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どんどん過ぎていく時代のなかで、じっくり考えてみる読書のすすめ(中村文則『教団X』)

 あなたは自分の世界観・人生観を自覚的に把握しているだろうか。人間は社会的な動物であるので、他者との比較を通して初めて「自分が何者であるか」を理解できるという側面を持っている。つまり、自分をよく理解するためには、自分の中を見つめるだけでなく、他者との様々なレベルでの対話が必要になる。
 しかし、自分の世界観・人生観を見つめるほどに洞察豊かな他者との深い対話というのはなかなか経験できないのではないか。その点において、本書は自分の生き方を考える貴重な機会を提供してくれる。 

中村文則著『教団X』

ドストエフスキーに憧れて:人間の暗部を見つめる


 「教団X」というタイトルにある通り、本書は新興宗教団体「教団X」の興亡に関わる群像劇である。主人公と言えなくもない人物もいるが、教団Xの教祖・沢渡と、それが生まれた母体グループの教祖・松尾という二人の教祖の語りにかなりの分量を割いており、各登場人物の心中の語りも少なくない。各人の抱える人生の物語があり、心象風景も丁寧に描かれている。ストーリー自体にサスペンス要素があるが、その娯楽性を追い求めた作品ではないようだ。
 読み進めながら私が感じたのは、どことなくドストエフスキー的な特徴があるなということだったのだが、実際に中村さんはドストエフスキーに強く影響を受けたそうだ。本書にもドストエフスキーとその作品名が登場する。キャラクターのアクの強さ、思想を語らせるための長い弁論。扱おうとしているテーマには、戦争や生命、宇宙、善悪、性欲、怒りと悲しみ、劣等感、暴力などが含まれていて、途中「これは何を読まされているのだろう」と思うほどの演説が続くところが似ていた。海外文学だと「まぁ、そういうもの」と思って読み進めるけれども、同時代の日本人が日本語でそれをやるところが興味深かった。英訳された作品によって、彼はアメリカでデイヴィッド・グーディス賞を受けており、人間の暗部を描く表現において評価されている。ドストエフスキーに憧れた日本人の書籍が英語に訳され、米国人にはどのように読まれているのかというのも興味が湧くところだ。

分かりやすさを求める時代に、じっくり考えることを要求する小説


 彼の作風は、現代において挑戦である。現代は、分かりやすく、咀嚼しやすく、反応しやすく、目につきやすく、刺激的な情報で溢れている。「大量生産大量消費」は物質消費だけでなく、情報にも芸術作品にも様々な方面で大きな波となっている。あらゆるものはデジタルになり、手元に収まるものになり、瞬時に全世界に広がるようになった。しかしそれでも、世界はそれほど分かりやすく切り取ってパッケージングできるものではない。
 この小説は、未だこの世界に満ちている不条理にとことん向き合おうとした中村さんなりの答えなのだろうと思う。登場人物たちの語りと葛藤と堕落と決断が、問いかけてくる。「あなたがなんとなく選び取っているその生き方を突き詰めるとどうなるか」と。

誰もが個人的宗教を持っている


 「教団」というある種特殊な設定を使っているのは、人生観のようなものを突き詰めて考えるためにはそういう道具立てが必要だからだ。(ドストエフスキーはキリスト教との対話があるが、日本人にはそれに類するものが無い。)日本人にはカルト教団や新興宗教による悲劇の記憶が残っており、宗教に対する嫌悪感が強い。初詣に神社に行き、クリスマスにはきよしこの夜が流れ、葬式にはお寺の坊さんを呼びながら、無宗教だという人が多い。しかし、既存の宗教を信奉していなくても、なにがしかの世界観をもって誰しもが生きていることを本書は自覚させてくれる。それが「宗教」というわかりやすい外形をとらないだけで、誰もが自分なりの世界観・人生観という「個人的宗教」を持っている。
 何を大切にして生きているか。金か、仕事か、恋人か、夫婦か、親か、子どもか。はたまた、社会貢献か、名誉か、世間体か、常識か、健康か、自己実現か、快楽追求か。
 いや、大切にするものが無くてもいい。何も大切にしないという生き方もある。執着しない。今日の食事があればそれでいい。ただ生きる。それもまた一つの世界観(そして個人的な宗教)と言える。
 多くの人はそこまで突き詰めて考えないかもしれない。突き詰めて考える必要が無いことも、それはそれで幸せなことだ。しかし、私たちは世界の不条理を知ってしまっている。考えずに生きてもいいが、自分の生き方が新しい一つの不条理の歯車になっていることを本書は知らせようとしている。

一人一人の生き方と世界の在り方

 資本主義社会の裕福な超大国が山のように食料を廃棄する一方で、今日一日の食事も手に出来ずに大勢の子どもたちが死んでいく貧困国がある。そこには経済の仕組みがあり、国同士、政治家同士、国際企業同士の駆け引きがある。戦争さえも、大義名分を振りかざした経済活動という側面がある。
 富と貧困、戦争と平和。大きな力がうごめく中で人間一人の生き方など小さなものに過ぎないとも思われる。一方で、その流れを作り上げているのは確かに小さな一人一人の人間の生き方の集積なのだ。
 自分の持っている「個人的宗教」を自覚しなくても生きていけるが、人類の歴史は一人一人の世界観の集積と集中によって今もどこかに向かっているのは事実である。

正論を語るためではなく、人間の生き方と世界の在り方を考えるために


 「これが人間の正しい生き方だ」と語ったところで、それは今更虚しく響くだろう。建前で塗り固めた理屈で人間は生きていない。だが建前もやはり必要ではある。本音が隠れていることを知りながら建前で付き合っていく。
 表向きは正義の顔をしている警察や教師も、内側を暴けば欲望渦巻く人間に過ぎないことは昨今のニュースを見るまでもない。教団Xの教祖・沢渡は医師としてアフリカで活動する中で、己の死生観と異常な性的嗜好を見つめて狂気を深めていった。高い倫理観が必要とされる職業に就いていても、その人の心の中に何があるのかは誰にも分からないものだ。
 人間たちは今日も正論を利用し、本音と建前を使い分けて、世界を造り上げていく。
 「多様性を認めることが素晴らしい」と謳われるなかで、人類の性的欲望の探究はいっそう肯定されている。しかし、それは良いことなのだろうか。欲望が刺激され、欲望が開発され、満たされることで、人間はどこに向かっているのか。ただ堕落しているのではないか。
 教団Xと教祖・沢渡の活動の強い求心力は性欲を利用する点にあった。その描写の仕方には好悪が分かれるだろうが、性欲と愛情の境目はどこにあるのだろうかということも大切なテーマだ。受け取れなかった愛情を求めて性欲に走る人。性欲に溺れていつまでも落ち着いた愛情を手に出来ない人。性欲と愛情は別々に扱えるものなのか。別々に扱うとどうなるのか。あるいは一つにしようとするなら、どのようにして望ましい形で一つに出来るのだろうか。一夫多妻の未開民族と、一夫一婦制の先進国の常識についても考えさせられる。

 ということで、「あなたがもっている人生観と世界の仕組みについて、突き詰めて考えてみませんか?」と本書は手招きしている。様々なテーマを様々な角度から検討している。しかも小説であるので、実存的に考えられるところが魅力的である。
 『教団X』という乗り物に乗って、人類の歴史と多様な世界観に触れて、自分の人生観について考えてみるのはいかがだろうか。

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