【小説】『ココアのお客さん』
寒くなってきた。
乾燥した手で扱って、手が滑った。またコーヒーカップを割る。
がちゃん。
有名な陶芸作家の一点物。
「扱う時は、棚の上の方にあるし、気をつけてやってね」
あんなに言われたのに、もう三個目。
すぐさま、尖ったさつきさんの声が飛んできた。
「花園さん、なにしてるの!」
いつもは、はなちゃんとか、はなぞのちゃんとか気ままに呼んでくるのに、お怒りモードの時は、容赦がない。
「今月に入ってもう何個目? このカップ一個いくらだと思ってるの?」
「すみません」
さつきさんは、立板に水の勢いでまくし立てる。私は平身低頭で、「すみません」と「申し訳ありません」を繰り返す。
さつきさんは、普段から気持ちのアップダウンが大きくて、優しい時と厳しい時の落差が大きい。どうやって付き合っていいのかよく分からない人だ。年の頃は私のお母さんと同じくらい。実際息子さんは私とふたつしか違わないようだ。
仕事ができるバイトの子たちにはへこへこして、新入りで、仕事のできないみそっかすな私には、持ち上げて落とす、落としては持ち上げてと、態度をコロコロ変える。
ようするに、私はさつきさんに日々振り回されている。
付き合っていて、とても消耗する。
さつきさんは、このカフェのパートさんで、バイトの子たちよりも一応立場は上らしい。
仕組みをよく知らないけど。
カップの破片を片付けていると、隣に立っていたさつきさんが言う。
「花園さん、学歴嘘ついてるんじゃないの」
「え?」
「だって、仕事全然覚えないし。あの学校出てるんだったら、ここの仕事くらい、ちょちょいのちょいでやるでしょ」
確かに私はこの地区で一番偏差値の高い高校を卒業したけど、仕事と学歴関係ある?
「あなたより、馬鹿な子たちの方がよっぽど仕事ができるって、どうなの? 恥ずかしくないの?」
私はなんとも言えなくて俯いた。
馬鹿な子たちって、そんなふうに他のバイトの子たちを見てたんだ。
恥ずかしくないの? って、いつまでも仕事ができない、覚えられない私はその点ではとても恥ずかしいけど、それは他の人と比べてどうとかじゃなくて……。
「すみませーん」
レジの影でこんなおこごとをもらっているあいだに、お客さんが来たらしい。
他のバイトの子たちは、さつきさんの面倒なネチネチを疎んで、バックヤードに逃げてしまったようだ。
どうせバックヤードでも、程度の差こそあれ、私の失敗を笑いあっているんだろうけど。
「ホットココア一つ」
「はぁい!」
さつきさんが、脳天に抜けるような声で返事をして、私をつつく。
「早く行って! グズグズしないの!」
グズグズしたいわけじゃない。
私はココアの準備をして、ココアを転んでぶちまけるという失粗相をしないよう、熱々のココアをそろりそろりとお盆に載せてお客さんの元へ運ぶ。
「お待たせしました。ホットココアです」
「ありがとう」
ホットココアのお客さんは、還暦を過ぎたあたりのおじさんだった。髪の毛は見事に禿げ上がり、U字型に残った毛もごま塩というか、全体にグレーがかっている。
くたびれ気味の緑色のポロシャツを着て、ベージュのスラックスでもパンツでもなく、ズボンを履いていた。
「僕みたいなおじさんなら、普通コーヒーでしょって思ったんじゃない?」
お客さんはココアを、「あちあち」と言いながら受け取り、言い訳するように言った。
「この歳になっても、コーヒーの旨みが分からないんだよねぇ。この店は、ココアがとってもおいしいから、よく来るんだ。君は新人さん?」
「あ、はい」
「ココア、いただくね」
何となく立ち去るタイミングを逃してしまい、お客さんがココアを飲むのを見守ることになる。
「はい、どうぞ」
お客さんは、そっとカップを両手に持って、静かにココアを飲んだ。
一口飲んで頷くと、紙ナプキンで口元を拭い、お客さんは私を見上げて柔らかな笑みを浮かべた。
「おいしいよ。ありがとう。今日はよく冷えるから、ココアがいつもよりおいしい」
お客さんは、ふとレジの方を見やって、さつきさんを探すような素振りを見せた。
お客さんの視線を追いかけるようにすると、さつきさんはレジ横からは消えていて、どうやら割れたカップの後始末をしているようだった。それか、店長に私の顛末を報告に行ったか。気持ちが暗くなる。
「ここの新人さんはよく辞めちゃうんだよ。君はまだ入りたて?」
何が言いたいのかと戸惑いながら、私は頷く。
「まあ、人生は長いから。ここがダメでも他があるし、大丈夫だから。……大きなお世話だとは思うけどね」
ココアをまた一口飲み、ふうとお客さんはため息をつく。ココアの甘い匂いがふあんと漂う。
「ココアおいしかった。引き止めちゃってごめんね。コーヒーカップの一個くらい何さと思ってさ、お疲れさま」
バイバイとお客さんは私に手を振った。
私は、マニュアル通りに一礼して、お客さんに背を向ける。
レジ横に戻ってしばらくすると、さつきさんが戻ってきて、あのお客さんを指さし嫌な笑みを浮かべた。
「あの人、なんか言ったでしょ」
私はさつきさんの表情が、お客さんに明らかに好意的なものでないので、どうしようかと思いつつ、曖昧に頷く。
「いるのよね。よその職場をわかったようなこと言って、観察するオジサン」
さつきさんは、手近なダスターでカウンターを拭く。
コーヒーのシミが木目調のカウンターに付いていて、それを擦り取ろうとずっと拭いている。
「あのオジサン、よくうちの店に来るの。あの歳でもう働いてないのだって。いいわよね。気楽なご身分で。カフェでホットココア飲んで、新人のバイトにいい顔して、お疲れさまなんて言ったりして。いい人ぶってんじゃないわよって思うわ」
ぶつぶつと、さつきさんは私が聞いているとも聞いていないとも確認もせずに言い続ける。
「人を見下して、どんだけ偉い人なわけよ。所詮ホットココアしか飲まないくせに、常連顔して。うちのカフェの売りはコーヒーとケーキだって知ってるのかしらね」
「本当うんざりだわ」
そう言い残し、さつきさんはダスターでカウンターを擦るのをやめて、バックヤードに入っていった。
すぐさま、けたたましいさつきさんの笑い声が響く。
今の今まで、ここで愚痴っていた人とは思えなかった。
何となく先程のお客さんの方を盗み見ると、ココアを飲みながら新聞を広げているところだった。
こちらの噂話が聞こえたのか、どうなのか分からなかった。
さつきさんの日々の気持ちのアップダウンは、なんでなんだろうと思う。
一日ご機嫌で、私がカップを割ろうと、料理をひっくり返そうと、嫌味をひとつも言わずに「こういう日もあるのよねー」と言うかと思えば、私がストローを少し補充しすぎたとか、お盆を拭くのが少し遅かっただけで、雷が落ちるときもある。
基本的に仕事ができていないのだから、雷が標準装備されていて、たまに優しいだけなのかなとは思うのだけど。
そうこうしているうちに、ココアのお客さんがレシートを持って、レジにやってきた。
「あのおばさん、いつも怒ってるでしょ」
さつきさんはバックヤードで賑やかにお喋り中。
「気の毒だよねぇ。君もこんなところで、無駄に疲れることはないよ。早く辞めちゃいな」
じゃあ、ごちそうさま。
お客さんは、意味深な笑みを浮かべて、からんからんとドアベルを鳴らして出て行った。
さつきさんの笑い声と、さつきさんが「馬鹿」と呼んだバイトの子たちのお追従笑いが響く。
【今日の英作文】
苦手なもの : コソコソした陰口
What I don't like : Talking behind my back
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