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🌾 ヒンメリが生まれ、育まれる場所 vol.6 ヒンメリを救え!

ヒンメリを作っている人、ヒンメリに魅了されている人の声を紹介することで、ヒンメリの文化的な側面を考える「ヒンメリが生まれ、育まれる場所プロジェクト」。

第6回は引き続き、2018年12月に PÄIVÄN LEHTI が公開した記事を翻訳します。ヒンメリ研究者のオスカリ・キイスキさん、ヒンメリストのエイヤ・コスキさんの資料を引用している内容をご紹介します。

ヒンメリの歴史を紐解く


ヒンメリは古代北欧の装飾品です。しかしながら、その起源は1150年代から1500年代の中央ヨーロッパにみられます。フィンランドへはスウェーデンを経由して流れ着きました。ヒンメリは、はじめに、フィンランド南西部の居住エリアに上陸し、そこから(東は)カレリア地方まで、(北は)オウルの辺りまで広がりました。ヒンメリがスウェーデンからやってきたように、Himmeli というフィンランド語の名前も、スウェーデン語で〈 天 〉を表すHimmel に由来します。

ヒンメリは収穫後に作られました。クリスマスイブには、きれいに掃除した部屋に運ばれ、テーブルの上に吊るされました。農夫が用いる飾りは、次のユハンヌス(夏至祭)まで居間に置かれます。その後は焼却され、秋の収穫後にもう一度新しいヒンメリが作られました。ヒンメリは単なる装飾ではありませんでした。豊作の年を保証し、ヒンメリが大きければ、それだけ農作物の実りも豊かになると信じられていました。

キリスト教のクリスマスの伝統において、ヒンメリはキリストの冠になり神化されました。[※ ここの翻訳は自信がありません]
ヒンメリのロールモデルは、教会のキャンドルシャンデリア(kunttiläkruunu)だったかもしれません。

その昔、ヒンメリ作りを担ったのは(村の)若者でした。クリスマスまでの間、主に女の子たちに任された仕事だったのです。ヒンメリの作り方は口頭伝承で、世代を超えて伝えられました。(村の若者たちは)毎週土曜日の夕方にヒンメリを作るために温かいサウナへ集まりました。サウナの湿度と温度が麦わらを扱いやすくしてくれたからです。男の子たちもしばしば仕事に参加しました。そのため、ヒンメリづくりには、村の若い男女を引き合わせるという一面もありました。

ヒンメリはかつては、花穂や鏡の欠片、卵の殻、裂いた紙切れ、さらにはキャンドルなどで飾られていました。このように装飾されたヒンメリはしばしば結婚式で用いられました。1800年代の終わりにはクリスマスツリーがヒンメリにとって代わられました。

ヒンメリの伝統が消滅することを心配し、ある女性団体が1930年から1940年代にかけて奮闘しました。彼らは(それまで口頭で伝承されていた)ヒンメリの作り方を記録し、一般に公開することで古い伝統を呼び起こそうとしたのです。

彼らが公開した指南書に、(花穂や卵の殻などの)飾りは使われていません。そのため、私たちの身近で親しまれているヒンメリは麦わらで作られているのです。

2018年12月  PÄIVÄN LEHTI


かたちが変わっても
文化は残る



ここにきて、まさかの、ヒンメリ第2形態説に胸が躍ります。フィンランドの国立古代委員会のアーカイブからいわゆる「初期型」の写真を見つけることができました。著作権を調べてみて、リンクを貼っても大丈夫なことがわかったら、のちほどこの記事に写真を追加しようと思います。

クリスマスツリーが「漂着」したことで、絶滅の危機に瀕したヒンメリ。マルッタ協会が懸命に復活の道を探しました。1936年、彼らは新聞でヒンメリや昔ながらの藁飾りを作るよう各家庭に呼びかけたのだそうです。この件で意見交換をしたフィンランドの方は「マルッタの救済活動」という呼び方をしていて、面白い表現だなと思いました。

他の国ではこのような「救済活動」は起こらなかったと考えられています。だからこそ、何年にもわたってヒンメリは、フィンランド独自の伝統的な手工芸として語られるようになったのでしょう。

キリスト教との関連については誤訳があるかもしれません。この件はもう少し勉強します。

次回に続きます。

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