「3月18日に思うこと」
クック諸島滞在記No.11(番外編)
3月18日は僕にとって特別な日である。
10年前のこの日。僕は不安と期待をこれ以上ないぐらいに心の中に詰め込んで、テントと寝袋とカメラで重くなったバックパックを背負って日本から旅立った。息をするだけで口から不安が漏れ出しそうになるような状態の中、頭のなかで期待を膨らませ、なんとかその不安を胸の中に抑え込もうとしていた。
はじめは一年と思っていた旅は、結局3年になった。それはそれほどまでに世界が広かったということでもあるが、同時に、僕の中で究極までに煮詰まっていた生きることに対する鬱屈感を消化するのに3年もの時間が必要だったと言うことができる。
その旅は僕に大きな変革をもたらした。僕は世界の多様性を知り、大地の広さを知り、人の心の深さを知った。そして何より、「生きる」ということはどういうことなのかということを知った。
それから10年後の今年の3月18日。
僕はクック諸島へと向かおうとしていた。
この一週間ほど、刻一刻と変化していく世界情勢に翻弄されながらも、各地の知人たちの協力を得ながら、家族が住むクック諸島へと向かう手はずを整えていた。予定では、なんとかニュージーランドに入国し、知人の協力の下、2週間の自主隔離を経て、その後、コロナ陰性である証明を取ってラロトンガに向かうつもりだった。あとは都内で仕事を終わらせ、3月18日の22時のフライトに乗り込むだけであった。
しかし、この一日の間に各国の情勢は劇的に変化していった。経由地であるニュージーランドの渡航者に対する規制が強化され、クック諸島内での離島間の行き来が禁止され、そして何より僕が乗るはずだったオークランドへと向かうフライトも直前で変更されてしまい、考えていた自主隔離のプランをそのとおりに遂行することがむずかしくなってしまった。同時に、世界中の国々で国境が閉鎖されていき、その情報が次々と入ってくる。そんな一日だった。
東京で打ち合わせや、フォトコン審査などをしながら、僕は刻一刻と道を閉ざされていくのを傍観するしかなかった。結局、出発予定の2時間前。僕は家族と話をし、クック諸島行きを諦めることにした。
クック諸島へ向かう日付が3月18日であったことは偶然である。この日にどうしても外せない仕事があり、それを終わるのがたまたまこの日だっただけである。それでも、10年前自分のために旅立った日と、10年後、家族のために旅立とうとする日が同じだったということは、何かしらの縁を感じないわけにはいかなかった。
僕が3年間旅していたとき、いくつもの国境を越えた。内戦状態に突入し始めるシリアの国境を超え、東チベットでいくつもの検問をくぐり抜け公安に捕まりながらも目的地に向かい、南スーダンの独立前夜にウガンダからまだスーダンか南スーダンか判然しない状態の地域に潜り込んだ。いまから思えば随分と無茶なことばかりしていたけれども、それでもなんとか切り抜けてきた。
10年前の3月18日から始まった旅も成し遂げた。だから、今回もうまくいくだろう。そう自分に言い聞かせている部分があった。
しかし、結果、僕は諦めざるを得ない状況に追い込まれ、結局、飛行機には乗らなかった。その判断が正しかったかどうかは、正直、わからない。
東京で仕事を終わらせてからそのまま飛行場に向かう予定だったので、朝、鎌倉の家を出るときに荷物を全部持って出て、東京駅に預けてあった。行かないという判断をして、予約していたものをすべてキャンセルし、協力してくれていた知人に連絡を入れ、妻と話したら、あとは東京駅の荷物をピックアップして誰もいない鎌倉の自宅に帰るだけである。
でも荷物を預けたコインロッカーの前まで行きながらも、なかなか荷物を取り出すことができなかった。何度もその前まで行くのだけれども、開けられない。開けたら最後。クック諸島行きプランが終わる。それを受け入れる心の余裕がなかった。
しかたなく、東京駅の片隅のイスに座り、何をするでもなく2時間近くボォーと過ごした。まわりには同じように何をするでもなく座っている人たちがいて、その人達の人生や置かれている状況を勝手に想像して時間を潰した。
それで結局、何か心の整理がつくわけでもなく、夜遅い時間になって仕方なく立ち上がってコインロッカーに行って扉を開いた。無機質な小さな閉鎖空間に僕の旅の荷物が詰め込まれていた。その中には家族のための食料が詰め込まれている。
そのバッグの様子は、まるで行き場のない僕自身のようにも見えて、これ以上なく悲しくなってしまった。
今年の3月18日、東京の空はいつにもなく澄みわたり青かった。確か、10年前の3月18日も快晴だったと記憶している。
この日は、青い空が広がる日なのかもしれない。
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