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学問の楽しさって、入り口は「分かるとおもしろい」だと思う

私は現在科学エデュケーター/科学コミュニケーターとして活動をしています。学校教育では現在大学で理科の教職科目を担当したりもしています。詳しくは自己紹介をご覧いただけると嬉しいです。

こんなプロフィールを書くと、側から見るとさぞ理科や科学が好きなんだろうと思われるかもしれませんが、実のところ、私は最初から理科が好きだったわけではありません。残念ながら、宇宙がすごく好きだとか、昆虫が好きだとか、そういう分かりやすいエピソードを持っていないんです。

じゃあなんで理科や科学の教育やコミュニケーションに従事するようになったかというと、振り返ってみると、原動力の根源は「分かるとおもしろい」だったのかなと思います。

理科は苦手な教科だった

私は中2まで理科が得意ではありませんでした。というか、英国数理社の5教科どれをとっても点数は大体同じくらいで、特別得意な科目も、特別嫌いな科目もありませんでした。

そんな中、理科はほんのちょっとずつ成績が悪くなっていきました。中学校の理科は退屈で、授業中何度も意識が飛んでいました。高校受験を意識し始めた頃、それはもう散々な結果だったのを記憶しています。

中3のときお世話になった理科の先生が非常に熱心な方で、その先生のおかげで中学校の理科がわかるようになりました。分かるといろんな知識の繋がりがわかり、おもしろくなっていきました。

ところが、高校に入り、また理科が苦手になっていきました。

つまずいたのは、化学の物質量(mol)。モルって何じゃ!?・・・となり、化学は大の苦手になりました。

一方、選択科目として履修した生物は大の得意でした。プラスマイナスでほんのちょっとプラスだったので、大学では教育学部に入り、理科の教員を目指すことにしました。

大学の4年になり、卒論をやるとなったとき、テーマに私は化学を選びました。なんで化学ってあんなにわかりにくいのだろう、もっとわかりやすいものにできないかな、と。

今考えるとだいぶ安直な理由だなと思います。このテーマを選ぶにあたり、そもそもなぜわかりにくいのかについて調べることになり、闇の深さを知る羽目になります。わかりやすくするためには、わからなくなる原因を取り除いていかなければならないので、当然と言えば当然なのですが、選んだ当時私はそのことをよくわかっていませんでした。

ただ、その深い闇に入ることで、自分自身の化学に対する理解は間違いなく深まっていきました。そしてやっぱり「分かるとおもしろい」と思いました。卒論のテーマを選んでから10年以上経ちましたが、今でもそこがスタート地点になっています。

「分からない」にもちゃんと理由がある

卒論のテーマでとった「そもそもなぜ分からないのか」ということについて考えるというスタンスは、今でも続いています。

科学教育や科学コミュニケーションの活動を見ると、とにかく分かりやすく、おもしろく、を意識するあまり、観察や実験をやたらやったり、科学実験のサイエンスショーになったりするものを多くみてきましたが、私はそれだけでは理科や科学のおもしろさには永遠に辿り着けないと考えています。

上記のようなわかりやすいおもしろさは、基本的に元々理科や科学が好きな人のロジックによって成り立っています。しかしこの考え方は、理科や科学が嫌いな人、分からない人の苦しみには全く寄り添っていません。

極端な例えを言うなら、それは納豆嫌いな人に無理やり納豆を食わせて好きにさせようというのと同じくらい無茶苦茶なやり方だと思います。

普通、納豆がなぜ嫌いなのかを調べるでしょう。ネバネバが嫌なのか、臭いが嫌なのか。嫌いな理由がわかったらそれを取り除こうとするでしょう。スモールステップを作りながら、長い時間をかけて徐々に慣れていってもらおうとするでしょう。

理科や科学など、学問を好きになってもらうのも基本同じで、好きな人のロジックではなく、嫌いな人のロジックをまず知るところから始めなければならないと、私個人は思います。そして分からなかった理由を克服し、「分かるおもしろさ」が芽生えて初めて学ぶ大きな原動力へと変わっていくのではないでしょうか?

究極の目標は、自律的な学び

ただし、嫌いな人のロジックを知るだけでは、まだ学問の本当のおもしろさには辿り着けないでしょう。

本当におもしろいと思えることは、誰かから与えられるものではなく、放っておいても勝手に求めてしまうはずです。究極的には自律的な学びが成立することが学問の究極的な楽しみ方なのではないでしょうか?

先ほど悪い例の矛先としてあげたサイエンスショーには、この考え方が根本的に不足しています。サイエンスショーで生まれるのは、お客様であって学習者ではありません。何度もショーを見たくなるのであれば、ビジネスモデルとしてはそれもアリかもしれませんが、ラーナーではなくカスタマーになった途端に自律的な学びとは縁が遠くなっていきます。誰かから与えられるおもしろさにしがみつくほど、得られなくなった時の失望感もまた大きくなっていきます

それは麻薬と同じです。

野生の動物を見ると、あるところまでは大事に育てながら、しかし最後には親は子を突き放し、独り立ちさせる日がきます。学問にも同じことが言えるとは私は思います。より深いおもしろさは、自分の力で得たときほど大きなものになっていきます。

おわりに

最初にも申し上げた通り、私は理科や科学の教育やコミュニケーションに従事しながら、宇宙が好きだとか昆虫が好きだとか言った、分かりやすいエピソードをもっていない人間です。でもそれは自分にとっては誇りでもあります。なぜなら「分かるとおもしろい」ということをブレずに持ち続けることができるからです。

今回の話はかなり私個人の価値観が表出したものとなりましたが、これを読んだあなたはどう思いますか?ぜひ考えてみてください。

余談:学問の出口は何処

学問は突き詰めていくと、分かることよりも分からないことの方が増えていきますよね。分かろうとすればするほど沼にハマっていきます。

出口?そんなものはないです。

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