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人生を変えた本は全部図書館で出会った

大学生のとき、県立図書館が自転車で10分くらいの距離にあって長期休みなんかはひたすら通っていた。
当時、私はいろいろとぼろぼろで、別れ話はこじれるし、好きな人にはふられるし、親は離婚して仕送り止まるし、先輩とは険悪だし
とにかく何か「変化」が欲しかった。現実逃避したかった。

図書館は、なんか浮世離れしている場所だ、と思う。

お金がからまない。
誰もしゃべっていない。
いっぱい人がいるのに、みんな自分の世界にいる。
目が合うことがない。合わせなくても何も困らない。

本屋さんみたいに「売れてます!」「全人類感動の一冊」みたいなポップもなく、色鮮やかな表紙も見れず、淡々と背表紙を見る。
文字と、言葉とだけ、向き合う時間。

それが、現実を忘れるのにちょうどよかったんだろう。

そこで私はいわゆる「人生を変える本」に出会った。

一冊は前田司郎氏の「恋愛の解体と北区の滅亡」。

表題作も、劇的なSFの世界観を驚くほど何もない日常をもって描いた名作なのだが、衝撃を受けたのは収録されていた短編「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」だった。
その後「世にも奇妙な物語」で映像化されたらしいので知っている人もいるかもしれない。
文字通り、ウンコの、とても切ない、よくある、でも非現実的な話。
私はこれを読んだときに頭を殴られたみたいにうちのめされて
「あ、私小説書くのやめよう。」
と思ったのだった。それくらい「何となく私が描きたかったもの」を私をはるかに超える解像度で文章にされてしまった気がした。
要は「もう私が書けることってないじゃん」と思ったのだった。

さらに追い打ちをかけたのが本谷由紀子氏の「ぜつぼう」である。

絶望しようとしても、日常はそこにあって、死なない限り何も終わらなくて、ちょっと笑えることや心温まることなんかも混ざってしまって、どうやったって悲劇になりきれない。
これも、散々つらいことがあった当時、私が書きたかったことだった。
失恋して「もう死んでしまいたい」と思いながら帰ってきても
次の日の朝には冷凍ご飯をチンしたりしちゃっているもの悲しさ。
人間の図太さ故の悲しみが、私が書こうとしていたよりもずっと生々しく、実感を伴ってそこにあった。

私が書きたいことを私よりもはるかに書きたい形で書ける人が
2人もいるのなら、もう小説家になるのは無理だ、と思った。

同時に、私まだ小説家になりたかったんだな、とも。

自分で理系目指して、浪人までして旧帝大の農学部に入って、それでも文章を書く仕事を目指していたのがびっくりだった。この文章への執着が思ったよりもずっと深いのは私の今の職業を知っての通りだ。

あれからもう15年以上経って、私もいろいろな経験を積んで
もしかしたら小説を書けるかもなぁと思うこともないわけじゃない。
でもきっとそれは、今の私があまり小説を読んでないからで、
きっと私よりももっと上手に書く人はたくさんいるんだろう。
ホントはいつだってそういう人はずっといて、
出会えるか出会えないかで人生が変わるのかもしれない。

ただ多分本屋さんではそういう本に出会えない。
あんなふうにじぃっと、背表紙だけと向き合うことはないから。
華やかに平積みにされた表紙は夢にあふれている。
良い意味でも悪い意味でも
私自身にがつんと響く埋もれた本を見つけられない。

今日図書館で娘たちの本を探しながら
「この本が娘の人生を変えてしまうかもしれないな」と思った。
そう思うと何だか緊張して、いつも1時間くらいかかってしまう。

でも多分、娘たちの人生を変える本は彼女たち自身が一人で図書館に行ったときに見つけるんじゃないのかな?
親である私にできるのは、
せいぜい図書館にいくというその選択肢を身近にしてあげることくらい。
目をそらしたいとき、何か見つけたいときに、
傷つきたくないときに、心を揺さぶられたいときに
図書館に行こう、って思いついてくれるといいなぁ。

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