「連続すること」の魅(魔?)力
これで37日連続投稿、だそうだ。記事の数は90通くらい。
うーむ、だけどね、なんだか、辛くなってきた。というか、毎日つまらん空振りを繰り返している感じがしている。毎日素振り1000回!っていうのには、数を打って鍛錬するという意味もあるけれど、癖のチェックや新しい動きを取り入れるような意味もあって、ただ振り回していればいいというものでもないだろう。
私のは、なんかほんとにただ回数を振り回すだけの、本当に「空」振りな気がする。それを何日繰り返したところで、大した意味などない。自己満足のみ。
続けると言うことの意味はある。連続ということの貴重さは、戻すということのできない「時間」の流れの中でだけ得ることができる「希少さ」にあるのだろう。ここで止めたら、すぐには回復できないという「惜しい」感じ。すぐには手に入らない、けれど、容易に手をはなれてしまうもの…そこにたまらない魅力を感じるのだと思う。
積み重ねることで生まれる「成長」に、「時間」というワックスがかかるのだから美しさは半端ない。
中断したって、またすぐ開始すればいいのだから、考えてみればそれほど大事なことでもない気はするけれど、中断から再開ということにまた膨大なエネルギーを必要とすることを(そして大概の場合、再開などはされないことを)知っているから、やはり継続、連続、というのは魅力的なのだ。
さて。今、私はそれと戦っている。
文章を書くことをとても蔑ろにしている気がしてならない。書き飛ばす、なんか文字にしてアップする、適当に、そんな感じで毎日毎日。とりあえず書く。アップする。終わり。また明日。
これではいけない。noteに書く、書かなければ、大した作品が書けない…それ自体がもはやストレスだ。
やめてしまうべきではなかろうか。連続性に価値を見出しているのは私自身だ。一緒にそれを待つ読者などいない。自分のこだわりに過ぎないことで苦しむのは愚かしい。もっと自分の心や文章を大切に扱うべきではないのか。
逃げるのではない、休むのはどうだろう。必要なことだ。
ほらほら、きたぞ、と言うナカノヒトの声も聞こえる。
辛くなってきたのね、逃げちゃいなさい、やめちゃいなさいよ。得意じゃないの、それ。また、始めればいいものね。たぶんやらないけどw;; そしてどこかでいつか目にする「〇〇さん、毎日3年間書き続けてすばらしい」「並大抵の努力じゃない」の評価。そしてそこできっというはず「なんてアホらしい!稚拙なものを続けたからって少しもえらくなんかないわ」。悔しくて仕方ないくせに…私だって;;
続けようとすることは、こだわり か とらわれか
続けないという判断は、逃げ か 休息か
ああ、そこで思い出したけど、まきちゃんがいいこと言ってたな。「歩くことに飽きさえしなければ…」続けることが目標なんじゃないってことだった。歩くこと(ここでは書くこと)がつまんないと思わないんだったら、まあ続けたらいいんじゃん?ってことだ。
ふむ。
あといくつかで記事数が100を超える。そしたらまたもう一度考えてみようかな、とまた結論をだすことを先延ばしする。
空振りは続くってことか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?