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「水と土の時代」

クック諸島滞在記(番外編) No.10

 いまさら改めて書くまでもないけれど、コロナの影響で行き先を失っている。
3月4月に予定されていた撮影はすべてキャンセル。もともと海外撮影が主な仕事の僕は、コロナの影響をもろに受けた形である。ついでに、クック諸島は日本に対して早い段階から入国制限をしており、また飛行機の8割近くが減便となり、そう簡単には島にも戻れない。

 多かれ少なかれ、そういう人は世の中に多くいて、僕だけが何も特別なことではないのだろうけれども、それでもなんとか道筋を立てようと、様々な動きを試みてはうまく行かずに日本で無駄に時間を過ごしている。こんなときには自分のテーマを撮影すればいいのだろうけれど、そもそも撮影予定地としていた国も入国制限をしていてアクセスするのも難しい。


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 過剰で偏見に満ちた情報、冷静さを失った根拠のない感情的な意見。社会システムの欠陥があぶり出されて、同調圧力がますます上昇。いまのこの現状において、自分自身を保つことができる人がそれほど多くはないのかもしれない。特に東京近辺では難しいだろうと思う。

過度に複雑化したシステムにがんじがらめになり、都会に生きる人間はシステムの一部として生きる存在になっている。その人自身が主体ではなく、システムが主体になっている。そして、その結果としてというか、反比例してというか、もしくは比例してというか、我々の思考や感情はますます単純化されていく。

 毎日右から左へと流れていく情報の奔流を覚めた目で見てみると、そんなことを感じる。同時に、客観的に見てるつもりでも、知らぬ間にその流れにどっぷりと飲み込まれている自分に気がついて、はっとするということを繰り返している。


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 こんなとき、近くに水があり、木々があればどれだけいいだろうかと思う。水が滴る音を聞き、葉が風に揺れる様子を眺める。土を触り、種を植え、生命が芽吹く様子を感じることができないだろうかと。


 僕個人のことで言えば、ラロトンガ島で波が砕ける音を聞き、夜中に椰子の実がぼとりと庭に落ちる音を聞き、クジラが潮を吹く音を感じられると、どれだけいいだろうかと思う。そうすれば、システムに取り込まれることもなく、自分自身を保ち続けることができる。


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 ラロトンガ島はかつてトゥム・テ・バロバロと呼ばれていた。彼らの言葉で「音が生まれる場所」という意味である。

 ラロトンガで過ごしているとき、僕は様々な音を耳にする。その大半が自然の音である。森が深く、海が眩しく、空が青く、雨が冷たい。それだけの島である。しかし、そこは音に溢れている。そして、人々はその音を聞きながら生きている。僕はそれこそが幸せの意味だと感じている

これからの時代は「水と土の時代」だと思う。水に触れ、土の匂いを嗅ぐ。そして自然の音を聞き、心の平穏を得る。

 今の時期は、そういう生き方を実現することについて考えを巡らせることができるいい機会だと自分に言い聞かせながら、日々過ごしてる。

 クック諸島は遥か遠くである。

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