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科学の「先端」は「すみっこ」と紙一重

「先端科学」「先端技術」「最先端の研究」って、どんなイメージでしょうか?

未来的? すごい?

逆に、先端を行ってない科学技術の価値はなんでしょうか。

今回は「先端」という語を切り口で、科学や技術をどう語ることができるのか、考えてみたいと思います。

戦後、経済が急成長する中で、日本は最先端の研究を行い、最先端の技術を多く生み出してきました。けれど、当時最先端ではない技術を集めて作られた「iPhone」は、残念ながら日本からは生まれませんでした。

日本に足りないのは、イノベーションでしょうか。しかし、イノベーションとは何なのでしょうか。どうしたらイノベーションが生まれるのでしょうか。先端の科学や技術がないと生まれないものでしょうか。令和に入り、中国が科学の先端を牽引する中で、日本はもう挽回の余地がないのでしょうか。

科学コミュニケーションを行う上で、サイエンティストやエンジニアでない人が「科学」や「技術」という語とそれに付随する語(今回は「先端」)についてどんなイメージをもっているのか、どんな関係なのかを知ることは、同じ土俵で話をする上でとても大事なきっかけになる、と私は思います

「先端」は、文字通り学術領域の先っぽ

もしも科学を何かの形にたとえて欲しいと言われたら、私は「針山、もしくは、木の枝」と答えます(針山では伝わらない世代もいるかもしれませんが)。なぜ2つなのかは後で述べます。

針山を例えに使うのであれば、針の一つひとつが何らかの学術領域だとして、針の先が「先端科学」です。先っぽが根元より細いのは言うまでもありません。そして、ある領域の先端に昇りつめるのはとても難しいことです。けれど、もし先端に辿り着けたら”時の研究者”あるいは”今一番旬な研究者”になれるかもしれません。

先っぽを走れる人は多くない

科学の先端に行ける人は、研究の能力やスキル、言語能力が高いだけでなく、時代の流れをつかむ幸運も必要でしょう。それはごく少数の研究者が到達する場所であり、その他多数は先端には届かないのです。

また、先端に行く人には、そこに到達した人のみに訪れる悩みもまたあるでしょう。まず、その領域の話ができるのは、世界でもわずかな人に限られます。国内ではある一人しかその研究をしていないと言う場合もあるかもしれません。ナンバーワンか、オンリーワンか分かりませんが、先っぽを走る人にはそれ相応の試練と孤独があり、その地位を保つのも簡単ではないはずです。

一方、先端ではない研究には価値がないのでしょうか。もちろんそれは大きな誤解です。

先端ではない研究者には、大きく2つの役割があります。

1つは、先端研究の結果が本当に妥当で信頼できるかどうかを確かめるという役割です。基本的には誰がやっても同じ調査をしたら同じ結果になる「再現性」のある結果の方が、揺るがない「知識」として確立できます。

価値基準によっては「すみっこ」にも見える

もう1つは、ある学術領域と別の学術領域を横断するような知識をつくるという役割です。この役割では、先端の科学知識を有する必要は必ずしもありません。

草花を針1本で支えることはできませんが、複数の針を使うことで草花を支えることができます。科学の価値を「役に立つ」という側面から見るなら、最先端よりも横断的で応用的な研究の方がむしろ好まれるかもしれません。

けれど、先端ではない研究者が皆、領域を橋渡しするような役割を果たすとは限りません。たとえば、異なる学術領域の橋を渡すのではなく、新たな学術領域をつくってしまうという手があります。ある程度人が集まれば、新しい学会や研究会を作ることもできるでしょう。少なくともその新しいコミュニティの中では先端に行くことができます。

学術領域を作ることも知識や技術を生み出す上では大きな成果にもなり得ます。しかしそれはあくまで学術的な価値であって、社会一般の価値基準とは異なるものです。前者の要素が強い場合、社会一般からみて何をやっている研究者集団なのかがよく分からず、重箱の隅をつついているようにしか見えないかもしれません。

科学は針山か、それとも木の枝か

最初に科学を形に例えるとしたら「針山、もしくは、木の枝」と述べました。もし針山の例えに近いのであれば、科学はとても狭い範囲の中で鎬を削る世界の集合体と見做せます。全体としては調和が取れているように見えて、ある1点に集中するとブスリと突き刺さるやもしれません。

もし「木の枝」に例えるなら、何か大きな本流と、分かれた枝があり、相互に少しずつ重なったりしながら影響し合うのが科学という見方ができるでしょう。

科学が実際どっちのイメージに近いのかは、私には分かりかねます。

しかし、もしこれが科学コミュニケーションの文脈だったら、どちらが正解かは重要ではありません。それよりも、どちらに近いイメージで科学をより多くの人に【認識させるか】の手腕が問われます

世の中の多くの人は、科学の先端がどうなっているのか、科学者のコミュニティの役割は何かということを知りません。漠然としたイメージ(たとえば舌を出したアインシュタインなど)しかもっていません。そんな科学の文脈を持たない人と科学的な話をしようとするときは、話の内容だけでなく、その土台となる科学の営みやコミュニティ、知識の形にまで注意を払う必要があります。それを怠ると、全く異なる認識で捉えられてしまうという危険が増します

そしてこのタイプのミスコミュニケーションは、学術領域の異なる研究者同士でも、コミュニティの文化が大きく異なる場合起こる可能性があります。

共通の認識ではないからこそ、対話から始める

研究者と一般市民、もしくはそれぞれ異なる専門領域の人がうまくコミュニケーションを取るためには、まずはお互いをよく知る必要があります。その方法は対話です。知ってて当然と鷹を括らず、言葉の一つひとつのイメージを出し合うところからスタートしていくのが、結局のところ一番近道になるでしょう。

最後に、そんな対話の場をつくる科学コミュニケーターの専門性であり役割の1つは、そういった背景や文脈への配慮、そして最適な方法を具体的に提案し、実行できることです。少しまわりくどい感じも与えるかもしれませんが、少なくとも私個人は一人ひとりの認識に細心の注意を払いながらコミュニケーションの場をデザインしています。


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