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主人公達が最初に到着した松尾山ってどんな所?

はい!こんにちは浮島龍美です!「VANISH!」にて主人公兼村未来知花蓮がタイムスリップで到着した最初の場所であり、潜伏地にもなった松尾山(まちゅーま)と言う場所がどんな場所だったか紹介したいと思います。

ちないに上の画像は那覇市歴史博物館提供の松尾山から眺める泊ですね。



松尾山(まちゅーやま)とは

 松尾山(まちゅーやま)とは「まつおやま」と書いて「まちゅーやま」と読みます。地域の人達から「マーチュー」と呼ばれていていました。那覇市歴史博物館のホームページにはこんな事が書かれています。

浮島(うきしま)と呼ばれた那覇の中核をなした丘陵跡。久米村(クニンダ)と若狭町村(わかさまちむら)の間にあったことから「久米村松尾」・「若狭町松尾」とも呼ばれた。松が生い茂る山林は、総じて松尾山(マーチューヤマ)と呼ばれ、かつては、松尾と呼ばれる多くの場所があった。

那覇市内史跡・旧跡詳細 松尾山跡 那覇市歴史博物館ホームページより

また、1603年に来琉した浄土真宗の袋中上人(たいちゅうじょうにん)がいた
桂林寺(けいりんじ)跡とされる場所もこの辺りだそうです。
なんとその跡地には袋中上人行化碑が1924年に建立されています。

こちちらは1877年に伊地知貞馨(いちじさだたか)という幕末の薩摩藩士によって書かれた「沖縄志」の中に書かれた図です。こちらは琉球併合前後の那覇の街並みが描かれており、松尾山がこんもりと見えます。

那覇及久米村図


 この頃はまだ琉球国時代の面影がありますが、1899年、ハジチ禁止令が出た辺りから大きく変わります。

 琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地であったとされるが、1899年(明治32)から実施された土地整理事業(土地・租税の制度改革:~ 1903年)により、県有地となった。その前後から松尾山の開発が始まり、1945年(昭和20)の沖縄戦以前は、西側から中央部にかけて、那覇尋常高等小学校(1888年開校)、那覇地方裁判所(1893年移転開所)、知事官舎(1916年開設)、沖縄県立第二高等女学校(1923年移転開校)、松山(まつやま)尋常小学校(1902年開校)があり、小学校の南側に沖縄県立沖縄病院(1901年移転開院)が置かれた。中央部から北側にかけては、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎(1910年設置)等と、公的施設が集中した。

那覇市内史跡・旧跡詳細 松尾山跡 那覇市歴史博物館ホームページより

 なんと土地整理事業によって県有地となり、そこから松尾山の開発が始まったようです。小説「VANISH!」の作中の時代(1916年)では那覇尋常高等小学校、那覇地方裁判所、松山尋常小学校、沖縄県立沖縄病院、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎がありました。金城拓也が潜伏地にするかどうかかなり迷っていましたね。
ちなみに知事官舎はその年の11月に設立されるみたいなので、作中でも言及されると思います。

一方、東側はどうなったかというと・・・

一方、東側の「東郷松尾(トーゴーマーチュー)」・「仲地小の丘(ナカチグヮーヌオカ)」等と呼ばれた丘陵には、念仏者の屋敷や長寿宮(ちょうじゅのみや)があり、一帯は、戦前まで松尾山の面影を残していたという。

那覇市内史跡・旧跡詳細 松尾山跡 那覇市歴史博物館ホームページより

東側は西側と違い、琉球国時代の面影があったんですね・・・その松尾山も沖縄戦を境に劇的に変化していきます。


劇的に変わった?戦後の松尾山

10・10空襲や沖縄戦により、殆どの公共施設が壊滅した松尾山。戦後、どうなったかというと・・・

終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校した。その他の場所は、米国マニング社管理の外人住宅地となっていたが、1977年(昭和52)からは公園整備事業が開始され、現在、松山公園・福州園(ふくしゅうえん)が整備されている。

那覇市内史跡・旧跡詳細 松尾山跡 那覇市歴史博物館ホームページより

なんと戦後那覇商業(戦前は今の那覇中の場所にありました)が設立し、アメリカのマニング社向けの外人住宅が設立されたそうです。
しかし、1977年以降は現在の形になっているそう。実は私も高校時代に部活の試合で那覇商業に行った事がありますが、そこが松尾山の周辺だったとは・・・ちなみに小学校~中学校まで那覇にいた私の母はこんもりとした丘の松尾山を微かに覚えているそう。


出典

伊地知貞馨「沖縄志」1877年




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