民グループは昔の遺恨を綺麗さっぱり忘れてくれたが、セルビア人とクロアチア人だけは旧世界を引きずってお互いのサッカークラブに爆弾を投げ合って、クーバーピーティーといった地の果ての町、地下で暮らす町でも激しく攻撃しあった。

65、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時、ネオ・ルネサンス様式の大統領官邸はセルビア人の格好の標的だった。

66、1995年のクリスマスには通常の深夜のミサは、安全の為に昼の12時に行われた。

67、シナゴーク、モスク、正教会は全てが100メートル以内に位置して標的を狙い撃ちにするにはもってこいの場所だから、礼拝に行く人はいなかった。

68、サラエボ・ハガダーは1894年に発行された1枚の領収書により、コーヘンという姓のユダヤ人がサラエボの博物館に本を売ったことが領収書により分かっている。しかし、売り主に質問した人がいなかったらしく、また第二次世界大戦が勃発しサラエボに済むユダヤ人の3分の2が殺され、ユダヤ人居住区が略奪されると、この街にコーヘンという姓の者は残っていなかった。

69、第二次世界大戦中にイスラム教徒の学芸員がこの本をナチから救ったが、どんな手段を使ったのか分かっていることは少なく矛盾点も多い。

70、通常古書の保存修復作業に全てのページを写真に収めて書物の現状を正確に記録する。更に、保存修復作業が終了して製本し直す前にも、もう一度全てのページを写真に撮る。普通は専門のカメラマンが撮影を行う。

71、サラエボ・ハガダーが作られた当時、中世の暗黒時代にあってイスラム教の巨大な帝国は黄金期を迎え、キリスト教徒によってユダヤ人は拷問され処刑されていた。

72、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時包囲されている時は肉なんかなくその辺で摘んだ雑草スープを食べていたが、包囲の間もビールは手に入った。醸造所は1度も閉鎖されなかったからである。

73、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の直前まではオーストラリア人やアメリカ人が大勢やっていた。1日に5組くらいで、自分の祖先のルーツを調べにきてアメリカのテレビドラマの黒人の何ちなんで『クンタ・キンテ』と呼ばれた。

74、クンタ・キンテは1941年から1945年の官僚を見たがったけど、パルチザンの祖先を探しているわけではなかった。クンタ・キンテは自分の祖先は狂信的な民族主義者に違いないと決めつけていた。

75、クンタ・キンテはチェトニク(セルビアの民族主義団体員。第二次世界大戦中には枢軸国の侵入に抵抗すると同時に、チトー率いるパルチザンと対立した)にしろウスタシャ(アンテ・パヴェリッチが組織した民族主義グループ。のちにパヴェリッチは傀儡国家『クロアチア独立国』の指導者となり、セルビア人やユダヤ人の大量虐殺を行った。)にしろ、第二次世界大戦中の虐殺者にいたと考えていた。

76、紛争とかでは博物館は宝探しのターゲットである為、職員は隠すのが大変。

77、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争なんか起こるわけないと昔の人は楽観視して、他国の戦争を見ても、うちは問題が起きるわけないと思っていた。

78、ボスニア・ヘルツェゴビナのリーダーは当時『2つの意見がなければ戦争にはならない。故に我々が戦うことはない』と言っていた。

79、紛争が始まって10代の若者がピクニック気分で、プラカードを持って、音楽を掛けながら反戦デモを行った。10人くらいの若者が狙撃手に撃たれた。

80、イグマン山は冬季オリンピックではボブスレー会場になったが、その後セルビア人が強力なライフルと照準器を持ち込んで、ここを狙撃手用の塹壕だらけにした。

81、イグマン山には地雷がまだ山ほど埋まっている。(1996年時)

82、サラエボには紛争時、小児専門の脳神経外科医はもちろん、脳神経外科外科医そのものさえいなかった。なので、脳の損傷でも普通の外科医が手を尽くす。

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