蒼のノスタルジア :1

南口からエスカレーターを上がると、左手に在来線の改札が見える。

数年前にリニューアルした広島駅の姿に、朝日花は少しだけまだ慣れない。ずっと工事中だった頃や、それよりも以前の駅の様子が、時々うっすらと記憶をかすめるけれど、もういくらもしないうちにそれも消えていってしまうのだろう。


「朝日花」

心臓が跳ね上がる。
8年前と、変わらない声。

いつの間にか自分の前に立っていた声の主を、朝日花は何も言葉を発することができずに見つめた。

さらさらと午前の光を受ける黒い髪。長い睫毛。朝日花の記憶の中の姿よりも背が高い。着ているシャツは、いつかデパートで見かけた仕立てのいいあの白いシャツ。長く伸びた足を深い紺色のジーンズが包む。
そして、瞳。初夏の青空を、夏の遠い海を映し込んだかのような、青い瞳。彼の名前の由来となった、吸い込まれるように美しい、青。何ひとつ変わらない、あの青の色。

「…蒼介、よね」

思わず尋ねたけれど、あの瞳の色を、忘れるはずがない。
生まれた頃からずっと、隣同士の家で育ってきた、まるで兄弟のような幼馴染。

蒼介。
蒼介。
蒼介、だ。

「そうだよ。8年も経ったら、忘れちゃった?」
屈託なく、蒼介は笑う。どんなに怒っていた人間もその振り上げた拳を下ろした、あの笑顔。彼の母親も、そっくり同じ顔で笑っていた。
懐かしい笑顔。もう、失われてしまった、失われてしまったと思っていた、風景。

涙が瞳を支配しそうになるのを、唇を噛んで朝日花はこらえる。

「忘れるわけないでしょ。もう、全然変わってないんだから」
それだけ言い捨てて、券売機の方へ向かう。蒼介に背中を見せると、急いで涙を拭いた。

「切符、買うの?」
にこにこと後ろをついてくる蒼介に、朝日花は呆れたように答える。
「当たり前でしょ。どうやって電車に乗るのよ」
「ねえ、朝日花」
蒼介はにこにこしている。
「…財布、忘れたんでしょ?」
券売機を操作しながら、朝日花はじとっと蒼介を横目で見た。
「えへへへ、よくわかったね」
「そんなことだろうと思ってたから」
ため息をついてはいるが、既に切符の枚数を「2枚」で朝日花は操作を進めている。

蒼介は、間が抜けていた。シャツを裏返しに着ていたり、ランドセルを忘れてきたり、何かひとつは「やらかして」いた。それを怒りながら面倒を見るのが、朝日花の役目だった。蒼介の両親が死んでからは、半ば自分の使命のように思っていた。
よく何もないところで転んでは大泣きして、自分の手に引かれて幼稚園や小学校に通っていた蒼介の姿を、朝日花は昨日のことのように思い出す。朝日花には、それが当たり前で、日常だった。
蒼介がシャツのボタンをかけ違えてもいないし、左右で別々の靴や靴下を履いてもいないし、寝癖もついていない時点で、財布を忘れたに違いないと、朝日花には容易に予測がついたのである。


そう、私は、「こうなること」を、知っていた。


「もう、ここまでどうやって来たのよ、財布ないのに」
「うんっとね、バス停であわあわしてたらちょうど駅に用事があるっていう人が車に乗せてくれた」
「えー?!もう、しっかりしてよね。大人なんだから」
切符を渡しながら、さすがの朝日花も呆れた声を出す。背ばかり伸びて、中身はちっとも変わってないんだから。

電光掲示板を見上げて、岡山方面行きの電車の出発時刻と出発ホームを確かめてから、朝日花は改札を通った。近くにプロ野球の球団の本拠地を構える駅の改札は、球団のカラーと同じ色をしている。

「駅、ずいぶん綺麗になったんだね」
きょろきょろしながら、蒼介が朝日花に続く。

「今年は飾らないのかな、赤い金魚。いっぱいいたの、かわいかった」
金魚ちょうちんがいくつもいくつも、ゆらゆらと赤く揺れる連絡通路の姿が、ぼんやりと記憶の彼方で像を結ぶ。朝日花もあの光景は、好きだった。夏休みに柳井まで出向いて、金魚ちょうちんを買いに行ったことを思い出す。手に手に提げた金魚にはしゃぐ、蒼介と、朝日花と、僚平の3人の姿が夏の陽炎のように、ゆっくりと瞼の裏で揺れる。

「まだ、少し早いわよ。今年も飾るのかどうかは、わからないけど」
そうか、そうだよね、と呟いて朝日花から視線を駅構内に戻した蒼介が、わあっと歓声を上げる。
「ねえねえ、改札の中にお店がいっぱいある!お土産とか売ってる!」
蒼介が次に何を言うか、予想のついた朝日花は、次の便の出発時刻はいつだっけ、と電光掲示板を振り返る。

「おなかすいた!」
「…言うと思ったわよ」

やれやれと、目を輝かせている蒼介を見つめる朝日花の口元が、少しだけ緩んだ。

本当に、何も変わっていないんだから。
こんな変な人、蒼介しかいないわよ。

何が欲しいのよ、と呆れた顔に戻った朝日花は、うきうきと歩いていく蒼介を追いかけた。


第2回に続く



※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、地名等とは一切関係ありません。


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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は原則月・水・金曜日(たまに日曜日)。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。

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