見出し画像

豊かさとは、〇〇〇が多いこと

はじめに

自分の言葉で文章を書いてみたいと思っていた。
だが、どのツールがいいのかわからず3週間。
決め手になったのが、「#ゆたかさって何だろう」コンテストだった。
このテーマについて書きたい。だからnoteで、自分の文章を書こうと思った。

豊かさの歴史と私

豊という漢字の成り立ちを調べてみた。
リンク先によれば、食物を盛る器や、そこに豊富な穀物が盛られているようすを表す象形文字のようだ。
確かに、食べ物がたくさんあることは、豊かさのベースだろう。
十分に食べられなければ、精神的にも殺伐としてくるし、それが争いをうみだし、死者が増えるだけだ。

TOTO出版の『地球の食卓 世界24か国の家族のごはん』という本をご存じだろうか。
この本では、世界24か国の家族それぞれの1週間分の食材と家族全員が1枚の写真におさめられている。
その中に、アフリカ西部のマリに住む「ナトモさん一家」が登場する。
15人家族と、本に出てくる家族の中では大家族でありながら、食材は1週間で3000円程度。そして、「好物とは考えたこともない」という言葉。
このような状況であれば、食料がたくさんあること、選べることは豊かさであるかもしれない。

けど、飽食の日本で生まれ育った私に、すでにその概念はない。
食べ物は選択肢がたくさんあることが当たり前で、好きなもの・嫌いもの・そのとき何が食べたいかを考えて、選ぶことができる。
ここでは、食べ物が豊富にあることだけ、というのは豊かさからは外そう。
では、お金が豊富にあることだったら?

豊かなお金と私

残念ながら、名家の生まれでもなく、抜群のエリートでもない私は、豊かなお金を持ったことがないので、想像の範囲でしかない部分もあることを、まず謝罪する。

そもそも実家は貧乏で、我慢することのほうが多かったように思う。
ほしいお菓子、やりたい習い事、かわいい新品の洋服、自分の部屋。
微細なことから大きなことまで、我慢した。
言ったところで、なにもかわらないからだ。

そんな私が進学した高校は、超進学校だった。
学年の半分以上は、大学付属中や私立中などからの進学ということは知っていた。けど、同級生の実情は、私の想像を遥かに超えていた。

洋服がブランドものなのは当たり前。ハイブランドのリュックを普段使いしていたり、10万円のパンツをスポーツイベントに履いていたり。
うらやましいと思う隙さえなかった。私の気持ちは打ち砕かれた。
(みんな人柄がよく、一生の友達がたくさんできたので、進学したことは後悔していない)

生活にかかわることなんて小さなことだった。
もっと私を打ち砕いたのは、大学受験のことだ。
みんな受験料の高い私学をバンバン受ける。交通費・宿泊料の必要な遠方の大学をバンバン受ける。そして、授業料の高い私学を、第一志望にできる。奨学金の心配などせずに。そして、平気で東京に下宿を借りる。

私はというと、家から通える国立。そんな大学は一つしかない。
同級生の大多数が志望する大学から、レベルは離れている。
そこに行くんだったら、超進学校に行く必要なんてなかったのだ。
結局、経済的理由をはねのける力もなく、その大学に進学した。
(おかげさまで成績はかなり良かったし、そのゆとりを利用してたくさん本を読めたので、その大学にいったことも後悔していない)

そのまた結局、たくさん本を読んだ甲斐もむなしく、またもや経済的理由をはねのけられず、「女の子なんだからそこまで勉強しなくても」という呪いの言葉とともに、院進学を諦め、就職した。
(就職先では、大学では学べない格差や、医療の現場を知ることができた。就職したことも後悔はしていない)

最初の就職先ではワーキングプアのようなもので、なけなしのお金しか貯められなかった。それを元手に転職し、上京した。
最初に住んだマンションは、首都高の目の前で、常に微弱にゆれ、テレビの電波が悪くて入らない、うるさくて空気が汚い。良いところは、立地にしては家賃が安くて、浴室乾燥があったくらいか。
(新しい会社では、超進学校の同級生のようなひとたちとまた同僚になったのだが、楽しく仕事をできているので、後悔はしていない)

たぶんお金がたくさんあったら、私のここまでの葛藤ややりたかったことはすべて解決できる。
だからといって、お金がたくさんあることが豊かさに直結するのか?
お金と豊かさの間にも、もうひとステップあるはずだ。

豊かさとは〇〇〇が多いこと

私はいま、事実婚をしている。
それは、夫婦別姓で婚姻届という選択肢がないからだ。
私たち夫婦は、夫婦別姓でもOKとなったら、すぐに届を出すだろう。そのほうが、相続などで苦労しなくて良い道がひらける。

食べ物を毎日選べるということ。
それは食べるものがたくさんあって、選択肢がたくさんあるからだ。
財布の中身をみて、食べたいものを買うことができるという選択が可能だということも。

私が、持ち物や進路選択で叶わなかったこと。
それは、経済的な理由で、選択肢が絶たれたからだ。
奨学金は借金だからと、借りることは許されなかった。奨学金を借りて、進学するという道は私にはなかったのだ。

不本意とはいえ、国立大学に楽に進学できたこと。
それは、私の学力の選択肢の中に入っていたからだ。
私立や遠方の大学をいれれば、選択肢は数多くの大学があった。けどそれらを選べる状況ではなかった。道は一本だった。

すなわち、豊かさとは、選択肢が多いことではないか。
ここまでは、私に紐づくたとえばかりだったが、もっと抽象的に、美しく置き換えてたとえてみよう。

ボキャブラリーの豊かな人は、選択肢を駆使し、面白い文章を書き、その文章で人の心に寄り添うことができる。
声の表現が豊かな人は、お芝居の世界や、歌の世界で活躍し、人の心を励ましたり、勇気づけたりできる。
豊かな知識を持つ人は、その知識を駆使し、企業や研究機関などで活躍し、未来を形作っていく。
豊かな体力を持つ人は、その体力と身体的技能を使って、私たちの生活に欠かせないインフラの構築に一役買っている。

だれしも豊かな部分があって、その部分に、選択肢が広がる。
選んだ選択肢の中で、研鑽をつみ、また、道をひろげていくのだ。

だから、私は、もっと豊かな自分になりたい。
人としても、仕事についても、金銭面についても。
最後の金銭面は、不要だという人も、品がない人と思うもいるだろう。
けど、私は知っている。私のやりたいことを実現するために、ほしいものを買うために、そして、夫と豊かな生活をするために、経済力が選択肢を広げてくれるということを。
自分がお金で苦しんできたから、せめて、夫との暮らしにおいては、経済的なことでなるべく道を狭めたくない。それは無駄遣いをすることではない。自分がどうしてもやりたいことを、やらずに後悔したくないからだ。
たとえば、ウェディングフォト。私は、4着(白ドレス、カラードレス、白無垢、色打掛)を着た。オプション代は、もちろん自腹で。私たちは事実婚ということもあり、結婚式や披露宴の実施は未定だ。パーティをやれなくても後悔しないよう、思い切り婚礼衣装を着たのだ。

そして、社会もどんどん豊かになっていってほしい。
選択肢を広げることを、恐れない社会であってほしい。
「みんな同じ」は、誰かが我慢する。誰かが取り残されている。
誰も取り残さない社会になるためには、選択肢がたくさんあることだ。

まず、自然の豊かさ、都市の豊かさは、私たちに居住や娯楽、癒しの選択肢を与えてくれる。旅行に行って、自分のところにない景観や気候風土を味わうのが大好きという人は多いだろう。先祖伝来の土地などにこだわらず、自分の心地よさにあわせて、もっと柔軟に移動していけばよい。

学校に行きたくないなら、ホームスクーリングの選択肢があればよい。コロナ禍で、映像授業や家庭学習の下地ができつつある。その工夫を、収束してすぐ無くしてしまうのはもったいない。これからも発展させよう、続けよう。

制服だって、もっと自由に選べるようにすればいい。ズボンだってスカートだって、いいじゃないか。セーラー服もブレザーも、自分の着心地の良いもの、自分の着たいものを着ればいい。自分の意に沿わないからと言って、他人を否定する権利はない。

結婚だって、同性でも異性でも、同姓でも別姓でもいいじゃないか。自分たちが歩んだ道が唯一の正しい形だなんて、なんて傲慢なんだ。世帯の在り方もふくめ、そろそろ再検討してもいいんじゃないか。

仕事だって、大多数の企業で、いつも全社員がひとつのオフィスにいる必要があるのか?テレワークがもっと柔軟にできれば、住む場所にもこだわらず、満員電車に乗らなくてもいい。そうするうちに、満員電車だって解消されて、車いすや子連れの方も乗りやすい、本来の公共交通機関に戻るのではないか。

出産だって、無痛分娩・和通分娩がもっと広まってもいいだろう。だれも痛いのは、怖い・つらい。おなかを痛めないと愛情がうまれないなんて幻想だってことはみんな知っているのに、言い続けている。デマを流し続けているのと同じじゃないか。

子供をもつこと、そしてその育て方は、それぞれが選ぶものだ。「産めるのに産まないなんてありえない」「保育園はかわいそう」、全部全部、雑音だ。できることを、できる範囲で取捨選択し、それで幸せならいいじゃないか。

そして死ぬとき。病の苦しみから抜け出すことが難しい場合などは、安楽死の手段があっても良いのではないか。自分らしく死にたい、みんなにお礼が言えるうちに死にたいと思うことは悪くない。
この考えは、自殺やその幇助を肯定するものではないことを付け加えておく。

選択肢を広げるためには、否定と批判の違いを理解したうえで、自分たちの意見を発信する必要がある。
方向性が間違っていると思ったら、その何が自分にとって間違っているのか精査して、理性的かつ冷静に批判しよう。けど、それがその人の人格を否定したり、変えられない事実を嘲笑したりなどにつながってはいけない。そもそも人格否定につながることは、意見でもなんでもない。ただのいちゃもんだ。悪口だ。その違いを理解していない人が多い。
「政府のやっていることが気に食わないなら自分が国会議員になれ」という人がいるが、そもそも政府のやっていることに従順になり、ありがたがるのが国民の仕事ではないだろう。そんな時代ではない。
選択肢を広げるために、私は自分の意見をいうことを恐れない。
そうじゃないと、私の望む道は、ひらけないからだ。

最近、お笑いコンビ「ぺこぱ」の否定しない漫才が流行っている。
その否定しないというムーブメントが、社会全体に広がること。
そして、誰も取り残さない、選択肢が多い社会となることを期待している。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?