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何を書いてもいいし、何を書かなくてもいい

SNSの類いとの適切な距離を取るコツは、「誰もそんなにあなたの生活や意見を気にしていないよ」という適切な感覚を持つことだと思う。(いい意味で。)

興味の湧く人の投稿を意識して読むこともあるだろうけれども、だからといって仕事で投稿しているわけではないのだ。内容に一貫性が無くても問題ない。網羅性が無くてもいい。きのう書いたことと今日書いていることが矛盾していてもいい。書いている人が良いと思っているならそれでいい。

にんげんだもの。

・一般的な常識をわきまえていれば、何を書いてもいいし、そして何を書かなくてもいいのだ

「楽しいことがありました!」と一度書いたからと言って、楽しい出来事があった時には必ず投稿しなくてはいけないということはない。
悩んでいることについて書いたからと言って、その悩みが解決したかどうかを書かなくても何の問題もない。
正直な気持ちを書きたいならそれを書いてもいいし、書きたくなくなったら書かなくてもいい。
虚構を書いてみたいなら書いてみたらいい。
何か起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。
それも経験してみたらいい。

特に、その自由なあり方を実践しやすいのがこのnoteのいいところだ。

・生活や気持ちの変化によって、書くことへの葛藤も生まれるかもしれない。

忙しくて書かなくてもいい。書くことや読むことに飽きて、開かなくなってもいい。
始めたことを途中でやめてもいい。やりたくないけど続けたいなら、無理やり続けてもいい。本人の自由だ。

読者を意識しなさすぎて礼儀に反するのは良くないが、あまりに読者を意識しすぎると自分の首を絞めることになる。実際、「格好良く見られたい」「こう書いたほうが良い」「こういう反応が欲しい」というような、なにか誘導的なものを文章から感じると、僕はテンションが下がる。きっと、noteを長く続けている人はそういう書き手の立ち位置を敏感に感じる人が多いのではないだろうか。そもそも、読んでいて楽しい記事と言うのは、僕の場合「この記事を書いている時、楽しかっただろうなぁ」と思える記事だ。
行間から感じる熱量というか、あるいは言葉に載っているその人の人生の重みというか、本音の圧力というか、そういった本質的な響きがあれば、自然と読んでしまう。
たとえ内容が深刻だったり、悲しかったりしても、真実な思いにはそれだけで価値があって、読んでしまう。
書きたいことを書きたいように書いた文章というのは、読み手にもなにか清々しいものを与えてくれる。そして、おそらく書きたいことを書き続けていると、だんだんその人らしく文章が上達していくのではないだろうか。

もし書き手として少し自意識が過剰気味だなと感じたら、しばらく離れるのが良い。それでも治まらなかったら、アプリを消す、あるいは思い切ってアカウントを消してしまうのもいい。もったいないと思えば、古いものは放置しておいて、新しいアカウントを作ってみてもいい。

記事は、道端に咲いている草花のようで、目に入るけれども大抵はそれで何ということもない。きれいだなぁと思って、スキをぽちっとするだけ。自分の記事も同じように、道行く誰かの目にさっと入ったならそれで十分。
でも時々、忘れられない花に目が留まって、気持ちをコメントに残したりもする。そのやり取りが、なぜかずっと記憶に残っていたりする。でも日々は変わらず過ぎていく。
それくらいの、雑草としての自意識がちょうどいいのじゃないだろうか。




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